第二章 隠人

第1話

「明日から暫く出張することになっての」

 珍しく普通に夕食をとり、普通の時刻に風呂に入った祖父が真面目な顔で切り出したのは、町に戻って五日目の夜だった。

「明日? えらく急じゃね?」

「得意先から催促が来てな。少しばかり仕入れに行ってくる」

 祖父の伸真は何事か考えている様子で茶を啜った。

 愛用の着流しの隙間から、プロレスラーかと見まごうほどの分厚い胸板とガッチリと太い腕が覗く。とてもではないが、還暦を過ぎているとは思えない。

「仕入れ?」

 金物屋にはほとんど客なんて来ない。

 仕入れに行かなければならないほど売れているはずがないのだが、昔から祖父は「仕入れ」と称しては、時々どこかへ出張する。

「留守番しとけばいいのはわかるけどさ……、ジイちゃん、いつもどこ行ってんの?」

 何気なく聞くと、祖父はしげしげとこちらを見た。

「気になるか?」

「当たり前じゃん。何かあった時、連絡しなくちゃだしさ」

「信……、長野へ二週間ほどかのう」

「長野?? 二週間って……、春休み終わるじゃん……」

 伸真の「仕入れ」は、とにかく長かったのを思い出す。

 日帰りしたことはなく、一週間が基本で、長い時は一ヶ月ほど戻ってこない時もあった。

「ジイちゃんさ、いつも何の仕入れしてんの? 帰ってきてもお土産しか持ってねェし、荷物が届いてる感じもねェしさ……」

「ほう、なかなかよく見ておるではないか。見直したぞ、一真」

「そ、そうでもねェけどさ……」

 思いがけない誉め言葉に、頬を掻いた。

 祖父とこういった話をしたのは初めてかもしれない。

「仕入れというよりは、古くからの知り合い達との情報交換といったほうが良いかもしれんな。少しばかり人里離れたところに住んでおるから、一日や二日で回れんのじゃよ」

「……金物屋の情報交換会でもやってんの?」

「まあ、そんなところじゃ! 縁は大事にせんといかんからのう!」

 伸真は楽しそうに笑い、年季の入ったノートを取り出した。

「出張中、店を頼んで良いか? 昔もやっておったし、お前なら大丈夫じゃろう」

「……奥で座ってたり棚の埃掃ってただけだぜ? 客が来たらバアちゃんや母さんを呼びに行ってたし……。二週間くらいなら、店閉めたら?」

 一真の答えを予想していたように、信真は頷いた。

「むろん、タダでとは言わん。ちゃんとバイト代を払おう」

「バイト代~~?」

 昔は、休みの日に手伝って、日給五百円だった。

 さすがに、この年になってそれはないだろうが、せいぜい日給千円くらいだろう。バイトとはいっても、座っているだけ。身内だし、店の商品が全く売れていないのではしょうがないとは思うが。

(二週間フルで店開けたら、まあまあ金になるだろーけど……、オレも残りの休みでやりたいことあるしなあ……)

 春休みの間に町の探索もしたいし、昔の友人に連絡もしたい。

 それに――、五色橋での出来事を探ってみたい。

 気乗りしていない心中を見透かしたかのように、祖父は人差し指とを中指を立てた。

「うむ。時給二千円でどうじゃ?」

「時給!? 時給で二千円!?」

「朝十時から夕方の五時までで構わん。ノートここにちゃんとつけておいてくれたら、戻った後にその分を支払おう。昼休憩も仕事時間として計算しても構わんし、売上があれば時給に上乗せしよう。休憩も適当にとってくれて構わん」

 あまりのバイト条件に衝撃が走った。

(な、なんなんだ……!? この、店の売り上げを無視した高待遇は!?)

 あんな、一日中座っていても客が一人来ればいい程度の金物屋の店番をするだけで、時給二千円……!

 ガタンッと音を立てて心の天秤が傾いた。

「ま、マジ!? ホントに時給で二千円もくれんの!?」

「うむ。詩織や光咲ちゃんが手伝ってくれたなら、その分も帳簿につけておきなさい。二人にも払おう。土日は休んでも構わんし、五時を過ぎたら一分単位で残業代も出そう」

「……ジイちゃん、一応聞くけど……」

「なんじゃ?」

「光咲の親父さんの世話になるようなこと……してねェよな……?」

 光咲の父は警視庁の刑事だ。

 温厚な性格で、よくキャッチボールをしてくれたり、相談に乗ってくれた。一真にとっては、もう一人の父親のような人なだけに迷惑をかけたくない。

「なんじゃ、大雑把なくせに、妙なところで小心者じゃのう」

「気になるって! こっちに帰ってきてから、店に客来てるとこなんて見たことねェし! そんな金、どこから出てくるんだよ!?」

「フ、そうじゃのう……。目に見えておるところだけが収入源というわけではない、とだけ言っておこう」

「その言い方、逆に怖ェよ……。見えてねェとこで何やってんだよ……?」

「安心せい。町内公認の商売じゃ」

「……なんかあったら、オレは詩織を連れて大坂に逃げるけど、いいんだな?」

「むろんじゃ」

 考えてみれば、光咲とは物心ついた時から家族ぐるみの付き合いだ。

 伸真が黒い商売をしているならば、光咲の父がとっくに動いているだろう。

「……それなら、やってもいいけどさ……」

「おお、引き受けてくれるか……! 恩に着るぞ」

 伸真はいそいそと分厚いノートを取り出し、一頁目を開いた。

 表紙の裏に電話番号と、何らかの組合らしい名前が書かれ、あとはずらっと名前と連絡先とメモが書かれたページが続いている。

「この一覧に名前のある人が来たら、この番号に連絡をくれ。繋がるまでに時間がかかるじゃろうから、最初から客間に通して待ってもらうといいじゃろう」

「へえ……、お得意様ってやつ?」

「うむ。昔、お前が店番をしておった時に訪ねてきた人もおるぞ」

「そーいえば、何回か同じ人が来てた気するけど……」

 パラパラと捲ると、ノートの五分の四くらいまでびっしりと埋まっている。連絡先の住所は東京が多いものの、関西もけっこうある。

「……もしかして、この人達が来るかもしれないから、店開けるの?」

「古くからの馴染みばかりでな、緊急の用向きが多いんじゃよ」

「緊急で金物……?」

 疑問が過ったが、そういうこともあるのだろうと自分を納得させておく。

 伸真は一覧表を取り出した。

「ここに書いておる人が包丁を引き取りに来たら、渡してやってくれ。名札をつけておくから、ちゃんと確認してもらうんじゃぞ。代金は先払いでもらっておるから、渡すだけで構わんからの」

「やってみるけど……、後で細かいこと言わねェでくれよ?」

「ワシよりは確実じゃろう。皆、馴染みの客ばかりじゃ、安心せい」

 一抹の不安が過ったが、仕事の内容は単純な取次だ。

 なんとかなるだろうと、ノートと帳簿、鍵の束に、二週間分の生活費を受け取った。

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