第十二話 余白の美学


 北窓彩春は、いつも通り図書館五階の会議室で、読書感想会の準備をしていた。

 今日のテーマは、去年老画家の半生を描いて話題になったドラマの原作で、伊能英海いのうひでみが書いた「余白の美学」と言う作品を取り扱う。

 

 この「余白の美学」と言う作品は、ドラマで人気に火が着き、原作が売れに売れた。

 ドラマは芸術的な映像美もさることながら、大物俳優が演じた主人公の人間ドラマが、彼の描く絵画と相まって、視聴者に感銘を与え、高視聴率を叩き出した。

 嘘か誠か、絵を描く人が増えて、一時期画材屋から商品が消えたとか言う話もあった。

 さらに、この作品の題名でもある「余白の美学」と言うテーマは、芸術や人生の意味、自己探求など、普遍的なテーマに焦点を当てていて、それに多くの視聴者が共感した。

 「芸術とは余白である」と言う主人公の台詞は、流行語大賞にもノミネートされたほどだ。

 

 彩春は、この作品を読んで、色々考えさせられた。

 主人公の松木玲生まつきれおが幼少の頃から始めた絵描きは、やがて人に認められるようになり、絵画一つでのし上がり、有名画家の仲間入りを果たす。しかし、成功とともに訪れる様々な困難に直面し、挫折と評判の狭間で葛藤することになる。

 やがて多岐亡羊の末、余白に深い美を見出し、自らの作品に昇華させていく。

 芸術の本質とは何か、人生の意味とは何か、そして自己との対話の重要性に対する、深い洞察について考えさせる作品となっている。


 この作品において、余白とはバランスや美しさを引き立たせるものであり、余白を通じて観者に想像の余地を与え、作品に深みや静けさをもたらすととともに、この余白が人生に余裕を与え、生活が豊かになり、充実へと繋がるとしている。


 この作品を読んだ彩春は、母の人生に思いを馳せた。

 初恋を諦め、父と出会い、彩春を産み育て、父が亡くなると、人生のどん底に突き落とされたように憔悴した。中身は違っても、人生の挫折を味わったのではないだろうか。

 そんな母を救うべく、野村との出会いを画策した結果、今や母は血色も良くなり、以前にも増して美しくなり、笑顔が増えたのは、本当に良かった。

 母にとっての人生の余白に、彩りを添えることができたのは、娘としても嬉しいことだった。街中で野村と出会って、話をしたことを、娘に隠すことなく、乙女のように報告する母の言葉は、彩春にとって、父の子としての寂しさはあれど、母の子としての喜びが勝るのだ。

 いずれ野村との関係性がもう少し進んだら、三人で旅行にでも行こうかと、彩春は新たな計画を画策していた。


「彩春、今日もよろしくね。」

会議室に到着し、開口一番そう言った母は、今日も美しく着飾り、満面の笑みだった。

「ハイハイ。母さん100円ね。」

そう言って彩春は、煩そうに会費を請求するが、顔は笑っている。幸せそうな母を見るのは、本当に嬉しかった。


 しかし、続々と参加者が集まる中、一人お目当ての人物が現れない。

 どうしたのかと思い、古株の田中さんに受付を任せて、電話を掛ける。しかし、何度呼び出しても、応答はない。

 やがて、時間となり、嫌な予感に駆られながらも、彩春は読書感想会を開催した。

 参加者たちも一人いないことを気にしているようで、「野村さん今日いらっしゃらないね。」と小声で話し合っていた。

 一応、この読書感想会は参加不参加が自由ということでやっているので、欠席したからと言って何かあるわけではない。しかし、彩春は嫌な考えが次から次へと頭に浮かび、気が気ではなかった。


 読書感想会の方は滞りなく進行した。

 いつもの様に各参加者が今回のテーマ図書「余白の美学」について感想や意見を述べ、最後に意見交換をするまで、いつもの和気藹々とした雰囲気はなく、どこか暗い雰囲気ではあった。

