第5話 逃げの小五郎 5/6
降り続いた雨が夜になってようやく上がった。夜の静寂に雨の臭いが残っている。月が見える。新選組の捜索は昼夜を問わず続けられていた。京の町中を駆け回っている新選組隊士たちのほとんどは、幾松を屯所に監禁して尋問が始められたことをまだ知らなかった。
桂は夜の闇の中を月明かりを頼りに西へと向かった。幾松のことを思うと、自然と足が速くなる。しかし周囲への注意は怠らない。例え猫の足音がしようともその身を物陰へと隠した。
一時間程歩き続けただろうか。正確な位置はわからないが、自分がすでに壬生の町中に差し掛かっていることは感覚で分かった。そろそろ新選組の屯所が近いはずである。桂は行き先もわからず、狭い路地を彷徨った。大雨の後で地面がぬかるんでいて、足元は泥だらけになっていた。桂は気が付かないうちに、四条通を歩いていた。ふと右手に灯りが見え、桂はその方向へと足を向けた。その先には暗闇に中でひと際明るい光を放っている建物があった。この夜中に煌々と灯りを焚いている家など他には考えられない。桂はここが新選組の屯所だと悟った。しかしこの先どうすればいいのか。いきなり確証もなく斬り込むわけには行かない。桂はとりあえず長屋の角に身を潜めて様子を伺うことにした。
「怪しいやつ。何者だぁ」
桂の背後から突然声が聞こえた。不覚にも全く気配を感じることができなかった。幾松の所在を確かめるために、ほんの小さな声も聞き洩らさないように前方にある屯所の方に神経を集中させ過ぎてしまっていた。その声の主は新選組三番隊隊長・斎藤一(はじめ)だった。新選組の中でも沖田総司、永倉新八らと一、二を争う剣の使い手である。桂の捜索から三人の部下を連れて、一旦屯所に引き上げてきたところであった。桂は相手がだれなのか知る由もなかったが、新選組隊士に見つかってかなりまずい状況になったことだけは理解できた。斎藤たちにすれば、刀を差し身なりからして武士の姿をしているが、夜と言うのに編傘を被っている実に怪しい人物にしか見えなかった。桂は無言のまま斎藤の横を歩き過ぎようとしたが、斎藤が桂の前に立ちはだかった。
「わしらの屯所を物陰から伺っておったな。こんな夜半になぜ編傘を被っておる。怪しいやつ。何者だ。名を申せ」
それでも桂は無言のまま斎藤の横を通り過ぎようとした。斎藤は徐に桂の肘をつかんだ。その瞬間にこの得体の知れない男の底知れぬ覇気が、斎藤の腕を介して体中に伝わった。
「この男、できる」
斎藤はこの男の剣の腕が並々ならないことを瞬時に悟った。しかしその男は戦闘の意志を示すわけでもなく、斎藤の腕を振りほどいて立ち去ろうとした。
「待たんかっ!」
斎藤の部下の一人が、叫びながらその男の後を追った。
「待てっ、その男、ただ者ではない」
斎藤がその言葉を言い終わらないうちに、その隊士は左脇腹に一刀を叩きこまれ、地面にうずくまっていた。出血していない。峰打ちだったが立ち上がれそうにない。一介の隊士と言えど日々剣術の稽古を積み重ねてきた剣士である。剣の腕は決して劣るものではない。しかし一瞬にして倒された。新選組の中でも最強と呼ばれた斎藤ですら戦慄した。その男の一連の動作が全く見えなかったのである。相手の脇腹を狙うには抜刀すると同時に低い体勢を取らなければならない。しかしその動作を相手に見られてしまえば、狙われているのは下半身ということが読まれてしまい、相手は後方にのけぞって防御態勢に入る。倒された隊士はその暇すら与えてもらえず、気が付けば一刀を叩きこまれていた。さらに峰打ちをするためには抜刀してから刀を一旦持ち変えなければならないのだがその瞬間すら見えなかった。夜の暗がりのせいではない。あまりにも動きが早過ぎたのである。斎藤たちが呆気にとられていたその隙に、その男は屯所と逆の方向に走り出しており、気付いた時には十メートル程離されていた。斎藤たちは後を追った。しかしその男の足が恐ろしいほどに早い。走っても、走っても、その男の走る速度が落ちず距離が離されていく一方だった。
