第4話 逃げの小五郎 4/6
一八五三年、二百六十年余り続いた江戸幕府を崩壊へと導く大事件が、ある日突然起こった。黒船来航である。江戸幕府が二百年以上もの間、鎖国政策を引いてたため、高度な文化を持つ外国人を見ることがなかった日本人は、さぞかし恐怖に怯えたことであろう。この恐怖こそが幕府を転覆させる尊王攘夷活動の原動力になったと言っても過言ではない。それにも増して日本が当時のアジア諸国のように、ヨーロッパの国々によって植民地化されることに対して、日本人としてのプライドが許さなかった。植民地に成り下がるくらいなら死を覚悟して戦う。その精神は長らく安泰の世が続いていたにも関わらず、武士の精神の中で崩れることなく息づいていた。
長州藩における尊王攘夷活動が、黒船来航から一足飛びに始まった訳ではない。吉田松陰という一人の人物の死が、世の中を引っくり返す大騒動の引き金となったのである。黒船来航以来、江戸幕府は長年の鎖国制度を度返しして、アメリカに対して下田と函館を開港することを一方的に決めてしまった。事実上、鎖国の終わりである。これを良しと思わない諸藩は、外国を打ち払うべく勢力を拡大し始めた。この動きを幕府は弾圧しよとした。井伊直弼が断行した安政の大獄である。吉田松陰もこの渦に巻き込まれて、処刑されてしまった。吉田松陰は当時ではご法度であった脱藩をためらいなくやってのけたり、下田に停泊していた外国船に無断で乗り込もうとしたりと、やることがあまりにも破天荒な男だった。しかし彼が長州藩で開いていた松下村塾では、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文らが彼の世俗的な思想に捉われない教えを学び、その才能を開花させるべく着々と育っていた。その中に桂小五郎の姿もあった。桂は松下村塾の門下生ではなかったが、彼の影響を大いに受けた一人である。吉田自身は尊王攘夷活動に慢心していたわけではないが、彼の揺ぎ無い志が愛弟子たちに伝播し、日本を欧米列強の魔の手から守るという強い意志へと継承されていった。
長州藩士の意思と結束力が異常なまでに強かったために、幕府に抑圧された彼らのフラストレーションがやがて暴走し始める。池田屋襲撃の際に、長州藩士たちが集まって会合を開いた目的は、京の町に火を放ち、その混乱に乗じて将軍・徳川慶喜を暗殺して天皇を長州へ連れて行くと言う過激なものであった。これはテロ行為と言っても過言ではない。事前にこのことを新選組に察知され、桂らは松下村塾の塾生・吉田稔麿をはじめ多くの同志を失うことになってしまった。長州藩内で統制が取れていたわけではなく、一部の過激な志士が先走って巻き起こしてしまった事件だった。しかし同志たちを失ったことで結束力の強い長州武士たちは、幕府に対する憎悪を強め、討幕への動きを一気に加速させてしまうことになった。桂小五郎はその渦中にいた。
新選組の屯所では真夜中であるにも関わらず、幾松に対する尋問が行われた。
「女相手に手荒なことをするつもりはない。しかしそれも事と次第による。それはお前次第だ。知っていることを全て話してもらおうか」
泣く子も黙るような鬼の形相で土方は言った。
「土方はんとおっしゃいましたかなあ。先ほども申しましたように、そのようなお方は存じまへん」
「おれらは急いでいる。お前の戯言に付き合っている暇はない。どうしてもしゃべらんと言うなら拷問にかけるまでのこと」
「おやっ、新選組はんは、男の中の男の集団と聞いておりやす。どんな強い相手でも背中を見せずに、正面から斬り込んでいきはるけど情には厚い、と京の町で専らのお噂になってはりますがおなご相手に拷問どすか。まるで野蛮な人殺しの集団みたいどすな。それやと山賊となんら変わりおへんなあ」
