第四章 日常の終わり

第1話

 玄関のドアを開けると、奥から話し声が迎えた。

 部活を終えて学校から帰宅した一真は、内心で首を傾げた。今日は両親は仕事で遅いから、家には詩織しかいないはずだ。

(誰か来てんのか……?)

 鞄を自室に置き、奥の詩織の部屋へ向かう。

 少し開いたドアの向こうから、楽しそうな笑い声が漏れてくる。

 学校を休みがちになっている妹をクラスメイトが訪ねてきてくれたのかもしれない。日はとっくに暮れていて、小学生が来るにしては少し遅い時刻のような気もするが、塾や習い事の帰りということもある。

 期待を抱きながら部屋を覗き――、凍りついた。

 明かりもつけていない暗い部屋の真ん中で、詩織が楽しそうに笑っていた。たった一人で。

 パジャマ姿で床に座った妹の前には、十二支をかたどった十センチほどの金属製の動物達がずらりと並んでいる。確か、リビングの棚に飾られている置物だ。

「あ、お兄ちゃん! おかえりなさい!」

 ドアの隙間から覗いている一真に気づき、詩織は興奮気味に頬を赤くした。

「聞いて! この子達、詩織とお話ができるんだよ!」

「お話……? 置物そいつらが……?」

「うん! こうしているとね、声が聞こえてくるの!」

 どれだけ目を凝らしてもただの合金の塊にしか見えない羊の置物を手に取り、詩織は子犬にするように頬を寄せた。

「この子はね、メリーさんっていって……」

「詩織っっ!」

 思わず、痩せた両肩を掴んだ。

 驚いたように詩織が見上げた。

「お兄ちゃん……?」

「よく見ろ! それはただの金属だ! しゃべったりするわけねェ!!」

「え、でも……」

 何かを言い募ろうとする妹の大きな瞳を覗き込んだ。

「オレが遊んでやるから! 話したいことがあるんなら聞いてやるから! 寂しくても、そんなのと話してちゃダメだ!! いいな!? ダメだからな!?」

「う、うん……。わかった……」

 だけど、詩織はその後も時間があれば置物達を撫でていた。

 両親から槻宮学園の受験を頼まれたのは、その一週間後の事だった。




 眼を開けると、蛍光灯の光が飛び込んだ。

(眩しっ)

 寝返りを打つなり腹に走った鋭い痛みに、一気に意識が覚醒する。

「詩織っっ!!」

 腹を押さえて飛び起き、見慣れた自分の部屋を見回す。驚いた顔の光咲と目が合った。

「一真君……! よかったぁ……!」

 ベッドの傍にヘタッと座り込み、光咲は涙ぐんだ。

「すっごい血が出てて、どうしようって思ったんだから……!」

「それより詩織は!? どうなったんだ!?」

「詩織ちゃんは……」

 光咲の答えを待つのがもどかしくて、部屋の中に茶髪の少年の姿を探した。一真と光咲の他に誰もいない。

「先輩は!? まだうちにいるのか!?」

「ちょ、ちょっと落ち着いて……! ね?」

「オレは落ち着いてる!」

「じ、じゃあ、少しだけ待って……!」

 光咲は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。それでも足りなかったのか、ポケットから金平糖を取り出して口に含んだ。

「……詩織ちゃんは……、窓から外に飛び出していったの……」

「じゃあ、先輩は……、詩織を追いかけていったのか……?」

「一真君の手当てをして部屋に運んでくれて……、すぐに行っちゃった。起きたら、これを渡してって……」

 差し出されたのは消しゴムほどの大きさの木の札だった。葉守神社の名と読み方の見当もつかないような文字が墨で書かれている。受け取った左手がぼんやりと熱くなった。

「邪を退けてくれるお守りなんだって……。詩織ちゃんの覚醒に呼応こおうして、一真君もいつ覚醒するかわからないから、これを持って家で大人しく寝ててって……。鎮守隊から松本医院に往診をお願いしておくから、怪我を診てもらって、って言ってた……」

 強烈な違和感が襲った。

 まるで隠人や鎮守隊を知っているような口ぶりだ。

 望が光咲に鎮守隊の事を説明できるだけの時間があったとは思えない。仮に時間があったとしても、邪や鎮守隊のことは、隠人にしか話せないはず――。

「……知ってたのか? 先輩が鎮守だって……。鎮守様がどういうものなのかってことも……」

 光咲は観念したように頷いた。

「私……、隠人なんだって……。まだ覚醒していないけど、予備知識はあったほうがいいから、って少しだけ教えてもらったの……」

「そっか……」

「驚かないんだね……」

「けっこう驚いてるけど……」

 槻宮学園の奨学金のくじ引き、金平糖、掌の妙な痣……、光咲に聞けずにいた小さな違和感も、彼女が隠人だとすれば納得できる。

「さっきの詩織が強烈過ぎたっていうか……。光咲は、いつから隠人のこと知ってたんだ?」

「一年くらい前。兆が出て、葉守神社に相談したの……。その時は、潜在的な隠人なのは間違いないけど、まだ覚醒するかどうかわからなくて、霊薬で抑えて様子を見ることになって……。だけど、もう霊薬も効かなくなってきちゃって……、この調子だと、どれだけ抑えても、あと三ヶ月……、夏までには覚醒しちゃうって……」