 やはり、皆野村の不在を気に掛けていて、どこか上の空で、いつもの深い意見交換は行われなかった。


 彩春は、簡単に閉会の挨拶を済ませ、皆で掃除をして、会議室の戸締まりを終えた。そして母に向かって、

「母さん、何か気になるから、野村さんの自宅を伺ってみない。何もなければ良いし、何かあったら大変だからね。どうしても気になるの。」

「そうね。私もずっと気が気でないのよ。」

母は、顔面蒼白で、今にも泣き出しそうな表情だった。そこにいつもの気丈な母はなく、ただただオロオロする女性がいた。


 図書館を後にし、会員名簿の住所を目指して、二人は無言で足早に歩く。

 10分ほどで野村の自宅を探し出し、呼び鈴を押してみる。

 しかし、反応はない。通りの塀越しに中を覗くと、ガラス窓が閉め切られていて、誰もいる様子はない。

 もう一度呼び鈴を鳴らすが、やはり反応はない。


 すると、近所に住んでいる人なのか、一人の年配女性が近づいてきた。

「どうされましたか。野村さんにご用ですか。」

「はい。私たち野村さんと同じサークルの者なんですが、今日見えられなかったので、どうされたのかと心配になってお伺いしたんです。」

「そうなのね。そう言えば、ここ何日か見かけないわね、旅行にでも行ったと思っていたけど、それはちょっと心配ね。」

 三人は互いに自己紹介した。女性は山中京子やまなかきょうこと言い、野村直人の母親と懇意にしていて、亡くなってからは、直人とも近所づきあい程度は続けているという。


 その年配女性、山中京子はずかずかと正面の門扉を開いて、玄関の扉を叩く。

「なお君!なお君いる?」

大きな声で呼びかけるが、返事はない。何か物音が聞こえないかと山中はドアに耳を当ててみているが、何も聞こえないという風に首を横に振る。


 そのあと、庭の方へ周り、ずかずかと入っていった。彩春と虹華も彼女に着いていく。

「なお君、なお君いる?」

先程のようにガラス窓を叩きながら、大きな声で呼び掛けたが、やはり返事はなかった。


 さらに山中は、庭の奥へと進んだ。

 すると、裏庭の物干し竿に、洗濯物が干したままになっているのを発見したのだ。

「これは大変。救急車を呼んで。早く!」

女性は何かを感じ取ったのか、二人に慌てて指示を出す。

 彩春は慌てて携帯を取り出すと、119番を掛けた。

「はい、翠風市消防署です。火事ですか、救急ですか。」

「救急です。」

「住所とお名前をお願いします。」

「翠風市緑町2-5-10の野村さんの家です。私は知人の北窓彩春と言います。」

「どうしましたか。」

「今日会う約束をしていたんですが、来られなかったので、ご自宅に来てみたら、洗濯物が干したままになっているのに、窓を閉め切っていて、中から返事がないんです。」

「分かりました。いま救急車が向かっていますので、そのままお待ちください。あなたの連絡先をお伺いしても良いですか。」

 彩春は、携帯の電話番号を伝え、さらに詳しい現状と、野村直人との関係を報告した。


 10分経たないぐらいで、救急車と消防車、それにパトカーまで到着した。

「あなたが北窓彩春さんですね。」

 救急隊員が彩春に確認をしてきた。

 救急隊員が確認を取り、状況を聞くと、まず門扉のところにある呼び鈴を数回押し、その後玄関のドアをノックする。

「野村さん!翠風消防署の者です!開けて貰えますか!」

 やはり中から返事はない。先程山中がやったように、この救急隊員もドアに耳を当てて中の音を聞いている。


救急隊員は彩春に聞いてきた。

「こちらは野村さんの持ち家ですか。それとも借家か何か。」

「詳しくは存じませんが、おそらく野村さんの持ち家だと思います。」

「分かりました。」

救急隊員は、表で待機しているレスキュー隊員と警察官に何やら報告をした。

「野村さんのご家族とか、ご親戚、ご親族の方とかは、ご存じですか。」

今度は、警察官が聞いてくる。

「野村さんのご両親は、既に他界されてまして、ご兄弟もいらっしゃらないので、お一人でお住まいだと思います。親族の方もいらっしゃらない様なことをおっしゃってたので、連絡先などは存じません。」

「分かりました。」

そう言って、また警察官、救急隊員、レスキュー隊員の三人で相談している。


 そして、警察官が再び聞いてきた。

「最悪の状況を考えて、突入する必要があります。ただ、ドアを破壊して侵入するにしても、鍵屋さんに依頼して侵入した場合でも、その費用はすべて野村さんご本人、もしくは北窓さんにご負担いただくことになりますが、どうしますか。」

「ちょっと待ってください。母さんどうしよう。一刻も早く開けて貰った方が良いわね。」

母は、完全に顔面蒼白で、声もなく佇んでいるだけで、何の反応もなかった。

「分かりました。費用は私の方で持ちますので。破壊しても構いません。」

「そうですか。分かりました。」


 警察官はその後、レスキュー隊員に突入の指示を出した。

 指示を受けたレスキュー隊員は、他の隊員たちに指示を出していく。

 背中に酸素ボンベを背負い、ガスマスクをして、頭にすっぽりとヘルメットとシールドの付いたフードを被り、物々しい様子で完全防備の準備をしていく。

 準備が整うと、隊員の一人が何か計測器のような物で、ドアの隙間や、窓の隙間など、家の外をぐるりと回って計測していた。

「異常なし。ガス漏れ等は検知されません。」

「了解。それではこれから突入する。エンジンカッター準備。」

隊長の指示の下、エンジンの付いた丸鋸が用意された。


「北窓さん。万が一があると危険ですので、できるだけお下がりください。」

警察官が彩春に声を掛けてくる。

 万が一とは、ガス爆発とかのことだろう。彩春は、呆然と立ち尽くしている母の手を引いて、できるだけ遠ざかる。先程声を掛けてくれた山中も母を支えてくれた。

 今の彩春には、隊員たちの行動を見守るしかできなかった。

 気がつくと、近所の人だろう、野次馬がぞろぞろと集まってきていたが、警察が張ったバリケードテープで阻まれていた。


「北窓さん、準備が整いました。突入を開始しますがよろしいですか。」

「はい。よろしくお願いします。」

彩春の返事を待って、突入の許可が下された。


 エンジンカッターの爆音が当たりに響き渡り、ドアノブのあたりを切っていく。

 彩春の胸は激しく鼓動し始めた。彼女の目は不安と緊張で震え、握りしめた隣に立つ母の手も小刻みに震えていた。

 ドアの隙間に差し込まれた回転刃が立てる、耳をつんざくような音が響く中、彩春の心臓は耳を塞ぎたくなるほどの鼓動で満ち、緊張は頂点に達した。

 ものの1分もしないうちに、ドアの鍵が壊された。


「突入!」

 レスキュー隊員がドアを開け、一歩踏み入る。

 その瞬間、彩春の耳には何も音が届かず、心臓の鼓動だけが響いていた。彼女の心は不安ではち切れそうだった。


 一人ずつレスキュー隊員が中へ入っていく。

「発見!」

中からすぐに声が上がった。

 その後、安全を確認したレスキュー隊員に呼ばれ、救急隊員が中に入っていき、発見された人物の生死を確認する。

 暫くして、出てきた救急隊員は、

「残念ですが、既にお亡くなりになっていました。」

と彩春に報告した。

 それを隣で聞いた虹華は、大声で鳴き出し、その場にくずおれた。


 その後、警察も中へ入り、現場検証をおこなう。事件性がないか、死因などを確認しているのだろう。

「身内の方を捜索と検死をしますので、その間ご遺体は警察署の方でお預かりします。済みませんがご了承ください。」

彩春に近寄ってきた警察官の一人がそう言った。その後の対応も色々説明されたが、彩春は、何を彼が説明しているのか、耳には届いているが、まったく理解できなかった。


 現場検証が粗方終わったのだろう。暫くして、タンカーに乗せられた野村直人が運び出されてきた。

 救急隊員が彩春に向かって、

「お顔をご覧になりますか。」

「はい。お願いします。」

救急隊員は、顔にかかった布を捲ってくれた。

「ほら、母さん。お別れだよ。」

ボロボロ泣いていた虹華は、フラフラと立ち上がり、彩春と山中に支えて貰いながら、野村直人の顔を覗き込む。

 彼の顔は穏やかな、今にも目を開けそうな顔をしていた。しかし、寝息を立てていないのが、明らかに眠っているのとは違っていた。

 虹華は、野村直人の顔を見た途端、また大声を上げて泣き崩れてしまった。


 三人は、隊員に礼を言うと、隊員はまた布を掛け、救急車へと運び込んだ。

 救急車が去った後には、虹華の泣き叫ぶ声だけが響いていた。

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