第12話 生きてこそ 2/4
橋の下をただ眺めていただけでは、時間を持て余した。そうなると桂のすぐ横にいる犬の存在が、妙に気になってくる。犬に気を使って話しかける必要もないのだが、何か気まずい思いを感じ始めた。寅之助はハァーハァーと小刻みに呼吸を繰り返しながら、桂のすぐ横に座り込んでいる。桂はぎこちなく寅之助の頭を撫でようとしたが、寅之助はむくっと立ち上がり唸り声をあげた。闘犬として知られている土佐犬である。やはり怒りを露わにした顔は迫力がある。桂は思わず後ずさりしてしまった。桂は寅之助から少し距離を置いたままにしていると、寅之助はまたハァーハァーと小刻みに呼吸をしながら座り込んだ。しばらくの間、また川の流れの音だけしか聞こえない時間が続いた。元々口数の少ない男ではあるが、真横に人がいて一言も話さないことはない。相手は言葉などわからない犬である。なのにこの気まずい思いは、一体何なのだろうか。ご機嫌伺いのつもりで頭を撫でてやろうとすば反発してくる。かといって話しかけたところで、返事をするわけでもない。しかし人の大きさほどある立派な生き物である。桂はこの気まずさに耐えられず、独り言を話し始めた。
「土佐は遠い所と聞いている。江戸に行った時は海を渡ったのであろう。私も船に乗ったことはあるが、よくもまぁ、犬を乗せる船があったものだ。おまえはその時はまだ小さかったのか。まぁ、それはどうでもいい。おまえのその威風堂々とした面構えは、何とも羨ましい。私にはないものを持っている。おまえは子供の時からそうだったのか。私はおまえと違って、よく友達にいじめられた。喧嘩は好きではなかったから、いじめられてもやり返したりはしなかった。いや、本当のところはやり返す度胸がなかったのかもしれん。それで強くなりたくて、剣術の稽古を必死でやった。朝も昼も夜も竹刀を振り続けた。そうすれば面白いように上達し、私をいじめる者はいなくなった。もう夢中で稽古をした。だれにも負ける気がしなかったし、実施に試合で負けたことがなかった。それがいつの間にか傲りとなってしまったのだろうなあ。友達は手のひらを返したように、私に媚びるようになった。それが返って勘違いに拍車をかけたのだ。全く人と言うものは都合が悪い。高杉だけは別だったがな。あいつは私がどんなに強くなろうが、私に対する態度は何も変わらなかった。周りの目など何も気にしない。こっちが気を遣うくらいだったよ。私と違って小さいことを気にしない。いつももっと大きな事ばかり考えているやつだ。あいつに言ったことはないが、あいつみたいになりたいと思っていたものだ。その後、剣術の腕を磨くために江戸へと向かったのだが、長州の中で負け知らずと言っても江戸は違っていた。私程度の者ならゴロゴロいた。おまえは京で坂本龍馬殿に会ったことはあるのか。彼は強かった。隙がないから攻められずにほんの少しもたついていると、稲妻の如く打ち込んで来る。彼のような剣士のことを、天才と言うのだろうな。新選組のやつらとも試合をしたが、彼らには負ける気がしなかったなあ。勢いばかりで剣に繊細さがない。あれから彼らは少しくらい腕をあげたのだろうか。しかし剣術の稽古に励んでいたころは、稽古をすればするほど腕が上がって、自分は何でもできるのだと勘違いをしていたのかもしれない。私は外国の脅威から日本を守りたいという志があって、長州を後にしたのだが、剣術のようには上手くはいかなかった。ただただ日本の行く末を思っているだけなのに、だれもわかろうとはしてくれない。今のままでは日本が外国に侵略されるのだ。しかしその日本をだめにしようとしているやつらに、散々に屈辱を味あわされた」
池田屋襲撃の約一年前、一八六三年九月のことである。この時、八月十八日の政変が起きた。尊王攘夷を唱える長州藩士が、薩摩藩、会津藩らの謀略により、三条実美ら攘夷を支持する公家らと共に京から一掃されたのである。『七卿落ち』とも言われている。桂が味わわされた屈辱とはこのことである。池田屋襲撃はこの情勢を盛り返そうとした過激な長州藩士のクーデターを、事前に察知した新選組が阻止しようとして勃発した事件である。桂の独り言はまだ続く。
