第7話 四条大橋 1/4
桂は命からがら岸に這い上がり、四つん這いのまま息もできないくらい咳き込んだ。溺れかけている時に、目の前に見えた縄を無我夢中でつかんだら、すごい勢いで岸まで引っ張られたのだった。咳き込む桂は何が起きたのか全く理解できないでいたが、腹いっぱいに飲み込んだ泥水を吐き出すことに専念した。
「危なかったぜよ」
桂の背後から、聞きなれない訛りの言葉が聞こえてきた。
「あがな増水した鴨川を見るのは初めてやけんど、まさか人が流されてくるとはえらいたまげたぜよ」
呼吸をすることだけで精一杯で、桂はまだ声の主の方を見ることができない。
「あなたが縄を垂らしてくれたのですか」
桂は四つん這いのまま声を絞り出すように言った。
「そうじゃきに、ちょうど用を足しに行っちょったら、たまたま溺れそうになっちゅうおまさんを見かけて、まぁうまいことにええ縄がその辺に落ちちょって、棒に縄の先を括り付けて橋の上から放り投げたがぜよ。おまさんも、よううまいこと縄をつかみよったがやき」
「お陰で命拾いをしました。何とお礼を言っていいか」
「なーに、礼にゃ及ばんぜよ」
桂は気が遠くなる衝動に堪えながら、命を助けてもらったことに対して礼を述べ、その後は生きていることを実感するように、仰向けになって岸辺に寝転んでしまうとしばらく動けなかった。
「よう助かったきに、しばらく休んどったらええぜよ」
その男の姿をよくよく見てみると、まるで乞食のような汚い身形をしていた。しかも、話している言葉が何度聞いても耳慣れない訛りだった。
「いや、休んではおれんのです。追手に追われておりまして・・・」
「そうかえ、それで新選組のやつらが土手の上を走り回っちょったがや。おまさんを助けたのも何かの縁じゃき、わしの寝床にちっくと隠れて行ったらええがや」
「いえ、それではあなたにご迷惑が掛かってしまう。助けていただいて何のお礼もできず誠に申し訳ないが、このまま行かせていただきます」
そう言って桂は立ち上がろうとしたが、足に力が入らずよろけて膝をついた。その男は桂の右腕をつかんで支えてくれた。
「そがな体で出て行って、見つかったらじきに捕まるがぜよ。悪いことを言わんきにちっくと休んでいきーや」
桂は少し落ち着いてから、その男の寝床へと連れていかれた。寝床と言っても土の上にむしろが敷かれているだけのものである。しかしどこかの橋の袂の下であった。しかもかなり大きな橋である。それに大雨の増水による濁流が、すぐそばまできているのにその男は何食わぬ顔をしていた。
「この橋はどこの橋ですか」
「四条大橋じゃき」
「四条大橋」
四条大橋は何度となく渡って来たが、橋を下から見上げたことがなかったので、頭上の橋がどこの橋なのか全くわからなかった。
「私が鴨川に飛び込んだのがおそらく三条大橋だったと思います。私は五町ほど流されたと言うことになるのか」
一町が百メートル程なので、五町は五百メートルになる。
「ほー、えらく長いこと流されたんやき」
「流された距離が全くわかりませんでした。ところでこの橋の下にはどれほど住んでおられるのですか」
「そうじゃのお、もう三ヶ月ほどになるかえのお」
「まだお名前をお聞きしておりませんでした。名を何と申されますか」
「わしかえ、名乗るほどのもんじゃないぜよ。ところでおまさんは何でまた追われちゅうがかえ」
その男がそう言い終わった時に、彼らの頭上の橋の上をどたどたと数人の人間が足音を立てて走り過ぎて行った。
「私の素性については、どうか聞かないでいただきたい。あなたにご迷惑がかかってしまうかもしれません」
「まあ、深く聞く気はないやけんど、新選組のやつらにとっちゃえらく重要な人物みたいやき。おまさんはひょっとして幕府に立てつこうとしちゅう、何て言うたかえ、ええっと・・・」
「攘夷ですか」
「そう、そう、そうぜよ。おまさんはその攘夷ってやつかえ」
「ええ・・・、まあ・・・」
「ほいたら三、四日前にどこかの宿屋で新選組と斬り合おうて、長州藩の藩士がこじゃんと殺されたときに、おまさんはそこにおったがかぇ」
