第6話
夕闇が満ち始めた部屋で、詩織はパジャマの袖を
「どうしようっ」
何度目かわからない呟きは掠れ、涙声に変わり始めた。
昨日の夜中、やけに腕が熱くて目を覚まし、袖を捲ったら、「これ」が出ていた。あまりにも非現実的だったから、夢だろうと気にしないで眠ってしまったが、今朝になっても同じ場所に浮かんでいた。
「また……、濃くなってる……っ」
消えるどころか、時間が経つにつれて濃くなって、ついには白く光り始めた。痣やホクロの類でないのは明らかで、「紋章」、「文字」――、そんな言葉がぴったりするかもしれない。
「どうしよう……、熱いよお……っ」
先ほどから紋章はドクドクと脈打ち、その部分だけ熱を帯びてくる。
それだけでも怖くてしかたがないのに、紋章が脈打つ度に視界が切り替わり、電気をつけていない部屋の中で家具が自ら光っているかのようにはっきりと見えるようになっていく。
(お兄ちゃん……、助けて……っ)
今すぐにでも兄に相談できれば、どれだけいいだろう。どれだけ安心できるだろう。
だけど、どうしても、この腕を見せる勇気が出ない。
新しい学校に馴染めずに体調を崩した自分と違い、兄はすぐに新しい学校に慣れて、友達も沢山いた。中学校では二つも部活を掛け持ちして、成績だって優秀で――、きっと、行きたい高校があって、やりたいこともあっただろう。
なのに――、自分が東京に戻りたいなどと言い出したばかりに、兄は半ば強制的に槻宮学園へ進学することになってしまった。
「行きたい学校もなかったし、ちょうどよかった」などと言ってくれたが、きっと嘘だ。いろんなものを我慢して、詩織の
これ以上、迷惑をかけるようなことできるはずがないし、この腕を治す方法なんて、兄でも知らないだろう。
「どうしようぅ……っ」
優しい光咲の笑顔が浮かんだ。
さっきは何とか腕を見せずにごまかせた。「ココア作ってくるね」と言ってくれたから、あと少し経てば部屋に来てくれるだろう。
前から詩織が腕を気にしているのを知っていた光咲なら、この腕を見せても……。
(やっぱり、ダメ……、気味悪いって思われちゃうかも……っ)
光咲の母が見てくれた時は、こんなものは出ていなかった。腕もムズムズしていただけで、こんな紋章みたいなものは浮かんでいなかった。
――どうしよう……、どうしよう……、どうしよう……!!
枕に顔を
明日も部屋から出てこなければ、さすがに兄も光咲も心配して病院に連れて行こうとするだろう。
だけど、病気や
‘なにを泣いておる……?’
聞いたことのない女の声に、顔を上げた。
自分しかいないはずの部屋で不意に聞こえた声なのに、不気味だとは思わなかった。それほどまでに声は優しく、耳を通して全身に染みた。
「う、腕に……、変な模様が、出ちゃって……」
口からスルスルと言葉が
頭のどこかで
‘それはかわいそうにのう……。どれ、
労わるような、心の底から心配しているような声音に、残っていた恐怖が消えた。
「本当……? 消せるの……?」
‘むろん……、さあ、腕を見せておくれ……’
「うん……」
ぼうっとした頭で返事をして起き上がった。
薄暗い部屋を見回しても、誰もいない。
‘ここじゃ……、この窓を開けておくれ……’
「窓……」
催眠術にかかったように、ふらふらと窓辺に近寄った。
この模様さえなくなれば、楽しい毎日が戻ってくる……!
明日も、明後日も、その後もずっと……!
ただそれだけの思いに突き動かされるようにカーテンを引くと、窓の向こうに「顔」があった。
髪も目も鼻も口もなく、金属のような硬質な「顔」はぼんやりと白く光っていて、真ん中の鼻があるだろう位置に赤い石が埋め込まれている。
体は――、夕やみに同化しているのか、顔だけの存在なのか、見えない。
まさに、「化け物」としか言いようのない
‘おぉ、おぉ……’
白い顔がペタリと窓ガラスにくっついた。パリパリと火花が散り、慌てて顔は窓から離れた。
‘なんと高貴な狼の匂いか……! やはり、この近くにおる……! 人の中に堕ちた、一門に通じる
「うん……、ちょっと……、待ってね……」
ぼんやりと応え、詩織は窓の錠に手をかけた。ここが二階で、窓の外に人がいるはずがない――、そんな疑問すら浮かばず、
「ん~~、んーーー……、あれ?」
いつもは少し力を入れるだけで開くのに、今日に限って固い。
両足を踏ん張って両手に力を入れた。
腕の模様が急激に熱くなり、手に白い光が灯る。
錆びた扉が開くような音がして、錠が半分ほど回った。
(あと……、少し……!)
さらに手に力を入れた時だった。
ドアを控えめにノックする音がした。
「詩織ちゃん、ココア持ってきたよ。入ってもいい?」
「あ……、光咲……、お姉ちゃん……、」
夢から覚めたように我に返った。
(あ、あれ……? 詩織……は……)
何と話していたのだろう?
何をしているのだろう?
ガタガタと震えながら、窓の外に目をやった。
「あ……、ああ、あ……!」
ふよふよと浮かぶ白く光るお面に身体が震えて、悲鳴すら出てこない。
‘おやおや……、あと少しだったのにのう……、まあ、良い……、もう開いておるわ……’
優しかった声が薄気味悪く笑った。
錠がひとりでに回り、火花が飛んだ。
窓ガラスに大きな白い星型と模様と文字が浮かび、弾けるように光ったのを最後に消えた。
錆びた音と共に窓が少しずつ開いていく。
「い、いや……、」
後ずさり、光咲の存在を思い出す。
「だ、ダメ……! は、入ってこないで!!」
恐怖を押さえつけて、窓の取っ手を掴んだ。
しかし、詩織の抵抗などないかのように窓は開いていく。
ねっとりと不気味な風が部屋の中に吹き込んだ。
「詩織ちゃん? どうしたの!? 入るよ!?」
「ダメェエ! 入ってこないでェええええええええええええ!!」
ドアに向かって叫び、視線を窓に戻した時には、化け物は目の前に迫っていた――。
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