「仲間が何人も殺された。仇を取りたいと思わないことはない。しかし殺し合いで物事は解決されない。解決されたとしても、それは一時のことだ。人は心の中に憎悪の念を持ったままでは、いずれ争いを巻き起こす。アメリカと言う国があって、そこではあらゆる問題が、話し合いで解決されているそうだ。日本はどうだ。話し合いどころか異論を唱える者がいればすぐに殺してしまう。それではだめなのだ。それでは外国に見くびられるだけだ。しかし日本人であれば、日本と言う国を良くしたいと願う気持ちはだれもが同じなのに、主義主張が違うからと言ってろくに話し合うこともせずに相手を殺してしまう。有能な人材がもう何人も死んでいった。皆、日本を背負って立つ有望な人材だったのになんと馬鹿げたことだ。こんなことではいつまで経っても何も変わらない。殺し合うことなく人を活かして世を変える。それが新しい日本を作る唯一無二の道なのだ。そのために私は生きて生きて生き抜かねばならん。まぁ、言葉がわからないおまえに話しても、仕方がないがなあ」
寅之助は相変わらず土の上に腹ばいになって座ったまま、小刻みに呼吸をしていた。桂が話し終わると、むくっと立ち上がり桂のすぐ横に陣取った。桂がもう一度頭を撫でてやると、今度はじっとしたままだった。床板の上に座って桂から身を隠しながら話を聞いていた以蔵は、寅之助の顔を思い浮かべながらうっすらと微笑んだ。
「小五郎、おまさんにはあだ名が付いちゅうがよ。町中のやつらが何やら『逃げの小五郎』とか言うちょっとたぜよ」
偵察と言う名目で白昼堂々と町に出て行って、帰ってきたかと思うと、桂の噂話の報告だった。
幕府側を全面支持する会津藩は新選組を組織し、尊王攘夷派の取り締まりを強化していた。彼らは民衆を味方に付けようと、攘夷派の悪評を町中に広めようとしていた。特に最重要人物であり池田屋襲撃後に逃亡を図った桂がそのやり玉に挙げられた。桂小五郎という長州藩士は、天皇を祀り上げて幕府を転覆させ、太平の世を乱世に変えようと企んでいる。その目的はただ戦争がやりたいだけの精神異常者である。しかも自分の命が危うくなれば、仲間を見捨てて逃げ去る武士の風上にも置けないやつだと世間に触れて回った。現代と違って情報源を持たない京の町人たちは、作られた風評を鵜呑みにし、桂に対して「逃げの小五郎」とあだ名をつけて罵った。以蔵が乞食の姿で町を歩き回っている時に、町人たちのそのような噂話を耳にしたのだった。
「だれがそのような事を言っているのだ。」
「町人どもやき」
「その呼ばれ方は実に気に入らん」
桂は京の町人たちに小馬鹿にされていることを不満そうに言った。
「だれが言い出したかはわかりやーせんが、まっことのことやき仕方がないぜよ」
以蔵の言う事は間違っていないだけに、桂は閉口した。
「小五郎、こりゃ罠じゃき」
「罠?」
「おまさんをおびき出すための会津のやつらの罠じゃき。どうやらおまさんが池田屋から逃げたのを新選組に垂れ込んだのは、騒ぎを見に来ちょった野次馬どもらしいけんど、そいつらがおまさんの名前を知っちゅう訳がないきに。だれかが意図的にうわさを流したとしか思えんぜよ。ほがなことするとしたら、幕府側のやつらしかおらんぜよ。長州藩士はみんな血の気が多いやつばかりじゃと思われちゅうきに。馬鹿にされたちいきり立ってのこのこと出てくるとでも思われちゅうのかもわからんぜよ。まぁ、ここは聞き流して、大人しくしておいた方が身のためぜよ」
暗殺が主な役割だったとは言え、討幕活動を通して幕府側のやり方をつぶさに見てきた以蔵には、会津藩の策略が手に取るようにわかった。
「なるほど、そう言われればその通りかもしれん」
桂はすんなり納得した。
「ところでまだ私の捜索は続けられていたか」
桂は以蔵に追手の状況を確かめた。
「おー、新選組だけやのうて、会津藩士や見廻組らしきやつらも、うじゃうじゃおったがぜよ」
「そうか、そうなのか。昨晩も言ったが、私をかばって新選組に捕らわれている女がいる。いつ殺されるかわからん。何とかして助け出したい」
「そうかえ。けんど、この状況じゃとどうしようもないやき。そのおなごは新選組の屯所に捕まっちゅうがえ」
「それもわからん」
「どこにおるのかもわからん上に、町中をうろうろと探し回っちょったら、たちまちおまさんが捕まってしまうぜよ。そしたら助け出すどころの騒ぎやなくなってしまうきに。残念やけんど、そのおなごのことは諦めるぜよ。こんな人殺しばっかりしよったら、いろんなやつがおって、自分のおなごを盾にして逃げようとしたやつもおったぜよ。こんな時代やき、おなごを見殺しにすることなんぞ、なーんも珍しいことやないきに。悪いこと言わんきに、そのおなごのことは諦めるぜよ」
「いや、そんなことができる訳がない。私の命に代えても助け出さねばならんのだ」
「おまさん、死にたいんかえ」
以蔵が冷たく言い放った。桂はこのどうしようもない状況に成す術もなく、肩を落とした。
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