第8話 四条大橋 2/4

 当然のことながら桂もその噂を聞いており、正体のわからないその暗殺者の名が「岡田以蔵」ではないかといことまで聞き及んでいた。しかし 京の町を震撼させ、自分と同じように幕府側が追っている暗殺者が、いつ見つけ出されるともわからない橋の下で乞食同然の生活をしているはずがない、今頃はどこかに匿われているはずである。それにこの男から殺気を全く感じない。桂は半ば自分の思い違いではないかと思い始めていた。しかしこの男の口から思いも寄らない言葉が発せられた。

「おまさんは新選組に追われちゅうみたいやけんど、わしも同じように幕府の役人に追われちゅうがぜよ」

 その男は平然と言った。

「なぜ追われているのですか」

 桂は恐る恐る聞いてみた。

「おまさんが先に追われちゅう理由を話せば、わしもわしのこと話すぜよ」


 桂は何やら陽動尋問にかけられているような気分になった。目の前の男が暗殺者なのかどうも知りたい気持ちはあるが、今ここで自分の素性を明かすわけにはいかない。

「惚れた女がいまして新選組に拉致されました。何とか奪い返そうと新選組の屯所に行って辺りを伺っておりましたら、新選組隊士に見つかってしまって・・・」

「それで怪しいやつと勘違いされて、逃げてきたってことかえ」

「ええ、そんなところです」

「えらい情けないことやき」

「申し訳ないことです」

「けんど、ほがなところに一人で殴り込みをかけちょったら、命がなんぼあっても生きて戻ってこれやせんぜよ。あいつらは人殺しの玄人集団じゃき」


 その時だった。頭上の橋の袂から土手の斜面を橋の下へと何者かが降りてくる足音が聞こえた。桂にはその足音がはっきりと聞こえているのに、岡田以蔵と名乗るその男の耳には何も聞こえないのか、何食わぬ顔で平然としている。この男は本当に幕府側の役人に追われているのか、桂はそう思った。足音はどんどん近づいてくる。依然として以蔵は動こうとしない。戦うにしても刀がない。ならば逃げるしかない。捕まれば殺される。しかし今橋の上に駆け上がれば、町中にうようよいる追手に見つけられに行くようなものである。それよりも命の恩人であるこの目の前の男を置き去りにして逃げるのか、また自分は大切な人を見捨てて逃げるのか、桂は葛藤した。橋の横の土手を降りてくる男の足元が見え始めた。袴を履いている。腰のあたりまで見えた。刀を差している。新選組の羽織を着てはいないが明らかに武士である。こんな夜半に橋の下の増水した危険な川の近くにまで土手を降りてくることを考えれば、桂を捜索している追手に間違いない。実にまずい状況である。見つかるのは時間の問題だった。その武士はさらに土手を降り、顔が橋の床板の底から見えそうになってきた。桂は意を決し、その武士が近寄って来る逆の方向に以蔵の手を引いて走り出そうとした。しかしすぐ隣にいたはずの以蔵の姿がどこにもないのである。桂は恐る恐る振り向いて、追手と思われる武士の方を見た。その武士はすでに顔が見える所まで土手を下ってきていたが、立ち尽くしたまま静止している。その追手の背後には以蔵が立っていた。以蔵はその追手の左肩を左手で羽交い絞めにし、首に短刀を突き刺さしていた。頸動脈を斬られたのか血飛沫が舞っている。追手の左肩越しに以蔵の顔の上半分だけ月明かりに照らされて見えた。以蔵の目が先程までの気さくなイメージと全く違う。まるで獲物を仕留めた狼の目ようだった。


「間違いない。この男は人斬り以蔵だ」

 桂は確信した。

「いやいや、危なかったぜよ。こいつに見つかるところやったきに」

 以蔵は追手の首に突き立てた短刀を抜き取り、何の躊躇もなく増水した川の中にその追手を放り込んだ。激流に飲み込まれた追手の身体は、あっという間に見えなくなった。まだ息があったはずである。それをいとも簡単にまるで虫でも殺すかのように放り込んだのである。

