第十一話 砂漠のオアシス
野村直人は、読書感想会に参加したあと、北窓親子と喫茶店でお茶をした。
感想を人前で発表するという大仕事を終えて、気が少し大きくなったのかも知れない。普段なら丁重にお断りするのだが、この時はなぜか誘いに乗ってしまった。
しかし、誘いに乗って正解だったのかも知れない。北窓親子は、直人と同じ翠風高校の出身で、母親の虹華はなんと直人と同じクラスだったらしい。
相手も忘れていて、気づかなかったようなので、小説のような偶然というのは世の中あるものだなと、直人は思った。
虹華に関してはまったく記憶になかったが、彼女の旧姓である
直人が高二の時、翠風祭の最後の日、体育館で行われた後夜祭に、直人は全然興味も湧かず、早く家に帰って本をゆっくり読みたいと考えていたが、全員参加が義務だったので渋々参加したのだ。
そこで開催されたミスコン。
クラスメートはもの凄く盛り上がっていたので、そんなにミスコンって楽しいものかと、疑問に思っていたが、その疑問が半世紀も経った今日解けた。ミス翠風に選ばれたのがクラスメートだったのであれば、あれだけ盛り上がっていたのも頷ける。
紫月という名前もクラスメートたちがその時連呼していたので、直人も記憶していたのだ。ステージの上で段ボールか何かで作ったティアラをして、手作りのマントを翻した女子は確かに美しく、眩しくてキラキラしていた。その時の強烈な印象を、今でも直人は鮮明に覚えていた。
しかし、今思い返しても、あのミス翠風がクラスにいた記憶がまったくないのだ。まあ、女性の顔をあまり区別できない自分では、致し方ないかと直人は思った。
何かで知った、「緊張する時は相手をカボチャだと思え」とは、緊張を和らげるには効果的だったが、人の顔を区別できなくなる弊害が生じるのだなと、改めて直人は思い、少し可笑しくなった。
ただ、先日見つけた卒業アルバムの写真に写っていた、フォークダンスの相手がミス翠風だというのをすぐに分かったのは、直人にとっても奇跡であるが、あのステージの印象が強かったのだろう。タレントの顔を何となく区別するのと同じなのではと、自己分析した。
それにしても、虹華がミス翠風だと知った時、初めて思い出しましたと言う風を装ったけど、まさか事前に見ていた写真の人物が目の前に現れるとは、さすがに神様の悪戯が過ぎるだろう、と直人は神に困惑した。
しかしながら、こんな出会いを用意してくれたことに感謝し、生涯後にも先にもこんな出会いは二度とないのだからと、この出会いを大切にしようと思った。
直人はそんなことを考えながら、家路をのんびり歩いていった。
直人にとって、彼女たちとの出会いは夢のようだった。
この日から、彼の生活に今まで起こることのなかったことが起こっていた。
図書館に行くと、受付カウンターにいる彩春と世間話をするようになり、時折スーパーなどで虹華を見かけて声を掛けられたり、直人が声を掛けたりすることもあった。
いまだに緊張は抜けきらないが、女性の前では話すらままならなかった直人にとって、もの凄く大きな進歩であった。
65歳にして人生の春が訪れたと言っても過言ではない。
別段、彼女たちとどうこうなりたいというわけではない。話ができることが嬉しいのだ。それも、大好きな本について語り合えると言うのは、直人にとってこの上なく幸せなことだった。
月に一度の読書感想会が楽しみになり、毎月欠かさず参加するようになった。
読書感想会が終わると、一階のカフェに入って三人で語り合った。
様々なことを語り合った。
話題は、主に本のことだった。読んできた本の感想や、話題になっている本のことはもちろんのこと、好きな作家についても語り合った。
しかし、話題はそれだけではなかった。大学時代のこと、会社勤めしていた頃の話、旅行の話などなど、多岐にわたった。
こんなに、人と色んなことを話したのは、本当に初めての経験だった。
夏が過ぎ、秋が訪れ、冬になっても、直人は参加し続けた。まるで人付き合いが苦手だったのが嘘のようである。
これまでの人生、直人は一人孤独に砂漠の中を歩いてきた。ともすれば、その足跡も消え去りそうなぐらい、弱々しかったのだ。
それが、漸くオアシスに辿り着いたのだ。
人と付き合うことの潤いを、直人は初めて知ることができた。
退職のあの日、孤独になることに対する言い知れぬ恐怖と不安は、今やまったくと言って良いほど感じることはなくなったのだ。
読みたい本も増えた。読書感想会に参加するたびに、見聞きしたことのない作品名が挙がってくるのだ。いわゆるライトノベルと呼ばれるジャンルにも初めて挑戦した。
「お約束満載で、嵌まる人には嵌まるけど、知らない若者の常識があると、理解できずにつまらなく感じますよ。何せ若者向けの簡単に読めるものが多数を占めてますから。」
