第42話 闘走 4/5
残りは四人。桂と以蔵は二刀流のまま対峙した。何と敵の隊士は、一人が以蔵の足を止め、桂に三人で攻撃を仕掛けてきた。桂は一人が囮になり、残った二人が仕留めにくる相手の攻撃パターンを読んでいた。桂は囮の攻撃を片腕で受け止めると、気配だけを頼りに後方に木刀を突き出した。その一撃が見事に敵隊士の眉間を捉えた。その隊士はそのまま気絶した。桂は鍔迫り合いから対峙した隊士を押し返し、一気に仕留めようとした時、何かに足が引っ張られて動けなくなった。足元を見てみると、先の攻撃で動けなくしたはずの隊士が、桂の袴の裾を掴んでいた。この隙を敵が見逃すはずがない。二人の隊士が一斉に斬りかかってきた。一人は上段から、もう一人は桂の腹を狙って突きを繰り出した。桂は回避運動が取れない。突きに対しては木刀で跳ね除け、上段からの一刀に対しては、敵の刀が桂の頭上に来た時、もう一本の木刀の先端を寸分の狂いもなく合わせて、敵の刀の軌道を変えた。勢い余ったその隊士の刀は、そのまま地面を叩く前に、桂の袴の裾をつかんでいた隊士の腕を切り落とした。自由になった桂は、斬りかかってきた隊士の後頭部を一撃し、もう一人の隊士の膝をあっという間に割ってしまった。以蔵の方を見ると、すでに敵隊士を倒した後だった。
「さすがやき、一人で八人倒してしもたぜよ、小五郎」
桂を労う以蔵の胸ぐらを、桂が徐につかんで捩じ上げた。
「なぜトラに攻撃させたっ!」
桂が珍しく怒りをあらわにした。
「すまんきに、けんどあのままやと二人ともやられちょったがぜよ。仕方がなかったやき、そんなに怒らんでもええきに」
以蔵が申し訳なさそうに言った。
「もうトラには攻撃させるな。死んでしまうぞ」
桂の寅之助を思う気持ちが、以蔵にはよくわかっていた。
「わかった、わかったきに」
やせこけた汚い犬。しかも、血に飢えた人斬りが面倒を見てきた。野良犬と呼ばれても仕方がない。そんな犬のことを本気で心配してくれる桂のことが、以蔵にはたまらなく嬉しかった。
以蔵が子供の頃に住んでいたあばら家の土間に、腹をすかせた子犬が震えながら座っていた。臭くて汚い子犬だった。
「何やき、腹が減っとるがかえ」
以蔵は何か餌になるものはないかと思ったが、自分たちが食べる物に困っているのに、犬に食べさせるものなど何もなかった。以蔵の親は家からつまみ出せと冷たくあしらった。以蔵は仕方なくその汚い子犬を拾い上げて井戸に連れて行き、水を飲ませた。少しでも腹の足しになるかと思ったが、水では空腹を満たせない。
「なんぞ食いもんはないかえ」
以蔵は子供ながらに考えた。そして思いついたのが、上士の家や宿屋で捨てられる残飯だった。腐っているかもしれないが、その子犬は夢中で食べ漁った。これが以蔵と寅之助の出会いだった。その子犬は以蔵の家に住み着くようになったが、餌をねだることは決してしなかった。以蔵はその子犬に寅之助と名前を付けた。寅之助は井戸で体の汚れを落としてもらったり、遊び相手になってもらったり、以蔵の世話になることはあったが、餌の時間になるとぷいっといなくなった。そしてどこでどうやって餌にありついたのかはわからないが、命を救ってもらった以蔵の元に必ず戻って来るのだった。
以蔵が武市の道場に通い出してからも、寅之助は毎日のように道場の前で以蔵を待っていた。以蔵は言葉のわからない寅之助に道場であった出来事や尊敬する武市から教えてもらったことなどいろいろな話をしながら、家に帰るのだった。餌は自分で探して回るのだが、おそらくあちらこちらで煙たがられ、時には蹴飛ばされることもあったのであろう。寅之助は自分を受け入れてくれる以蔵以外の人間というものに懐くことはなかった。
武市の道場では、だれもが愛想のない寅之助のことを知っていたので、武市らと京に行くことになっても、以蔵が寅之助を連れて行くことにだれも違和感を持たなかった。やがて人斬りになって、以蔵の心は荒んでいった。以蔵の心は人を斬るたび壊れていった。しかし、寅之助がいつもそばにいた。以蔵はやるせない思いを抱えて寅之助に話しかけると、寅之助はじっと動かずに聞いてくれた。寅之助は以蔵に連いて江戸にも行った。高杉晋作や勝海舟は以蔵のことを気にかけてくれたが、さすがにそれに甘えて高杉や勝の家に犬を居候させるわけにはいかず、しばらくは放し飼いにしていたが、そんな寅之助を不憫に思った以蔵は、江戸を引き払って京にいる武市の元で寅之助と共に住める家を探した。そして、以蔵はまた人斬りに逆戻りした。
そんな矢先に、乞食に成りすまして生活することを余儀なくされた。しばらくは人を斬らなくて済んだが、何のためにこんな生活を強いられなければならないのかも知らされず、以蔵の心は悶々としていた。寅之助はそんな以蔵の気持ちまで察したいたのかどうか・・・。
食べる物には困らなかった。毎日にぎり飯を届けてもらったが、大型犬がそれで腹を満たせるはずがなかった。寅之助は餌を求めて京の町を日々彷徨った。四条大橋の下で身動きが取れない以蔵に心配をかけることなく、寅之助は独りで生き抜いていた。二人は二人いっしょでなければ、過酷な運命に翻弄され、生き長らえていなかったのかもしれない。なぜ寅之助は桂に心を開いたのだろうか、それは以蔵が桂に心を開いていることがわかっていたからだった。以蔵は高杉から、桂は友を決して裏切らないと教えられていた。桂と出会ってからの以蔵は、子供の頃の以蔵に戻ったように寅之助には見えていたのかもしれない。
「ところで、わしが巻いたやつらが、そろそろやって来るころぜよ」
桂と以蔵が通りの向こうに目を凝らすと、また十人ほどの隊士が、こちらに向かって走って来る様子が伺えた。
「やれやれ、まっことしつこいやつらぜよ。どこまでも追って来ゆうきに。地獄の果てまで追ってくるっちゅう話は、まっことのことじゃったがやき」
以蔵は追ってくる隊士を見て、呆れるように言った。
「しかし、以蔵殿が立てた作戦は、上手くいったのは最初の一周だけではないか。それに、五、六人ずつ戦う予定が、十人になっている。以蔵殿が考える作戦は、使えないと龍馬殿が言っていたが、その通りであったなあ」
桂が真面目な顔をして言った。
「ちっくとうるさいぜよ。作戦ってもんは、時々刻々と変わるもんやき。覚えちょき」
以蔵は少しむっとした表情で言った。しかし、気性の荒い以蔵が、激怒するようなことはなかった。すでに以蔵の心の中には、桂のために手助けをしてやっているという観念は少しもなかった。むしろ、この戦いは人から指示されて、理由もなくやっていた暗殺とは程遠い、自分自身の意志で、自分自身で掲げた大義名分の基に行ってる戦いであった。むしろ以蔵は、苦闘を超越した先にある喜びすら感じていた。
「ところで小五郎、手に持っちゅう木刀は使えるかえ」
以蔵が徐に聞いた。
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