「おんな、減らず口はその辺にしておけ。おれたちは使命のためなら女、子供でもためらいなく斬る。今に始まったことではない」
土方は名刀・和泉守兼定の鯉口を静かに切った。しかし幾松は微動だにしない。こうして土方と幾松の押し問答が続いた。いつもの土方であればその場で殴る蹴るの拷問を始めるところだったが、相手が女ということでその場にいた近藤の承諾を願った。
「歳よ、さすがに女を竹刀で打ち回して、そんなことが京の町中に知れ渡れば、新選組の名が廃る。この女、このまま縄で縛ったまま寝さすな。交代で見張りをさせろ。朝になれば音を上げて口を割るじゃろう」
近藤の返事は、土方の期待を裏切った。
「えらく女には甘いな。近藤さん」
土方が不満そうに言った。
「おんな子供には手を上げるな。わかったな」
近藤はにべもなくそう言った。
「ところで近藤さん、総司から聞いたがあの女の部屋に奥の間があって、そこに桂がいたかもしれないのに踏み込まなかったそうじゃないか。まさかあの女の気迫に押されたわけじゃないだろうなあ。それにあいつは池田屋で同志を置き去りにして逃げるようなやつだ。そんなやつがまさか女を助けにのこのことここにやって来るはずもない」
土方の不満をぶつけるように言った。
「あの時、あの女の部屋にはわしと総司、置屋の周りに一番隊の隊士らが取り囲んでおった。裏と表に四人ずつ。歳よ、お前が逃げるならどう逃げる」
「何の話だ」
「いいから答えろ。あの時、奥の間に桂がいたとして、お前が桂ならどうやって逃げる」
「あぁ、面倒臭えなぁ。近藤さんと総司を相手にしてたら時間が長引く。その間に隊士たちが駆けつけて来て、逃げるどころか身の安全も保障できん。おれなら二階から飛び降りて、近藤さんよりはるかに弱い雑魚どもを斬って逃げる。これでいいか」
「そうよ歳、あいつの腕ならわしらの隊士の数人が寄ってたかったところで瞬殺できるじゃろう。もしやつがあの奥の間にいて女を置いて逃げようと思えば、そうしたはず。しかし何も起きんかった。あの男、あの女を捨てることができんかったようじゃ。あそこで斬り合いをして女が巻き添えを食って死ぬことより、一旦わしらに拉致させといて後で奪還するつもりなんじゃろう」
「馬鹿な。近藤さんはあいつを買い被り過ぎてはないか」
「まぁ、焦るな。焦らんでもあいつの方から姿を現してきよるわ」
近藤はあからさまに不満そうな土方をよそ目に、不敵な笑みを幾松に向けた。
一人、幾松のいない部屋に取り残された桂は思案した。どうすれば追手の捜索網を掻い潜り、新選組から幾松を救出することができるのか。それに幾松はどこへ連れていかれたのか。新選組の屯所が壬生と言う町にあることは知っているが、具体的にどこにあるかも知らない。知ろうにもこれまでそんな危険な場所に、おいそれと近づくことなどできなかった。そこに幾松が監禁されている保証はどこにもない。増してやうかつに新選組のアジトに近づいて、自分が捕まってしまえば間違いなく拷問の末に幾松もろとも殺される。そうなれば長州藩の行く末はどうなってしまうのか。どうすればいいのか、桂は迷いに迷った。一つ言えることは幾松がいなくなったこの部屋に長居はしていられない。店の者に見つかれば、騒ぎを恐れて追い出されるのが目に見えている。桂はとにもかくにも今いる置屋から出ていくことにした。
池田屋を脱出するときに持ってきた編傘を被り、桂は裏口からこっそりと外に出た。京に来て二年になり土地勘は十分にある。壬生へ行く道もわかっている。何もせずにこのまま手をこまねいているわけにはいかない。
「とにかく壬生へ向かおう」
桂はそう心に決めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます