第2話 逃げの小五郎 2/6
桂は池田屋を命からがら脱出した後、夜の闇に紛れ、追手の目を掻い潜りながら河原町通を南へ疾走した。捕まれば確実に殺される。とにかく身を隠す必要があった。しかし夜とは言え京の町のど真ん中にいては隠れる場所もない。逃げ場のない桂が目指したのは幾松のいる置屋だった。
幾松とはこのころ桂が入れあげていた芸者の名である。目指す置屋は島原という町にあり、池田屋からは河原町通を南下して五条通を西へ約四キロメートルの距離がある。途中何度も追手に出っくわし、その度に物陰に隠れなければならず思うように前に進めないでいた。しかも追手の数が次第に増えてきていた。夜と言うのに蒸し暑い。走り続けたせいなのか、ただの冷や汗なのか、桂の頬を尽きることなく汗が流れた。このままじっとしていても、捕まるのは時間の問題になってきていた。桂は焦った。ほんの一時、追手の気配を感じなくなった瞬間に、桂は斬り合いになる覚悟で河原町通へと飛び出した。人の気配を感じない。追手が集まり過ぎて分散してしまったのか。桂はこの隙を突いて猛然と走った。河原町通を右に曲がり、五条通を西へ走った。このまま走り続けることができれば、目的地の置屋もそう遠くない、そう思った矢先だった。烏丸通を過ぎたところで右手に人の気配を感じた。一人ではない、二人か、三人か、複数人であることは間違いない。
「まずい、見つかったか」
桂は振り返る余裕もなく走り続けた。確かに追手らしき人影から殺気を感じた。桂は走りながら刀の鯉口を切ったが、何もなかったように気配が消えた。
「気のせいだったのか。確かに殺気を感じたのだが・・・」
追い詰められた状況である。酔ってふらついていた町人を追手と勘違いしたのかもしれない。そう思い、安堵した桂はそのまま走り続けた。目的地の置屋に着いた時には、逃走を始めてから二時間近くが経過していた。桂はこの置屋に何度も訪れたことがあり、裏口から敷地内に難なく入ることができた。だれにも見つからないように、足音を忍ばせ裏口から裏庭へと入り込み、庭木の陰から渡り廊下に幾松の姿が見える瞬間を待った。二時間なのか、三時間なのか、待ち続けた時間の長さはわからない。しかも雨が降り出してきた。雨は次第に激しくなり、雷雨になった。その間にも置屋の塀の向こうを追手が駆け抜ける足音を何度となく聞いた。桂はただひたすら気の遠くなるような時間をびしょ濡れになりながら、身動き一つせず待ち続けた。渡り廊下に姿を見せた幾松を見つけた時には、足が痺れて歩くことができなくなっていた。
「幾松、幾松、こっちだ、こっちを見ろ」
桂は彼女の名を聞こえるか聞こえないかわからないような声で呼び続けた。
「桂はん、こんな夜中に、それもえらい雨の中でどないしはったんどす」
幾松は傘もささずに庭に飛び降り、桂の元へ駆け寄った。桂は痺れる足で無理に立ち上がろうとしたがよろけて倒れてしまい、雨に濡れた土の上を泥まみれになりながら幾松の方に向かって這って行った。
「追われている。すまないが匿ってほしい」
幾松は桂がかなり危ない状況にいることを直感的に悟った。しかし厄介な事件に巻き込まれ、関わり合いになりたくない、というような素振りを微塵も見せることなく、桂に肩を貸してやりながら置屋の二階にある自分の部屋に招き入れた。桂は部屋に入るまで終始人影がないか気配を探っていたが、幸いだれにも自分の姿を見られずに済んだ。桂は追手の目に触れることなく、恰好の隠れ家に身を隠すことができたのである。
幾松は翌日から夏風邪をこじらせたと店の者に嘘をつき、しばらく休ませてもらうようにした。置屋の連中にも風邪が移っては困ると言って部屋には誰も入れないようにし、二人も部屋からほとんど出ないようにした。食事は給仕の者にお粥かにぎり飯を作らせ、それを桂と二人で分け合った。最も困ったことは用を足すときであった。夜であれば客の振りをしてほっかむりをしたまま厠に行くことはできたが、昼の間はそうはいかない。どうしようもないときは、幾松の部屋の中央にふすまがあり、部屋を仕切ることができたので互いが見えないようにして部屋の中で用を足した。夏なのに部屋を閉め切っていたので部屋中は暑さと臭気が溢れていたが、二人はひたすら耐え続けた。
