あしたのために(その55)無題2

 川地は母と一緒に祖父の住む京都で療養していた。退院するとき、「サワもんちゃんにさようならを言わないでいいの?」と母が心配すると、「いい」ときっぱり答えた。

 沢本はずっと泣いていたという。そして入院していた病院に毎日シベリアを届けてくれた。

 申し訳ない、と思った。そして心の奥底で、放っといてほしい、と思った。奥底よりもずっと奥で、会いたいな、と思っていた。

 事件から二ヶ月が過ぎようとしていた。昨晩母から、「このままおじいちゃんの家で暮らしてみないか?」と提案された。「おじいちゃんはいいって言ってくれたし、お母さんも一緒に住む。お父さんは東京で働くけれど、毎週きてくれるから」

 川地は頷くことも首を振ることもしなかった。折れた手足は治りかけていた。背中の傷跡は引き攣り、かゆくてたまらない。少しずつ、自分の身体が治ろうとしている。治ってしまってから、なにもかも忘れて生きていくことなんてできるのだろうか。

 酷い夢を見て、飛び上がって起きることだってある。これからもずっとそうだろう。あのときのことを急に思いだして、震える。

 もう元には戻れないし、この先も不安しかない。時間の流れに背中を押されながら、川地は踏ん張ってあらがっていた。どこにも向かえない。止まることしかできなかった。

 学校に通うのはしばらく先でいい、一年遅れることになるけれど、気にしちゃいけない、いまはしっかり心と身体を休ませたほうがいい、と大人は言った。

 一人で近所を歩いていると、年が同じくらいの子供が騒ぎながら通り過ぎていった。自分のことを、意味なく殺そうとするような人間が、この世に存在するなんて知らない顔をしている。

 川地はうずくまり、震えた。怖い。震えているうちに、身体が急に冷えて、胃からこみあげてくる。

「カワちん」

 声がした。堪えながら見上げると、そこに沢本が立っていた。あまりの衝撃に、口からだらだらとげろが流れた。


 沢本は川地の祖父の家に着くなり、「お電話貸してください」と言って、電話をかけた。

「ママ? ぼく。いま京都。カワちんに会えた。だから大丈夫だって。迎えにくる? いいよ別に。これからここに住む」

 川地の母がびっくりして電話を代わった。

 そばで聞いていた川地が呆気にとられていると、

「お世話になります」

 と沢本は祖父に向かってお辞儀していた。

「なんで?」

 川地はこの状況がまったくわからず、訊ねた。

 沢本は、川地がいま京都にいると教師が立ち話しているのを聞きつけた。これまで川地から聞いていた父親の仕事から会社を特定して乗りこみ、「カワちんにお手紙を書きたいから住所を教えてください」と父に頼んだ。「内緒にしてびっくりさせたいんで誰にも言わないでください」と約束させた。そして沢本は母親の財布にあったお札をすべて盗み、自転車にまたがって京都へ向かった。しかし海老名ですぐ疲れ果て、サービスエリアで水を飲んでいたところ、親切なトラック運転手に声をかけられた。「大切な友達がピンチだから助けにいく」と沢本が訴えると、運転手は「途中まで連れてってやる」と助手席に乗せてくれた。

「途中でローストビーフ丼を奢ってもらって、静岡で餃子とやきそば食べた。名古屋まで連れていってもらったんだけど、ひつまぶしも一緒に食べた」

 沢本は夕飯に出されたカレーライスを頬張りながら、話した。

「なんか、いろんなもん食ってるな」

 川地は聞いて呆れた。とんでもない行動なのに、沢本の口振りでは津々浦々をグルメ行脚してきたようにしか思えない。

「サワもんちゃん、明日お母さんが迎えにくるって。黙ってきちゃだめよ。そもそも一人で遠くまで。それに今回は良かったけれどなにか事故が起きたら」

 電話を終えた川地の母が、困った顔をして沢本を諌めた。

「だって、カワちんに会いたかったんだもん」

 沢本は悪びれずに答えた。「あと名古屋から乗せてくれたお姉さんと長浜でラーメン食べた。おいしかったよ」

 ナップサックを漁り、沢本はぼろぼろになったシベリアを出した。

「カワちんにおみやげ」

 川地は受け取って、しばらくじっと見た。

「シベリアなんて、ここでも売ってるし」

 なんだよ、むちゃくちゃこいつ、俺よりよっぽど勇気があるじゃないか。お前、体育やりたくないって授業の前はいつも暗いくせに、体育なんかよりよっぽどきついことしてるじゃん。川地は嬉しさと情けなさに、身体のなかをかき乱された。

 その夜、二人は布団を並べて寝た。

「カワちんはぼくの神さまなんだ」

 沢本が突然、暗闇のなかで話しだした。

「はあ?」

「入学したばかりのとき、休憩時間におトイレ行けなくって、おしっこ漏らしちゃって、みんながからかって、ぼくはもう死にたくて死にたくて、もう学校なんて絶対に行かない、このまま家まで帰ろうって思ってたの。そうしたらカワちんが、トイレまで連れていってくれて、濡れたずぼんを脱がして拭いてくれて。汚いよ、って言ったら」

「なんか言ったっけ」

 川地はまったく覚えていなかった。

「うんことがゲロとかより全然ましだし、むしろ普通じゃん、俺もこっそりチビってるときあるから、ごまかし方教えてやるよ、って」

「覚えてない」

「ぼくが覚えているから。いつだって教えてあげる。カワちんが仮面ライダーとかルフィとおんなじくらい凄い人なんだってこと」

 川地は嗚咽した。沢本は黙っていた。

「シベリアありがとう」

「カワちん、早く東京に戻ってきてよ、さびしいよ。『ぐりとぐら』やろうね。カステラができると思っていたらシベリアって、みんなびっくりするよ」

 二人はお互いのほうに顔を向けた。暗くて見えなかったけれど、困ったように笑い合った。

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