第5章 魔界都市の創造主として

 1986年に入ると、菊地秀行が活躍する舞台は更に増えていく。

 朝日ソノラマで『吸血鬼ハンターD』『エイリアン』シリーズを書いていた菊地が、祥伝社ノンノベルから『魔界行』が上梓したのが、1985年3月のことだが、それからの9ヶ月間で、祥伝社・光文社・講談社・徳間書店・角川書店からノベルス・文庫オリジナル作品を刊行していった。

 この作品群は当然、書き下ろしであり、菊地の執筆量は激増していく。

 1986年に入ると、菊地の執筆量は更に増える。これまでの書き下ろしに加えて、雑誌連載を抱えるようになった為だ。

 その雑誌連載も、〝短期集中連載〟がほとんどであり、菊地は月産900~1000枚という多産を強いられることになる。

 最高時は一日で94枚。これは『魔界都市〈新宿〉魔宮バビロン』執筆時。

 ひと月では1100枚。これは1ヶ月で350枚のノベルスを3冊書き下ろさなければならなかったとき。

上北沢のマンションで、都内のホテルでカンヅメになりながら、菊地は万年筆で原稿用紙を埋めていった。


 当初、菊地は自宅マンションで執筆を進め、編集者との打ち合わせを兼ねて喫茶店まで、完成原稿を持参していた。しかし、執筆量の激増によって菊地が疲労と眠気で、編集者に原稿を渡してくれるだけでいいから喫茶店へ行ってきて欲しいと妻に頼み、自身が疲れ果ててソファで眠り込むようになったことから、自宅に担当編集者が待機して、24時間体制で菊地の原稿を待つようになる。

 編集者のなかには、原稿用紙に万年筆で流れるよう崩し字に書く、読みにくい菊地の直筆原稿を待機時間中に持ち込んだワープロで打ち直す者もいた。

 この忙しい最中、夫人は編集者に夜食を振るまい、また菊地自身も気分転換も兼ねてインスタントラーメンなどを編集者に供した。

この時期、菊地のストレス解消法は、机に座ってエアガンで紙コップに向けて弾を撃つことくらいしかなかった。

高級ホテルに入るのも気分転換にはなるが、そこで待っているのは仕事だ。

そして、食事にもこだわりがない。

「そこそこのものなら何でも美味いと感じる」

 と、この頃のインタビューで語り、ホテルのレストランや寿司店・和食の店に行くのも、

“「ああいう店は接待で行くんだから。仕事関係とか友達とかおねえちゃんとか、おまえ(実弟・菊地成孔のこと)とか。そういうとき、相手にはビフテキでも何でも「はいどうぞ」だけど、俺はべつに何でもいいのよ」”(TBSラジオ「菊地成孔の粋な夜電波」出演時)

 休みはひと月に1日あるかないか。

 取材を兼ねたアメリカ・カナダ旅行の際にも、菊地は原稿を書き続け、FAXで日本に送り続けた。超の付くほどの過密スケジュール。しかし、これをこなさないと原稿が間に合わなかった。

ここまでくると、本当に表現したい世界があり書くことが好きではないと、根を上げてしまう。

 結果として、1986年に上梓された菊地秀行作品は17冊に及んだ。

加えて週刊少年チャンピオンでは、原作:菊地秀行 作画:細馬信一の『魔界都市ハンター』(全17巻)の連載も開始され、86年中に4巻まで刊行されている。


 この時代、日本のエンターテインメント小説は、ノベルスで出版されることが多かった。1970年代後半から始まったノベルスブームが、エンターテインメント小説の軸であり、ハードカバーで出版される小説は現在よりも少なかった。

 私見だが、ノベルスがこれほど出版界を席巻した理由を述べたい。ノベルスの読者層は高校生以上の学生とサラリーマンだった。彼ら彼女らは通学通勤で満員電車を利用する。スマホも携帯電話もなかった当時、ノベルスは片手で読め、スペースも取らない格好の娯楽だったのだ。

