第2話

「なんだったんだ……、さっきの……」

 時間が経つにつれて、つい今しがた見たばかりの景色が夢だったようにさえ思えてくる。

 だけど、夢と割り切るにはあまりにもリアルだった。なによりも、ぶつけた額はまだ少し痛い。

(チラッと顔見えたけど……、知らねェヤツだったな……)

 四年前の小学五年生まで、一真は両親と妹と一緒に祖父母の家に住んでいた。

 こんな時間に、祖父母の家から徒歩圏内にいるということは、あの少年も同じ小学校に通っていた可能性が高いが、会った記憶はない。

 そもそも、あんな真っ赤な髪に赤い眼をしていれば、違う学年でも噂になっているだろう。

「あ~~、くそ、なんか後味悪い……」

 最後に見たのは、少年の背後から覆いかぶさるように襲いかかる黒い巨大なアメーバだった。

 少年が振り向いたのはわかったが、あの後、彼が難を逃れたのかどうかまではわからない。

(あのまま殺された、とかだけは勘弁してくれよ……、マジで……)

 流れの緩やかな川だが、彼の立っていた真ん中あたりはかなり深い。足場になりそうなものはないし、何かに乗っているという感じでもなかった。

(九時半か……)

 家で待っている詩織の顔が過ったが、この場を離れる気分になれずに腕時計を睨んだ。

(……そーいえば、こっちにいる時って、夜九時過ぎてから外出たことってなかったな……)

 四年前、門限は十八時だった。

 小学生の門限など、どの家も似たようなもので、幼馴染の家も、他の友人達も似たような時刻だったから、さして不思議に思わなかった。

 母に頼まれてお使いに行ったり、習い事に通う日もあったが、二十時半までには家に帰っていたように思う。

 一度だけ、塾の帰りに友達と遊んでいて帰宅が二十一時を過ぎたことがあった。

 あの時ばかりは両親だけでなく、普段は何も言わない祖父母にもひどく叱られた。

「『夜九時からは鎮守ちんじゅ様の時間』……だっけか……」

 すっかり忘れていた「町内七不思議」が口を突いて出た。

 少し遅くなったくらいで、と唇を尖らせた一真に、両親だけでなく祖父母も、口をそろえて、その七不思議を口にした。

 『夜九時からは鎮守様の時間。子供が外をうろついていたら、蛇に喰われる』

 「んなわけあるか。ガキ扱いしてんじゃねーよ」と思ったものの、親達の迫力に負けて渋々頷いたのを覚えている。いつもは味方になってくれる祖母に叱られたのは、あの日が最初で最後だった。

 それくらい、あの時ばかりは家にいた大人が皆、同じことを言って目を吊り上げた。

 ただ、あれは浅城町限定の七不思議だったらしく、大坂に引っ越してからは二十一時を過ぎて帰宅しようが、何も言われなくなった。

 結局、「鎮守様」が何だったのか。本当に「蛇」がいるのかどうか。

 わからないままだが、今まで思い出すことすらなかった。

(……帰ったら、ジイちゃんに聞いてみるか……。何か知ってるんだろーし……)

 四年前の小学生ならばともかく、一真も春から高校生だ。

 二十一時を過ぎて外出していたところで、とやかく言われることもないだろう。今日に限れば、祖父の生活破綻が原因なのだから。

 あれこれと考えながら橋の上に戻ると、キキッというブレーキ音がした。赤い自転車が目の前に止まる。

「一真君……?」

「へ?」

 赤い自転車に乗った少女が大きな瞳でこちらを見つめていた。

(……め、めちゃくちゃ可愛い……!)

 ふわりとした橙がかった髪をツインテールに纏め、セーターにハーフパンツ、すらりとした脚にスニーカーを履いている。年は一真と同じくらいだろうか。

(だ、誰だ!? こんな可愛い子、オレの知り合いにいたっけか?)

 動揺する内心を隠しながら、四年前の記憶を引っ張り出す。

 大きなセピア色の瞳が不安げに瞬いた。

「あの、斎木一真君……だよね? 四年前まで、この近くに住んでた……」

「あ、そうだけど……、その……」

 向こうは明らかに、こちらを知っている。

 ますます動揺するが、どれだけ記憶を辿っても、肝心の思い当たる人物がいない。

(オレより年上って感じじゃねェから……、一ッコ下くらいかもしれねェけど……。詩織の知り合いとかだったら、マジでわからねェ……!)

 自力で思い出すのを諦め、恐る恐る口を開いた。

「あ、あのさ……、誰だっけ……?」

「え……?」

 少女はサッと小さな顔を曇らせた。

 春の風にパーマを当てたような見事な癖毛がふよふよとそよぐ。

(……あの癖毛……?)

 激しい既視感と共に記憶が顔を出した時には、少女は泣きそうな顔で自転車を急発進させていた。

「ご、ごめんなさい! 人違いでした……!!」

 顔を真っ赤にして少女が走り去るのとほぼ同時に、その名前を思い出していた。

「ま、待ってくれ、光咲! 北嶺光咲きたみね みさきだよな!?」

 叫んだ時には、自転車は橋を過ぎてしまっていた。あの様子では、一真の声は聞こえていないだろう。

(くおおおおおおっ、やっちまったあああああああああああああっっっ)

 まさか、小さな頃から毎日のように会っていた幼馴染の顔がわからなかったなんて――。

 たった四年で、あんなに顔も雰囲気も変わっているなんて、もはや反則の域だ。

 そして、これは明らかにマズい。弁解のしようもないほどに。

「すまん! オレが悪かった! 頼むから止まってくれ、光咲ィーーーーーーーーー!!」

 知らない人が聞いたら痴話喧嘩中のカップルとしか思えないようなセリフを叫びながら、一真は必死に赤い自転車を追いかけた。

 急に復活した空腹で、いつもの半分くらいしか声が出ない上に足が重い。だが、今、ここで追わなければ絶交されそうな気がする。

 傷心の光咲がようやく止まったのは、そこから二百メートルほど先の交差点だった。

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