サークルメンバーにそう言われたが、直人は食わず嫌いを止めようと思い、挑戦しているのだ。
確かに、若者向けの独特な言い回しは、「夏への扉」を読んだ時に感じた、見たことも聞いたこともないSF用語にも通じるものがあり、理解できないことも多いのだが、かえって直人の心を掴んでいたのだ。
異世界物や、テレビゲームの世界をモチーフにしたもの、「指輪物語」のような魔法使いやクリーチャーが登場するものなど、直人がこれまで読んできたものとは、まったく異色の世界だった。
この図書館には、そんなライトノベルも揃っていて、直人も簡単に借覧することができたのは、嬉しい限りだった。
ただ、ライトノベルの難点は、文字が小さいことだ。老人向けではないため、老眼鏡に拡大鏡を併用しないと読めないのは、少し難儀だった。
こんな、日常が送れることに、直人は日々感謝した。
相変わらず、直人は朝起きてウォーキングをし、午前中に本を読んで、昼からパソコンを弄り、夜寝るまでまた本を読む。そんな日々を繰り返していた。
しかし、月に一度の読書感想会という、区切りができたことで、単調な日々に彩りが加わり、この読書感想会に向けて、プレゼンする本を読んで準備したり、参加者の感想文のメモを纏めたり、生活が完全に読書感想会を中心に回っていた。
そんなある日、直人は市内の公園墓地に、一升瓶と花束を抱えて訪れた。
残暑厳しい秋の陽射しが差し込む中、鳥の囀りだけが響く、静かな墓地だった。
この日は父の命日である。父が生前残していた酒を、この時ばかりは開けようと、一番良さそうな日本酒の一升瓶を選んで、担いできたのだ。
墓地には大小様々な形の墓石が並び、昔ながらの直方体、いわゆる和型の物もあれば、かまぼこ形のものや、洋画で見るような板になっているもの、中には球体なんて言うのもある。
彫られた文字は、もちろん家名が多いが、中には漢字一文字であったり、好きな言葉が日本語や英語で掘られていたりと、公園墓地ならではの千差万別さがあって、故人を偲ぶ気持ちは人それぞれなんだなと、ここに来るたびに直人は思う。
墓地に並ぶ墓石は、そのほとんどが綺麗に手入れされていたが、中には誰も墓参りに来ないのか、汚れが目立つ墓石もちらほらと見受けられた。しかし、直人は年に2回、父と母それぞれの命日に必ず訪れているので、野村家の墓はさほど汚れてはいなかった。
直人は、墓石の前に立つと、一升瓶と仏花を置き、その昔ながらの和型の墓石に手を伸ばした。もう10年以上経つが、まだ古びた感じはなく、鈍い光を反射していた。
それでも、彼にとっては親が残してくれた大切な存在だった。
直人は、掃除用具を用意するために、花立てとコップ2つを持って共用の水場へ向かった。花立てとコップに付着した苔や汚れを、備え付けのブラシで落とし、綺麗に洗ったあと、水をくむ。さらに共用のバケツにも水をくみ、柄杓を入れ、雑巾を持ち、箒とちりとり、そして花立てとコップを抱えて、自分の区画に戻る。
墓に戻ると、まずは墓石の周囲を箒で掃き、ゴミや落ち葉などを綺麗にする。その後固く絞った雑巾で、墓石を上から丁寧に拭いていく。掘られた家名の中も、指を入れて綺麗に掃除していく。
掃除が終わると、花立てに仏花を生け、水の入ったコップを供え、線香に火をつけて、手を合わせて、暫く目を瞑った。
その後、いつものトートバッグに忍ばせておいた、コップ三つを取り出し、そこへ一升瓶から酒をそれぞれ注ぎ入れた。
「親父、お袋。そっちはどうだい。ちゃんと仲良くやってるか。
結局親孝行らしきことは何もしてやれなかったけど、俺は元気でやってる。
そうそう。この歳になって漸く友人もできたんだ。気さくに話せる仲間みたいな人たちだよ。読書感想会のサークルで好きな本のことをたっぷり話せるんだ。
その中でも特に良くしてくれる親子がいてね。北窓さんって言うんだけど。
びっくりだよ、高校の同級生で、ミス翠風だった人とその娘だよ。
最初全然分からなくてさ。
話を聞いたら同じクラスだったって言うから、さらにビックリだよね。
そうそう、自分もいつそっちに行くか分からないから、後のことはその親子に頼もうと思うんだ。どうだろう。
もちろん、まだ先のことだから、いよいよってなってから頼もうとは思うんだけどね。親父たちが残してくれた財産だから、ちゃんとしたいんだけど、ほら、俺人付き合い苦手だからさ、頼める人が他にいなくて。
いいよね。って聞いても、駄目とも言えないか。済まないな、親父、お袋、こんな不甲斐ない息子で。」
直人は、一人ちびりちびりと日本酒をやりながら、ぽつりぽつりと、とりとめのないことを墓石に向かって話し続けた。
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