第10話 四条大橋 4/4
川の流れる音とセミの鳴き声が聞こえた。心地よい音と耳障りな音が混ざり合うと、不思議な感覚になる。翌朝、桂は目覚めたが自分がどこにいるのかしばらくわからなかった。なぜこんな固い土の上で、しかも裸で寝ているのか。記憶の糸を手繰り寄せ、以蔵と言う男に助けられて、橋の下で眠りについたことを思い出した。すぐに飛び起きようとしたが、身体のあちこちが痛くてなかなか起き上がることができなかった。首だけ傾けてみると、すぐ横で寝ていたはずの以蔵の姿が見当たらなかった。鴨川の流れもかなり落ち着いてきているようで、以蔵の寝床のすぐ近くまで押し寄せていた濁流は、いつもの清流に戻りつつあった。桂は裸のまま這うようにして岸に近づき、鴨川の水で顔を洗った。昨晩の逃走劇と濁流の中でもがき続けたせいで、身体中の筋肉が痛んでいた。
昨晩は暗くて分からなかったが、手足は擦り傷だらけだった。腹の辺りが特に痛むので、よく見てみると横一文字に薄っすらと斬られた切傷があった。逃走中に斎藤と出っくわし、いきなり斬り付けられて、間一髪でかわした時に付けられた傷である。斎藤の踏み込みがあと一、二センチメートル手前であったら、桂の腹は切り裂かれていたところだった。桂が顔を洗っている時にも、相変わらずどたどたと橋の上を人が駆け抜けて行く足音がした。桂は慌てて橋の袂まで戻り、周辺から姿が見えないように隠れた。それにしても気になるのは幾松のことである。新選組を置屋から命懸けで外に連れ出してくれたお陰で、桂が逃走する時間を稼ぐことができた。今頃、どこでどうしているのか。拷問にかけられていないか、拷問の末に殺されている可能性もある。何とかして助け出したいが、刀すら失ったこの状況ではどうしようもない。かくなる上は自分が新選組に名乗り出て、幾松を釈放してもらうよう嘆願するしかない。それでは幾松の決死の行動が無駄になる。桂はあれこれと思案したが、妙案など思い浮かばない。
しばらくして以蔵が戻ってきた。手に何か薄汚れた布切れのようなものを持っている。
「目が覚めたかえ。おまさんの着るものを調達して来たぜよ」
手に持っていたものは、布切れではなく着物に股引、草鞋だった。
「これを着るぜよ。そしたらおまさんも立派な乞食に見えるぜよ」
以蔵は得意気にぼろぼろの薄汚れた着物を桂に手渡した。
「これを着るのですか」
「そりゃそうぜよ。裸のまま外を歩き回るのは、おまさんも望まんやろに」
「それはそうですが、この着物はどこから調達されたのですか」
「あぁ、その辺に乞食なんてごろごろしちゅうきに、一人取っ捕まえて、身ぐるみ引っ剥がしてきたぜよ」
「ということは、これはどこかの乞食が着ていたものですか」
「そうぜよ」
桂は武家に生まれてこの方、羽織や袴しか着たことがなかったが、以蔵があまりも得意気な顔をしているので渋々受け取ることにした。しかし臭いはかなりきつかったので、すぐにそれを着る気にはなれなかった。
「以蔵殿」
「以蔵でええきに」
「この着物、川で洗って干してから来てもよろしいですか」
「好きにしたらええぜよ。そうそう、その中に手ぬぐいがあるきに、それをほっかむりにしといたらええぜよ。乞食の中にほがな立派な髷を結っちゅうもんはいやせんぜよ」
桂はなぜ自分が乞食の身なりをさせられなければならないのか疑問に思いつつ、裸にほっかむりという何とも不格好な姿で、洗濯するために川岸へ向かおうとした。
「そう言えば、まだ私の名を告げておりませんでした。申し遅れましたが、私は・・・」
「桂小五郎はんやないかえ」
「なぜ、私の名をご存知なのですか」
「よー知っちゅうきに」
「なぜなんですか」
「そんなかしこまった言葉使いせんでええぜよ。友達と話す時みたいにしゃべってくれればええきに」
「はぁ」
「わしは江戸で高杉晋作はんにえらく世話になっちょったがぜよ。高杉はんからおまさんことはよー聞いちゅうがえ。『いごっそう』な割に気が小んまい。人一倍責任感が強いきに、いっつも目をかけとかんと心配なんじゃ、とか言っちょったがぜよ」
「高杉のやつがそんなことを・・・。ところで、『いごっそう』とはどのような意味なのですか」
「『いごっそう』ちゅうたら、一度言い出したら他のもんの言う事なんぞ、聞きやせんもんのことぜよ」
高杉晋作。この時期に尊王攘夷派として活躍したあまりにも有名な長州藩士の名である。桂との親交が深く、後の江戸幕府による長州征伐において、長州藩が数に勝る幕府の大軍勢を打ち負かしたのは、この二人の貢献によるところが大きい。
「わしは土佐藩を脱藩して、しばらく京におったんやけんど、その後いろいろあって江戸に行くことになったがぜよ。そこで高杉はんと出会うて、居候までさせてもろうたがぜよ。江戸では大そう高杉はんの世話になっちょったきに。そん時、高杉はんからおまさんの話をよお聞かされちょったがぜよ。小五郎、小五郎っちゅうて、おまさんの話ばっかりするきに、名前まで憶えてしもたぜよ。おまさんの顔は知らなかったけんど、鴨川でおまさんを助けた時にすぐに小五郎じゃとわかったぜよ」
「そうだったのですか」
「おまさんとわしは高杉はんを通じてもう友達みたいなもんやき、堅苦しい言葉使いは無用ぜよ」
「そうですか。高杉とは松下村塾で出会ってから親交が厚く、攘夷について何度も語り明かした。あいつは過激なやつで喧嘩ばっかりする。私はいつも仲裁役だった。江戸でも暴れ回っていたと聞く」
「そうそう、何かよおわかりやぁせんが、イギリスとかいう外国の建物に火をつけて燃やしとったぜよ」
「あいつならやりかねない」
「あん人は自分が言い出したことは必ずやり通すきに。それにわしのようなもんにも、よー世話を焼いてくれたぜよ。あん人はそういう人ぜよ。ところで何でおまさんみたいな気の小んまいやつと、豪傑を絵に書いたような高杉はんが、ほがに親しい間柄なんぜよ」
桂はあまりにも気配りのない問い掛けに少し苦い顔をしたが、命の恩人を無碍にすることはできず渋々答えた。
「何と言うか、私にもわからないのだが、やつとはなぜか馬が合った。高杉と議論すると過激なことばかり言う。やれ誰々を斬るだの、外国を打ち払うだの、外国を擁護する幕府と戦争するだのと・・・。私はそんな争い事を繰り返すだけでは、諸外国からの脅威に曝されている今の日本の状況が良くなるなど、有り得ないといつも高杉に言ってやった。高杉は目の色を変えて反論してきて、私も負けずと言い返して・・・。言い合いをしているうちに取っ組み合いの喧嘩になるのだが、次に会ったときは、何もなかったように同じ議論を繰り返していた。いつしかお互いにその議論が楽しみになってしまっていた」
「何かよぉわかりゃーせんが、おまさんも高杉はんも根本は似たような人間なんやき。」
「そうかもしれない」
桂がいつの間にか笑みを浮かべていることに、以蔵は気付いていた。
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