第11話 生きてこそ 1/4
「小五郎、そろそろ朝飯の時間ぜよ」
「小五郎?」
「おまさんは小五郎じゃき。小五郎に小五郎っちゅうて呼んで何かおかしいかえ」
「いや、特に何もない。ところで土佐藩では目上の人に敬語を使うという習慣はないのか」
以蔵は桂より五歳年下であった。以蔵はこの時桂の歳を明確には知らなかったが、五歳も年が離れていれば見た目で年上とわかりそうなものである。
「そがなもんはありゃしゃーせんきに」
もちろん以蔵の勝手な思い込みである。
「朝飯の時間と言うのはどういうことなのか、以蔵殿」
「以蔵でええきに。まぁ、ちっくと待っとおせ」
それ以上、以蔵は何も言わない。桂はしばらく待ってみることにした。するとしばらくして橋の欄干の方から、縄で吊るされて降ろされてくる何やら風呂敷に包まれたものが見えた。以蔵はそれを乱暴に縄から外し取った。
「朝飯が来たぜよ。小五郎の分もあるぜよ」
「それは何だ。」
「にぎり飯ぜよ」
以蔵が広げた風呂敷の中には、竹皮で包まれていた特大のにぎり飯があった。
「なぜそんなものが運ばれてくるのだ。しかも私がここにいることまで知っているのだ」
桂は目を丸くして言った。
「まぁ、こんまい話は後にして食べればええきに。別に悪ぃことをしてる訳やないぜよ。おまさん、昨日の晩からなーんも食べとらんがぜよ。遠慮しゃーせんと食べとおせ」
確かに昨日の夜から何も食べないまま京の町中を走り回り、濁流の中でもがき続け、すでに空腹の限界を通り越していた。桂は以蔵から手渡されたにぎり飯にかぶりついた。以蔵は自分のにぎり飯を半分に割って、小五郎にやった。桂はそれもあっという間に平らげてしまった。
風呂敷堤の中には、竹筒に入ったお茶まで用意されていた。しかしにぎり飯は以蔵と桂の二人分と聞いていたが全部で三個あった。以蔵は残った一つを竹の皮に包むと飲み終わった竹筒を風呂敷に包み、垂れ下がったままの縄にくくり直し、軽く引っ張ると風呂敷包は再び上へて戻って行った。
「あれは一体どなたが届けてくれるのだ」
「わしが世話になっちゅう人から使いが来るぜよ。朝、昼、晩と三食付きぜよ。さっき、朝のうちにそん人の所まで行ってきて、人数が一人増えたって言うてきたきに。使いのもんは渋い顔をしてたけんど、ちゃーんと人数分持ってきてくれよったきに」
「毎日、朝、昼、版ににぎり飯が・・・。人数分のにぎり飯と言ったが、なぜ三個なのだ。以蔵殿と私と二人しかいないではないか」
「いやいや、三人やき。おまさんのすぐ後ろにおるぜよ」
桂は恐る恐る後ろを振り返ってみた。
「何だ、これは!」
桂は思わぬものと目が合った。しかもそれはいつの間にか桂のすぐ後ろにいた。自分の背後に忍び寄られていたことに、全く気が付かなかった。桂は自分が常に息を殺していなければならない逃亡者であることを忘れて、思わず絶叫してしまった。そこには桂が今まで見たこともないような巨大な犬が、よだれを垂らして立っていた。
「こいつはわしの弟みたいなもんじゃき。寅之助っていうぜよ。まっ、わしは短くしてトラって呼んどるきに」
「いつから、このばかでかい犬と一緒に住んでいるのだ」
「わしが子供の時から一緒ぜよ。あん時は子犬じゃったけんど、わしと一緒に江戸まで行って、今は京におるきに。犬のくせに日本中を旅しちゅうがぜよ、こいつは。頭のええ犬でわしの言う事はなんちゃー理解してくれよるぜよ」
桂はそれまで犬を飼ったこともなければ間近で見たこともなかったので、どう接していいのかわからず、立ち上がって以蔵の背後に隠れるように座り込んだ。
「どうしたぜよ。小五郎は犬を見るのは初めてかえ」
「初めてだ。触ったこともない」
土佐犬は闘犬として良く知られている。いかにも獰猛そうな顔つきをしているのだが、人懐っこい性格でも知られている。しかし桂はそんなことを知る由もない。
