第6章 〝伝奇バイオレンス〟の時代

 1980年代後半は、〝伝奇バイオレンス小説〟の時代だった。

 そして『菊地秀行の時代だった』と言っても過言ではないと思う。

「夢枕獏の時代じゃないの?」

 との声もあるかもしれないので、ここで菊地秀行と夢枕獏のスタンスの違いについて、すこし私なりの意見を含めて説明をしておきたい。

 

 伝奇バイオレンス小説家としてデビューが早かったのは夢枕獏だった。

 続いて、登場したのが菊地秀行だ。

 これは〝夢枕獏が火を付けて、その火に菊地秀行が流れをつけた〟という当時の一文がすべてを語っていると思う。

 夢枕獏は1984年に『魔獣狩り』(祥伝社 ノン・ノベル)『闇狩り師』(徳間書店 トクマ・ノベルス)で一気に人気を得た。

この作品はシリーズ化されベストセラーとなった。

このあと、夢枕は『獅子の門』(光文社)『大帝の剣』(角川書店)『餓狼伝』(双葉社)と伝奇バイオレンス小説を残しつつも、格闘小説の分野にも進出していく。

これには、夢枕獏がインタビューで語った次の言葉が、真だと感じる。

“「伝奇バイオレンスのブームが終わったら、いらない作家になるんじゃないかと思ったんです。そこで格闘小説を書きたいと編集者に言ったんです」”

 また、1986年には「オール讀物」誌に『陰陽師』を書き始めている。

 実際、この作品が注目されベストセラーとなるのは10年後のことだ。

それでも、夢枕獏は書き続けた。

“「ぼくの本は売れるものと売れないものの差が激しいんです」”

 と別のインタビューで語り、

“「一番多い本で14万部。少ない本で2万部」”

 と、新刊書に挟まれる夢枕獏事務所作成の小冊子「仰天・夢枕獏1号」に綴っている。

 万部は初版部数を意味しているだろう。

 

 --ひとつのジャンルで飽きられる前に、自分の持ち味が出せる別のジャンルにも種を蒔き続ける。

 これが、夢枕獏の基本的なスタンスではないかと思う。

1980年代、菊地秀行の月産原稿枚数が900~1000枚に及ぶ時期があったと前述した。

夢枕獏も毎月500枚~800枚の原稿を書いていた。

これだけの原稿を書けば、刊行される本も多い。

 だが、伝奇バイオレンス小説一辺倒で、どの本もコンスタントに売れる菊地秀行と売れない本も出していた夢枕獏では収入面も違っていた。

毎年、作家部門ベストテンに名を連ねた菊地と違い、夢枕は1985年分・1986年分でそれぞれ14位にランクインしてからは、姿を消している。

「税金を取られるくらいなら、経費として使ったほうがいい」と考えて、納税対象額を圧縮していたことも考えられるが、1989年には有限会社 夢枕獏事務所を設立しているのは、マネージメント体制を整える意味と節税のふたつの意味があったと推察する。

 夢枕獏は、1990年代を迎える頃に、一度、月産200~300枚程度にペースを落としている。

これは、次の種を蒔くための準備期間が必要だったからだと思う。


 そして、もうひとつは賞に関するスタンスだ。

 菊地秀行は、現在に至るまで賞には縁がなく無冠を貫いている。

1986年に第17回星雲賞で『切り裂き街のジャック』(早川書房)が候補に挙がり、吉川英治文庫賞が創設されてからは、第2回から最新の第9回まで『吸血鬼ハンターD』(朝日新聞出版)が候補に挙がっているが、受賞には至っていない。

 1990年代になり、ハードカバーで時代小説を刊行しているが、おそらく菊地自身は賞に対するこだわりや思いは、ないのではないかと推測する。

 対して夢枕獏は、注目される作家となってまもない1984年に上梓した『悪夢喰らい』(角川書店)が、1985年3月に受賞作が発表された第6回吉川英治文学新人賞の候補に挙がっている。

この時の受賞作は船戸与一の『山猫の夏』(講談社)だった。選評を見てみると、圧倒的な強さで船戸の受賞が決まっている。

 このあと、1988年と1989年にそれぞれ『歓喜月の孔雀舞』(新潮社)『鮎師』(文藝春秋)で泉鏡花文学賞の候補になっている。『鮎師』は4、5年の歳月を掛けて書かれたもので、バイオレンス描写はなく小田原での釣りと自然の描写に腐心して書かれた作品だ。 文藝春秋から刊行された本であることも加味すれば、当時直木賞候補になってもおかしくはない作品とも思える。