桂が幾松の部屋に身を隠してから二日が過ぎた。外はまだ雨が降り続いていたが、かなり弱くなっていた。二階の窓の隙間から、追手が引っ切り無しに駆け回っている様子を見ると桂は無言でため息をついた。
「よう降り続きますなぁ。いつになったら止むんどすやろ」
幾松の世間話に桂は何も答えようとはしなかった。もともと愛想のない男であった。幾松の我慢も限界に達しているだろうが、彼女は辛い思いを顔にすら出さない。
「桂はんは、ひとつお聞きしてよろしいどすか。なんで追われてはるんどすか」
「新選組の襲撃に巻き込まれた」
桂は愛想なく答えた。この時、幾松はまだ池田屋襲撃事件のことを知らなかった。
「何でどすか?」
「止めに行った」
「何を?」
「暴動だ」
「暴動?何の暴動どす」
「それは・・・」
桂は元々口数の多い男ではないのだが、幾松がしつこく聞いてくる上に匿ってもらっている負い目もあり、桂はぽつりぽつりと話し始めた。
「二日前の夜、長州藩らの脱藩した過激派浪士たちが、京の町に火を放って、帝を長州に連れ去さろうと目論み、池田屋という宿で同志らと会合を開こうとしていた。私はそれを止めに行ったのだ」
「また何でそんな恐ろしいことを」
「攘夷を訴えた長州が会津と薩摩の企てによって、京から追い出されたことは知っているな」
「へえ。ある程度のことは・・・」
「その後も京に潜伏していたやつらが、幕府に対して巻き返しを図ろうとしてあんな馬鹿なことをやろうとした。私はただ止めに行っただけなのだ。まさか新選組が襲撃してくるとは思っても見なかった。皆、斬られたか捕まったのかもしれん」
桂は苦痛の表情を浮かべた。
「桂はんはその計画に反対どしたんか」
「そんな一時的な暴動で、世の中が急転することなどありえん。無駄に人が死ぬだけだ。今はじっと耐え抜いて好機を待つ時なのだ。それなのにあいつらは・・・」
桂は言葉に詰まった、そして声を絞り出すよう言った。
「あいつら命を無駄にしやがって。なぜあいつらはそんなこともわからなかったのか。私はあいつらを止めることができなかった」
「それで桂はんはお逃げになりはって、今も追われてはるんどすか」
「そうだ」
幾松はもう一つ聞きたいことがあった。なぜ仲間を置いて逃げたのか。幾松の知る桂はそんな男ではない。きっと何かの事情があったに違いない。しかし桂の辛そうな顔を見て幾松はそれ以上襲撃のことについて根掘り葉掘り聞くことを止め、話題を変えた。
「桂はんは、止めに行っただけどしたんなら、そのことを新選組とやらにちゃんと話しはったら、お咎められへんのとちゃいますか」
「そんな話が通じる相手ではない。私も攘夷派で活動している身だ。拷問された挙句に首を刎ねられる」
「そしたら京は危のうどす。一旦長州へお戻りになった方がよろしいのでは」
幾松は桂の気持ちを刺激しないように、逃げると言う言葉ではなく戻ると言う言葉を使った。
「いや、それはできんのだ。池田屋の一件で久坂や伊藤のような血の気の多い長州藩士たちが黙っているはずがない。あいつらを止めねば、また無駄な血が流れることになる。私は京に留まってやらなければならないことがあるのだ」
幾松は数日のことなら置屋の連中の目を誤魔化せるが、さらに長くなるとさすがに怪しまれる。そうなる前に手を打たなければならないが、京の町中には追手がうようよしていることは間違いない。しかも幾松の思いとは裏腹に桂は京に留まると言っている。一度言い出したら聞かない男である。幾松はそれ以上何も言わず、桂の潜伏をこのまま続けさせる意を固めた。
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