 

 桂が暗躍していたこの時代の京で、殺人事件は珍しいことではなかった。しかしこの時まで桂は、目の前で人が殺される場面に出会ったことがなかった。一瞬の出来事ですぐに事態を把握することできず、呆気に取られていたが、冷静さを取り戻してくると何とも言えない不快感が押し寄せてきた。

「どうやら新選組のもんじゃのうて、会津藩士やったかもしれんぜよ。まぁ、川が元に戻るまで死体は見つからんやろうし、見つかっても相当下流に流されちゅうからこん場所がばれることはないぜよ」

 以蔵は先程までの気さくな感じの男に戻っていた。

「あなたはあの人斬り以蔵なのですか」

 桂は徐に以蔵に言った。


「わしはほがな風に呼ばれちゅうがかぇ」

「攘夷派を取り締まろうとした幕府側の役人や攘夷派を裏切って幕府側に寝返った者を、何人も殺めてきたあの人斬り・・・」

「そうぜよ。もう何十人斬ったかのう」

「命を助けたいただいた御恩は生涯忘れるつもりはありませんが、一つ言わせていただきたい。自分たちの都合で人の命を奪うことは間違っておられる」

「はっ、何がおかしいかえ。わしは何か悪いことでもしちゅうがかえ」

 以蔵から返ってきた思いも寄らない返事に桂は唖然とした。桂の問いかけに対して、以蔵は全く理解できないような顔をしていた。そして桂は悟った。この男にとって殺人とは罪深きことでも何でもなく、自分たちの政策を推し進めていく上で、極々当たり前のことなのだと。桂はもう二度と会うこともないこの恩人に対して、殺人を止めるように説き伏せることに何の意味もない思い、それ以上は何も言わなかった。


「以蔵殿、短刀はどこに隠しておられたのですか。それにどうやってあの男の背後に回り込んだのですか。しかもあのような短い時間の中で・・・」

「以蔵殿とか呼ばんでええぜよ、以蔵でええきに。さっきのやつは、土手を下ってきてたきに、向こうはこっちのことに気が付いちょらんかったけんど、こっちは相手の様子が良く見えとったぜよ。そやき相手の首がみえる瞬間を待って相手に気付かれん位置まで近づき、一瞬で背後に回り込んだがぜよ。早ようから近づいていったら気配でばれゆうし、ばたばたしよったら足音で気付かれてしまうきに、いかに素早く接近するかが勝負の分かれ目になるぜよ」


 以蔵は平然としていたのではなく、追手の首が見えるまで待っていたのである。言い換えると、追手の気配に気付いた時からすでに迷うことなく殺すことを決めていたと言うことになる。殺された追手もどこから逃亡者が襲い掛かって来るかわからない状況であったから、敵の気配には敏感になっていたはずである。武士であればその感覚はさらに研ぎ澄まされていたはずである。そのような相手に気付かれずに最接近するためには、的確なタイミングで起動しなければならない。遅過ぎれても早過ぎても相手の背後に回り込む前に気付かれてしまう。それにも増して音もなく疾風の如く駆け抜けなければならない。以蔵がいた位置から相手がいた位置までは約八メートル。桂が首を右から左に動かした間に、以蔵はその距離を駆け抜けて追手の首に短刀を突き立てていた。恐ろしいほどの瞬発力である。まさしくプロの暗殺者である。

「そうそう、刀はおまさんが座っちょった藁敷きの下に隠しちょるきに。わしは至近距離で戦うときにゃ、短刀を使うことが多いきに」

「また、あなたに助けていただきましたね」

「なーに、礼にゃ及ばんぜよ。まあ、おまさんのおなごのことは心配じゃが、今はよー寝た方がええきに。こんからのことは明日起きてまた考えたらええぜよ。遠慮しゃせんとここで寝ればええぜよ」


 桂はびしょ濡れの服を脱ぎ、裸のまま藁敷の上に寝転んで目を閉じた。しばらくつい先程見た殺人の情景が脳裏に蘇ってきたが、深い眠りに落ちるまでそう時間は経たなかった。

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