 多少は文学賞を意識した作品だったとも読める。

ついに1990年に『上弦の月を喰べる獅子』(早川書房)で第10回日本SF大賞を受賞する。

 これは私見だが、文学賞については、1983年7月に胡桃沢耕史が『黒パン俘虜記』で、1988年1月に阿部牧郎が『それぞれの終楽章』で第98回直木賞を受賞したことも関係しているのではないかと思う。

 胡桃沢は1955年にオール讀物新人杯(現在の新人賞)『壮士再び帰らず』でデビューすると、本名の清水正二郎名義で10年間官能小説を量産した。しかし、金銭的には恵まれても、官能作家は所詮はポルノ書きだと業界内で低く見られることを実感する。そこで、胡桃沢は官能小説の版権を売ってまとまった金を作ると、妻に10年分の生活費として半分を渡して、自身はもう半分を原資にしてホンダスーパーカブに乗って海外を放浪した。そして、9年後、オール讀物編集部に原稿を持ち込むと、胡桃沢耕史として『父ちゃんバイク』『ロン・コン』で冒険小説作家として蘇生を果たす。この作品は直木賞候補となり、4回目で見事直木賞を射止めた。岩崎白昼夢警視の『翔んでる警視正』などを中心に大量のノベルスを本格的に手掛けるのは、受賞後のことになる。

 阿部はデビュー間もない1968年から1974年の間に、7回直木賞候補に挙がったが、受賞には至らなかった。その後の阿部はノベルスで官能小説を量産するが、その一方で直木賞狙いの作品を書き続けた。その執念が13年ぶりの直木賞候補となり受賞に結びついた。

 特に阿部の直木賞受賞は、当時のエンターテインメント小説界に一石を投じることになったという。対象になったのは、笹沢左保と筒井康隆だ。笹沢は『人喰い』『空白の起点』『六本木心中』『雪に花散ちる奥州路』『中山峠に地獄をみた』で、筒井は『ベトナム観光公社』『アフリカの爆弾』『家族八景』で、それぞれ複数回直木賞候補に挙げられたが受賞はならなかった。

 筒井は当時のSFについての無理解を“「士農工商犬SF」”と書くだけの余裕があり、純文学誌に前衛文学を発表して、賞に恵まれていくのだが、笹沢は落選を知ると、待機していた酒場で選考委員へ不穏な言葉を口走ったという。その後、笹沢は1999年に日本ミステリー文学大賞を受賞するまで無冠が続き、380冊近くの著書を残したものの、自作が正当に評価されない思いがあったのか、常に鬱積したものを抱えていた。特に酒の席になるとそれが顕著だったという。(※笹沢のエピソードは、校條剛『流行作家』(講談社刊)より)


 夢枕獏は菊地秀行より作家デビューは早い。1977年、若干26歳の時のことだ。

 そして、1981年に専業作家となったが収入は少なく、食事は夫人がアルバイトに出ていたパン屋の残り物で凌いでいたという。

夢枕のエッセイによると、

“「売れない時期には、原稿料がもらえなかったこともある」”

 という。

1984年に一躍ベストセラー作家となっても、これまでの悔しかった経験は夢枕のなかに生き続けていたと私は思う。そして、ノベルス作家が一段下の作家として見られることも感じていただろう。

 夢枕の眼に文学賞はその悔しさを晴らす、手段に映っても不思議はない。結局、夢枕は山本周五郎賞・直木三十五賞の候補に挙げられることはなかった。

 だが、1998年に『神々の山嶺』(集英社)で第10回柴田錬三郎賞を受賞する。

このとき、夢枕獏47歳。

デビューが早かったとはいえ、40代後半での柴田賞受賞は早いほうになる。

 その後2011年・2012年には『大江戸釣客伝』で第39回泉鏡花文学賞・第5回舟橋聖一文学賞・第46回吉川英治文学賞をトリプル受賞し、2017年には第65回菊池寛賞。2018年には紫綬褒章を受章している。