「なんと足の速い男よ」
斎藤は全力で走りながら嘆いた。
桂は道幅の狭い千本通を抜けて四条通に出て、右に曲がり西へ走った。逃走を始めてから三百メートル程しか走っていないが、斎藤たちはどんどん距離を離されていき早くも息が上がってきた。四条通は今でこそ道幅が二十メートル近い大通りになっているが、この当時は数メートル程しかなかった。夜は明かりがなく、斎藤たちの視界から男の後ろ姿が薄れていく。
「このままでは逃げられる」
斎藤はまだ近藤が幾松を尋問するために、屯所に連行した一件を知らなった。それ故に、今逃走を図っている男がよもや自分たちが血眼になって探している桂小五郎だとは思いもしなかった。桂小五郎であれば危険を冒して新選組の屯所の近くに現れるはずがない。剣の腕は立つがただの怪しい人物程度の認識しかなかった斎藤は、追跡を諦めようとした。その時、前方から黒羽織を着た一団が斎藤の方に近づいてくる。偶然にも桂の捜索の真っ最中であった永倉新八率いる二番隊が通りかかった。桂は二番隊の横を走り過ぎていく。それを横目で見過ごした永倉は、息も絶え絶えで自分の方に向かって走って来る斎藤に気付いた。
「斎藤ではないか、どうしたのだ」
「怪しいやつを追跡しています。私らの屯所を長屋の陰から見張っておりました。追ってください」
「わかった」
そう言って走り出そうとした永倉だったが、数歩ほど走って立ち止まった。
「どうしたんですか、永倉さん」
「もしや、その男、桂小五郎ではないか」
「えっ、桂ですって、なぜやつがわざわざ私たちの屯所に現われたのですか。殺されに来たようなもんですぞ」
斎藤は怪訝そうな顔をする永倉に返答した。
「話は後だ、追うぞ」
永倉は斎藤にそう言うや否や、二番隊の一人に新選組の屯所へ、もう一人に会津藩邸へ応援を呼びに行くように指示を出し、残った八名の隊士と共にすぐさま追跡を開始した。永倉は池田屋で捕えた長州藩士を拷問にかけて、幾松のことを聞き出した張本人である。しかも近藤たちが幾松を屯所まで連行した一連のことも知っていた。桂が幾松を奪還するために、屯所の様子を伺っていたと直感的に悟ったのである。
さすがに桂の走る速度が少し落ちてきた。永倉たちは徐々に桂との距離を縮めていった。斎藤もその後を追う。十名余りの新選組隊士に取り囲まれてしまえば、どのような剣の達人でも勝算は薄い。何としても逃げきらなければ、桂の命運はここで尽きてしまう。
「追手の足音の数が増えた。しかも徐々に足音が大きくなってきている。新手か」
桂はどのような経緯かはわからないが、逃走の途中から追手が増え、猛烈な勢いで迫ってきていることを背中で感じた。
「永倉さん、なぜあの男は四条通を真っ直ぐ逃げ続けるのでしょうか。狭い路地に入ろうとは思わないのですか」
隊士の一人が前を走る永倉に言った。
「頭のいいやつよ。迂闊に路地に逃げ込んで挟み撃ちにされれば、戦いは絶対的に不利になる。わしらを巻けると分かった段階で路地に逃げ込むつもりだろう。よほど足に自信があるようだが、わしらに出会った時が悪かった。このまま追いつけばやつは斬り合いを仕掛けてくる。油断するな」
その差が二十メートル近くまで縮まってきた。少し離れて斎藤たちもその後方から続いてくる。永倉の目に桂の後ろ姿がはっきりと見えてきた。桂にも永倉たちの足音だけでなく、荒い呼吸の音も聞こえるようになってきた。追いつかれるのは時間の問題である。桂は壬生の屯所からすでに一・五キロメートル近くを全力で走っていた。永倉たちはまだ五百メートルも走っていない。しかし桂に足を止める様子は見受けられない。
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