 まるで、この世の終わりが三か月後に迫っているような深刻な顔で、光咲はうつむいた。

「そんなスゲエへこまねェでも……。隠人って超能力者なんだろ? いいじゃん、それ」

「違うよ……! 隠人は……、一真君が思っているような、人間の超能力者じゃないの……!」

 いつになく激しい口調に、呆気にとられる。

 光咲がこんなに感情を露わにしたのは初めてかもしれない。

「隠人っていうのはね、霊獣れいじゅう末裔まつえいで……、霊獣の血を隠し持っている人のことなの……! その血のおかげで超能力みたいな力を使えるけど……、力に呑まれちゃったり、さっきの詩織ちゃんみたいに邪を呼び寄せて巣食われちゃうの……! 鎮守隊が退治してる邪の中には、巣食われた隠人もいっぱいいるって……!」

 光咲は両手で顔を覆った。細い肩が小刻みに震えている。

「私も……、覚醒したら、さっきの詩織ちゃんみたいになっちゃうのかな……? あんな気持ち悪い悪霊に憑りつかれて……っ、一真君やお母さんやお父さん、若菜のこともわからなくなって……、皆を殺そうとして……、鎮守様に退治されちゃうのかな……?」

 何かを言わなければと思った。

 だが、何を言っても気休めにしかならないような気がした。

 隠人のことは光咲のほうがきっと詳しいし、さっきの詩織を目にして落ち着いていろと言うほうが無理だ。一真だって、かなりこたえている。

「……鎮守様、か……」

 右手にチリチリと燃えるような感覚が残っている。詩織を突き飛ばした時に、望の炎に触れたせいだろうか。

 懐かしいような、記憶の底から何かが飛び出してきそうな奇妙な感覚を落ち着けるように息を吐いた。

「…………行かねェと……」

 唇から言葉が漏れたと思った時には、ベッドから降りていた。

 どうしても、今すぐに望に会いに行かなければならない――、理由もなく、強く思った。

「一真君!? う、動いちゃダメだってば!!」

 光咲が慌てて止めた。

「寝てなくちゃ……! 血は止まってるけど、絶対安静だから……! 邪にやられた怪我は、霊気で専門の手当をしないといけないの……! 先生に、ちゃんと診てもらわなくちゃ……!」

「……先生が来たら謝っといてくれ。それと、これ」

 押し付けるようにしてお守りを渡すと、光咲は戸惑ったように一真とお守りを見比べた。

「光咲が持ってろよ。オレは護られてなくても大丈夫だからさ」

「一真君……っ」

 何かを悟ったのだろう。

 光咲は部屋の出入り口と一真の間に立った。

「……詩織ちゃんを……、探しに行くつもり……?」

「ああ……」

「だ、ダメだよ! そんなことしたら……!」

 細い手が腕を掴み、大きなセピアの瞳が潤んだ。

「こ、殺されちゃうかもしれないよ!? 詩織ちゃんに……っ」

 「殺される」――、その言葉が重く響いた。一真を刺した時、詩織には一切の躊躇ちゅうちょがなかった。望がいなければ、自分だけでなく、光咲もどうなっていたかわからない。

「ね? やめようよ!? お願いだから、ここにいて……!!」

「悪い。それはできねェ……」

 光咲の手が怯えたようにビクリと震えて離れた。

「怖くないの……? 死んじゃうかも、しれないんだよ……?」

「そりゃあ怖いけどさ……。オレは、オレの知らない場所で、詩織が誰かに怪我させちまったり、鎮守隊に退治されちまうほうが、よっぽど怖いから……。それにさ、」

 言葉にしているうちに、迷いが吹っ切れていく。

 奇妙な感覚だけが理由ではない。

 詩織の兄として、斎木一真として、詩織いもうとを探す――、それだけで十分な理由だ。

「霊獣だろうが人間だろうが、関係ねェよ。光咲は光咲だし、詩織は詩織だろ? もちろん、」

 熱が消えない右手を握りしめた。

 この熱こそが「兆」なのかもしれない。

「オレはオレだ。覚醒したとこで何にも変わらねェし、んなもんで変わってたまるかってな」

 ジャケットを羽織り、光咲の横を通り過ぎた。

 光咲は硬直したように動かなかった。

「家に帰っててくれ。隠人の家って、邪が入ってこれねェようになってんだろ? 化け物が入ってきたばっかのうちにいるよりか安全かもしれねェ」

 光咲は振り向いたが、怯えた顔でお守りを握り締めただけだった。

 ――遠い……

 初めて、光咲との間に距離を感じる。

 彼女の瞳に浮かぶ恐怖は、詩織に対するものなのか、彼女の中に潜む霊獣の血に対するものなのか、一真に対するものなのか――、それさえもわからない。

「……詩織を迎えに行ってくる……」

 それだけを告げてドアを閉めた。

 光咲が目元をぬぐったのが、気配でわかった。

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