「その話はやめましょう」
また橋の上で今度はさっきと逆の方向に走る人の足音が聞こえた。びしょ濡れのままだったので、七月とは言え桂は体が冷えたのか少し震えがした。履いていた袴の右太腿の辺りが、鴨川で流されている最中に大きく破れてしまったようで、そこから小刻みに震えている自分の足が見えた。そんな桂の様子にかまうことなく、その男は話を続けた。
「まあ、話しとうなければ、話さんでいいぜよ。あいつらにとっちゃ、おまさんがえらい重要な人物ってことは、やつらがこの辺を走り回って探しゆう様子からしてよおわかるがぜよ」
「申し訳ないです。ところであなたは土佐藩の出身ですか。古い知り合いに、同じような言葉の訛りで話す人がおりました」
「ほー、ちなみにそいつは何ちゅう名前やったかえ」
「坂本龍馬殿です」
「龍馬がかえ、わしの幼馴染ぜよ。どこで知り合うたがかえ」
「江戸で剣術の試合をしました。五試合して二対三で私が負けました」
「何て言いよったかえ、あの剣術の達人の龍馬から二つも取ったってかえ。おまさんの剣の腕前はかなりのものやき。一度お手合わせしてもらいたいもんじゃき」
「いやいや、それほどのものではございません。ところでくどい様ですが名を教えていただけないですか、今の私には何のお礼もできませんが、いつか必ず・・・」
「以蔵っちゅうがやき」
「姓は」
「岡田やき。岡田以蔵じゃき」
桂はその名を聞いて戦慄した。自分の目の前にいる男が、まさに京の町を震撼させている人斬りではないのか。しかしそんな男がなぜ四条大橋の下で乞食同然の生活をしているのか。
人斬りと呼ばれるその男は、世間では顔も素性も知られていない。その存在のみが知られていた。幕府の要職に就く役人が暗殺され続けたことに対し、当然ながら幕府側も人斬りに対する捜査を続けていた。幕府側の諜報員が安政の大獄により反幕府側勢力を断罪した者、尊王攘夷派でありながら幕府側に寝返った者が、過去に暗殺された事件を調べたところ長州藩のような過激な志士も疑われたのだが、当時武市半平太が率いる土佐藩士で構成されたいた土佐勤王党が最も怪しいとされていた。その理由として、武市らは土佐藩内でも自分たちに対立する者の暗殺を断行した疑いがあり、京に活動の拠点を移してからも不審な動きが目立っていたことにあった。幕府側は密かに土佐勤王党を最重要視するようになり、さらに捜査を行ったところ、党内でも表立った活動をしていないにも関わらず武市と行動を共にしている党員がいることが判明し、その党員が暗殺に関与しているのではないかと推測されるに至っていた。
その男こそが岡田以蔵であった。
闇夜に紛れて狙った相手を確実に仕留め、疾風の如く姿を眩ます。以蔵の暗殺の手口が実に巧妙であり、幕府側も土佐勤王党をマークしていたにも関わらず以蔵に関する具体的な手掛かりを全くつかめなでいた。
桂のような攘夷活動を行っている志士たちの間では、幾度となく繰り返される自分たちにとって好都合な暗殺のことが話題の種になり、自然に人斬りに関する情報も集まってきた。志を共にする長州藩と土佐藩の脱藩浪士たちの間では、少なからず交流があった。事実、池田屋襲撃の時には長州藩士に交じって、土佐藩士も新選組に斬られている。桂が知る土佐藩脱藩浪士の言うには、幕府側の推測と同じように武市と行動を共にする素性のわからない浪人がいると言うことだった。その浪人のことはおそらくは土佐勤王党の上層部のみが知っていて、同じ土佐藩士でもその素性までは知らなかった。ただ狭い土佐藩の中で、その浪人は幼少の頃から土佐藩内のあちこちで暴力事件を巻き起こした有名な暴れん坊だったと噂だけが水面下で広がり、土佐藩士の中でも顔が知れ渡っていた岡田以蔵が怪しいとされていた。しかし確証を得た者がいた訳ではない。ただそのような憶測だけが独り歩きし、在京の長州藩士の間で「岡田以蔵」と言う暗殺を専門とする浪人がいると、都市伝説のような噂だけが広まっていた。
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