 菊地の主戦場はこのノベルスだったが、ノベルス中心の小説家は、ハードカバーを出す小説家より、ひとつ低く見られていたのも事実としてあった。

菊地がこの時代、一流の売れっ子作家だったことは間違いのない事実だが、ノベルスデビューから日の浅い作家でもあった。

出版社側の要望で、当初の打ち合わせで決まっていた内容が変わることも珍しくなかった。

 あるとき、菊地はついに悲鳴を上げる。

 菊地ファンならおなじみであり、またお楽しみである「あとがき」に「もうこれ以上、書き下ろしは不可能です」と宣言したのだ。

菊地の要望を真っ先に取り入れてくれたのは徳間書店だったが、「だったら雑誌連載ならいいでしょう」と雑誌連載の数が増えていくことにもなった。

書き下ろし型の菊地だが、週刊誌・月刊小説誌を合わせて最高7本の連載を持つことになる。

 

 売れている作家を、そう簡単に出版社・編集者は手放さない。

特に工藤明彦が活躍する『妖魔』シリーズ(ノベルスと文庫の累計は800万部)がヒットしていた光文社では、週刊誌の『週刊宝石』・月刊小説誌『小説宝石』『宝石(月刊)』に菊地の作品が連載される有様だった。

 この地獄のような状況でも、菊地は編集者から口々に発せられる「菊地先生、菊地先生」の大合唱と、振り込まれる多額の印税、そして、ファンからの手紙に支えられて次々に作品を放っていった。

 1987年には、書き下ろしと雑誌連載をまとめたもので、年間21冊の菊地秀行作品が刊行されている。※原作コミックは別。

 ちなみに、1987年5月に公示された高額納税者(長者番付)・作家部門で、菊地は初のベストテン入りを果たす。

納税額は1億458万円で作家部門8位。

前年度の納税額3981万円より大幅に増えている。

 菊地は1996年5月に公示された1995年分まで、以後10年間この長者番付・作家部門でベストテン内を維持し続ける。

 弟・成孔によると、菊地の長者番付入りを知った両親は、想定外のできごとに浮き足だっていたという。

 また、このあとになるが両親が菊地食堂を閉める際、借財があり、菊地はそれを全額負担している。その額は、かなりのものとなったが、成孔は、

“「兄貴は親の店の始末を、2度やっても、ビクともしない状態だった」”

 と振り返っている。


参考までに2003年分までの菊地の納税額と作家部門の順位を掲載しておく。

1987年分 9533万円 6位

1988年分 8673万円 7位

1989年分 8208万円 8位

1990年分 8622万円 5位

1991年分 8325万円 7位

1992年分 7890万円 5位

1993年分 6970万円 9位

1994年分 7586万円 7位

1995年分 7036万円 7位

1996年分 5017万円 12位

1997年分 5817万円 12位

1998年分 5495万円 11位

1999年分 3777万円 16位

2000年分 3886万円 12位

2001年分 2981万円 12位

2002年分 2722万円 17位

2003年分 2154万円 19位


※1999年分から納税額が減少しているのは、所得税率の最高税率が50%から37%に下がったことも関係している。

推定年収でいえば、1999年分と2000年分は1996年分~1998年分と同等である。


 『魔界都市ブルース』といえば菊地の代表作のひとつであり、現在までに累計で700万部を突破している大ベストセラーシリーズである。

秋せつらやメフィストを始めとするキャラクターは大きな人気を得て、メフィストは『魔界医師メフィスト』として、1988年から角川書店・カドカワノベルスでシリーズ化され、その後、講談社ノベルス、祥伝社ノン・ノベルと出版社を変えながら現在も続くシリーズとなっている。

 さて、この『魔界都市ブルース』シリーズだが、ずっと祥伝社ノンノベルで刊行が続いている。

祥伝社の小説誌『小説NON』に連載・掲載されたものか書き下ろしである。

 しかし、第1作の「人形使い」だけは、徳間書店が刊行していた『SFアドベンチャー』1985年2月号に掲載されている。

そして、第2作は掲載されることはなかった。

 菊地自身は「打ち切られた」と思っており、当時『SFアドベンチャー』編集長からは、

「菊地さん、朝日ソノラマでやってるようなのを書いてくれないか」

 という話があったと後年述懐している。

これは推測だが、1985年に徳間書店は文庫レーベルとして「徳間アニメージュ文庫」を創刊している。

このレーベルから出版されヒットしたオリジナル作品には、首藤剛志『永遠のフィレーナ』シリーズや、現在に至るまで、『女神転生』から『真・女神転生』『女神異聞録ペルソナ』『デビルサマナー ソウルハッカーズ』『ペルソナ』シリーズなどに派生して、累計720万本を超える人気ゲームシリーズとなっている西谷史『女神転生 デジタル・デビル・ストーリー』シリーズがある。

菊地の作風から、編集長は菊地作品をこのアニメージュ文庫のラインナップに加えたかったのかもしれない。

 

 結局、菊地はその後、祥伝社からの執筆依頼の折、『魔界都市ブルース』の話を持込み、第2作「さらば歌姫」が『マガジン・ノン』1985年10月号に掲載される。

この作品に対する評価は『マガジン・ノン』編集部では絶賛に近いものだった。

翌月号から「仮面の女」「L伯爵の舞踏会」「影盗人」と短編掲載が続き、1986年4月に『魔界都市ブルース1(妖花の章)』として上梓され、当初は〝伝奇バイオレンス〟小説が主体の菊地作品のなかでは、地味な部類として見られて反響は少なかったが、次作となる『魔王伝』3部作(1986年7月・1986年10月・1987年3月)の刊行で、同人誌界で高河ゆんがパロディ本を出し人気を得たことから、同人誌業界に『魔王伝』ブームが起こり、本家である『魔界都市ブルース』の人気も確立されていく。

 現在まで、『魔界都市ブルース』は映像化もコミック化もされていない。

アニメ化・コミック化を望むファンもいれば、原作小説だけで充分だというファンもいるだろう。

いかにクオリティの高いアニメ・コミックでも、すべての原作ファンを納得させることはできない。

ファンひとりひとりの心のなかに、それぞれの秋せつらがおりメフィストがいるのだから、原作が人気を得ているものを派生させ、高い評価を得るのは非常に難しいものだと感じる。

しかし、『魔界都市ブルース』については、過去に高河ゆんによるコミック化の話は存在した。

 残念なことに、当時、菊地作品のコミック化は秋田書店に限定されており、この話は立ち消えになったという。

そのかわり、秋田書店では、『魔界都市ハンター』(全17巻)に続き『魔界学園』(全21巻・作画:細馬信一)が週刊少年チャンピオンで1993年まで長期連載され、細馬とのコンビは『邪神戦線リストラ・ボーイ』(全5巻)まで続いた。

 また、あしべゆうほが『Candle』で1987年~1988年に掛けて『ダークサイドブルース』のコミックを連載している。

 

 また、メディアミックス化に目を向けると、マッドハウス製作の劇場アニメ『妖獣都市』を見逃すことはできない。川尻善昭監督によるこの作品は、〝アニメ嫌い〟の原作者・菊地秀行をして、「イメージ通り」と賞賛を惜しまなかったアニメとなり、高く評価され、海外でも公開された。

 『妖獣都市』は1992年に香港で、ツイ・ハーク製作により、『妖獣都市~香港魔界編~』として実写映画化もされている(翌1993年には日本公開)。

 この作品は、レオン・ライ(黎明)やジャッキー・チュン(張学友)、日本からは仲代達矢が出演する豪華な作品となった。



参考文献・一部引用


菊地秀行『幻妖魔宴(げんようまえん)』(1987年8月25日 角川文庫

菊地秀行『夢みる怪奇男爵』(1991年1月30日 角川書店)

『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』(1986年10月15日 講談社)

『SFアドベンチャー増刊 夢枕獏VS.菊池秀行ジョイント・マガジン 妖魔獣鬼譚』(1986年11月15日発行 徳間書店)

全日本菊地秀行ファンクラブ・編 菊地秀行学会・協力 菊地秀行・監修『菊地秀行解体新書』(1996年4月15日発行 スコラ)

菊地秀行『魔獣境図書館(ライブラリー)―菊地秀行のあとがき読本』(1993年6月10日 朝日ソノラマ)


その他、当時の週刊誌・月刊誌・小説誌も参考にさせていただきました。

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