「トラ、飯やき」
そう言って以蔵はにぎり飯を寅之助の前の放り投げてやった。寅之助はあっという間にそれを飲み込んでしまった。
「しかし昨日の夜はここにいなかったではないか。この犬はどこにいたのだ」
桂は不思議そうに以蔵に言った。
「こいつは好きな時に好きなところに行っちょって、飯の時間になるとここに戻ってくるきに。勝手気ままに生きちゅうがぜよ。子供ん時からそうじゃったきに。わしは手がかからんで済んだがぜよ」
以蔵は平然と答えた。
「それならば、一緒に生活をしていると言えるのか。まるで餌だけのつながりではないのか」
「それは違うぜよ。四六時中、一緒におるのが家族ってもんじゃないぜよ。わしらは気持ちがつながっちゅうがや。言葉は通じやせんが、互いに必要な時がわかるがぜよ。その時は気が付いたら一緒におるきに。どうでもええ時は、別に一緒におらんでもええ。わしらはそのさじ加減がちょうどええがぜよ」
「ほー、そういうものなのか」
桂はそう言いつつも、以蔵の言う事が良く理解できていなかった。一般的な武士の家庭に育った桂にとって、家族はいつも一緒にいる存在であることが当たり前のように思っていた。
「小五郎かて、今んなって親元を離れて生活しちゅうけんど、きっとおまさんの親は毎日のように心配しとるぜよ。おまさんがある日突然、腹を空かせて家に戻ってきたら、そりゃこじゃんと食べさせてくれるに間違いないぜよ。それと同じっちゅうことやき」
「それとこれとは違うのではないか・・・」
やはり桂には以蔵の言っていることがよくわからなかった。確かに今は離れ離れに暮らしているが、それは幼少の時代から生活を共にし、親に育ててもらった感謝の気持ちや培ってきた絆があるから、離れていてもお互いのことを心配し合える。しかし以蔵は餌をもらうためだけに帰って来るこの犬のことを、自分の兄弟だと言う。この男と犬の間に、一体どのような絆があるのだろうか。
「くどいようだが、やはり以蔵殿とこの犬は、餌でつながっているとしか思えんのだが・・・」
「以蔵でええきに。そりゃあ、ちっくと違うきに。餌でつながっちゅうがやないきに。生きるためにつながっちゅうがぜよ」
「ほー、そういうものなのか」
「今にわかるぜよ」
桂はもうこれ以上、この話の続きをすることをやめた。
すっかり日が昇り、蒸し暑くなってきた。以蔵は桂の追手がどうなっているのか様子を見に行くと言って出て行った。桂は以蔵も追われている身なのに、出歩いて大丈夫なのかと心配したが、新選組に自分の手配書は回っていないから問題ないと言って意に介さなかった。確かに手配書は出回っていなかったが、以蔵も正体がばれるようなことがあれば決してただでは済まされない。
桂は寅之助と共に四条大橋の橋の下に残された。犬の扱いに慣れていない桂は、どう接していいのかわからず、しばらくの間無言のままでいた。ふと頭上の橋を見上げた。この橋は何度となく渡ったことがあるが、今まで橋の上面しか見たことがなく、橋の下から見たことは一度もなかった。当然ながら川の中に柱が建っているのだが、その柱の上にはいくつもの梁が張り巡らされ、その梁の上に床板が並べられている。梁は縦横に複雑に張り巡らされていて、一目見ただけではその構造をすんなり理解することができない。それに橋の上から見ただけではわからないが、床板があちこちで腐っていて今にも折れそうなものがある。橋の上面だけを見ていただけでは、裏にある実態まではなかなかわからないものだと桂は思った。
「橋とて人と同じようなものだな」
桂は独り言ちた。
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