2010年代に入ってからは、一気に賞(章)に恵まれている。


 ひとつのジャンルが盛り上がりを見せると、その場所に、別ジャンルを書いていた作家が参入することがある。

〝夢枕獏が火を付けて、その火に菊地秀行が流れをつけた〟

 このジャンルも例外ではなかった。

 だが、このふたりの他に、現在まで伝奇バイオレンス小説を書き続けている作家がいるだろうか。また、当時でもこの両雄に並んで、伝奇バイオレンス作家と認識されていた作家がいただろうか。

 鑑みたとき、この先達の偉大さに畏敬の念を感じずにはいられない。


 1990年代に入ると、ノベルスは1980年代後半にデビューした綾辻行人・法月綸太郎・有栖川有栖らを嚆矢として〝新本格ムーブメント〟が起こり、京極夏彦・森博嗣が第二波として続いた。

 もちろん、別のムーブメントが起こったからといって、1990年代に入り菊地秀行の人気がすぐ衰えたわけではない。

1993年におこなわれたあるインタビューでは、刊行される本は“「15~6万部」”売り上げていると紹介されている。

 『魔界都市ブルース』シリーズの最高傑作『夜叉姫伝』(祥伝社 ノン・ノベル 全8巻)は、1989年から1992年に小説NONで連載後に刊行され、8巻にも及ぶ長いストーリーとなったが、「7巻よりラストの8巻のほうが、売れ行きがよかった」と菊地が述懐するほど、本人が誇れる作品であると同時に、読者にも大きな支持を受けた。

 1993年に第1作が刊行された古代の神と合体した絶世の美少年で人食い鬼の八千草飛鳥が主人公の『ブルー・マン』シリーズ(講談社ノベルス)も人気を得た。

 菊地本人が思い入れのある吸血鬼を主人公に据え、語り口を『トレジャーハンター』風にした『蒼き影のリリス』(中央公論新社 C★NOVELS)も、想定していたほど、読者の反応は見られなかったようだが、1995年から2001年まで全6冊が刊行されるシリーズとなった。

 

 だが、菊地秀行作品の濃度と熱さは1980年代が頂点だった、と感じる。

注目を浴びる者の宿命ではあるが、当時、菊地秀行も夢枕獏もその作品が大勢の読者に受け入れられる一方で、的外れの非難を浴びることがあった。

「こういう小説が流行る風潮はよくない」

「新・新興宗教にも影響を与えているのではないか」

 これらの非難記事をよく読めば、菊地作品も夢枕作品にも目を通していないことがよくわかる。

 菊地秀行と夢枕獏が与えた影響は、その後の小説・漫画・アニメ・ゲームだ。

もちろん、それらを創り出すクリエーターにも。この影響は多大だ。

1980年代後半の嵐のような季節のなかで、菊地秀行はハイスピードで高クオリティの作品を発表し続けた。

クイズ番組『クイズ・ダ-ビー』に出演したり、三田佳子や黒木香と対談したりと、小説を執筆する以外の場に引っ張り出されもした。

 菊地は1988年、以前に購入しておいた都下の土地に自宅を新築した。

白い外壁が印象的な邸宅だ。

人呼んで“「魔界御殿」”。

『バンパイアハンターD』をコミック化した鷹木骰子が菊地邸を訪れた際に、

“「Dに出てきそうなおうち」”

 と巻末のコミックエッセイで表現しているが、まさにそのような印象を受ける。インタビュー記事などで、自宅内の様子がわかるが、菊地テイストのグッズに囲まれている。

 

 --「読者を飽きさせるな、休ませるな」

 これが菊地秀行の読者に対する信条だ。

 この白い邸の主人は、今日も万年筆に原稿用紙で、この世界を悪夢に塗り変えている。



参考文献・一部引用


菊地秀行『幻妖魔宴(げんようまえん)』(1987年8月25日 角川文庫

菊地秀行『夢みる怪奇男爵』(1991年1月30日 角川書店)

週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』

小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』

『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』(1986年10月15日 講談社)

『SFアドベンチャー増刊 夢枕獏VS.菊池秀行ジョイント・マガジン 妖魔獣鬼譚』(1986年11月15日発行 徳間書店)

全日本菊地秀行ファンクラブ・編 菊地秀行学会・協力 菊地秀行・監修『菊地秀行解体新書』(1996年4月15日発行 スコラ)

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【評伝】魔界都市〈新宿〉 吸血鬼ハンター"D"の創造主 菊地秀行 川端 春蔵 @haruzou_999

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