第十話 待ち侘びた邂逅
母の初恋話を聞いてから、月日が流れたある日、また母がアルバムを眺めていたので、今度こそと、そっと覗き込んだ。
母が見ていたのは、翠風祭の体育の部の写真だった。翠風祭とは母と彩春が通った高校の文化祭で、体育の部と文化の部に分かれ、三日間に渡って開催される祭りである。
体育の部は一般的なスポーツ競技も行われるのだが、目玉はなんと言っても、最後に行われるフォークダンスだ。意中の人と、手を取り合ってダンスをする、いわゆる告白タイムになっているのだ。と言ってもこれは彩春の時代。20年ほど前の話だ。
彩春にとっても今はどんな感じなのか、母の時代はどうだったかはよく分からない。
「とうとう見つかってしまったわね。」
母が観念したように言う。
「この写真ね。いつも見てたのは。」
母が開いていたページにあったのは高校時代の母と、顔を真っ赤にして、それでも前を向いて懸命に踊っている男の子との、フォークダンスをしている写真だった。写真の脇には、「美人と踊って、照れくさそうに顔を真っ赤にしている男子」とあった。
「そうよ。この写真よ。」
「もしかして、この人がお母さんの初恋の人?」
「そう。私の思い出の人。」
「へぇ結構素敵な人じゃない。ねぇ、この人の名前は。」
「良いのよそんなのは。もう思い出の中の人なんだから。忘れたわ。」
母は一生懸命ごまかそうとする。
「うそ。絶対覚えてる。」
不毛な攻防を続けたが、結局今回も母に軍配が上がった。
そんなことがあってから、数日経ったある日、彩春が勤める図書館に、ハンチング帽を被って、ポロシャツにスラックス姿の老紳士が現れたのだ。
彩春は、ふと見覚えがあるなと思って記憶を辿ったが、最初ピンとこなかった。週に一度現れるこの老紳士を、当然見知ってはいたが、どこか別の場所で会ったことがあるような感覚になったのは初めてだったからだ。
老紳士は図書返却に訪れたので、図書館カードの提示を求めた。モニターに表示された名前は、野村直人。どうにも気になったので、名前を記憶した。
その日の夜、彩春は母に再び突撃を掛ける。
「ねぇ、母さん。野村直人さんて知ってる。」
母は、彩春の不意打ちに飲んでいたお茶で噎せ返った。
「何よ突然藪から棒に。知らないわよ。」
「うそ。母さんの嘘はすぐ分かるんだから。もしかして初恋の人の名前が野村直人さんでしょ。」
「分かったわよ。降参。そうよ、野村直人さんよ。どうしてあなたがそれを知ってるのよ。」
「今日、図書館に来た人がね、母さんが話してた人にそっくりのイメージだったから、鎌掛けてみたの。」
「また、あなたの策略にやられたのね。かなわないわね。本当にあなたは小さい頃から、そう言う悪知恵だけは回るんだから。」
「なにそれ、それじゃアホの子みたいじゃない。」
「えっ、違うの?」
「もう!」
母は、ばれてしまったことの照れ隠しもあってか、彩春をいつもよりも余計にからかった。彩春は、母のそんな気持ちを知ってか、じゃれ合うように応戦した。
「ところで、母さん野村さんと話をしたくない?」
「どうして。初恋は思い出の中だけで良いのよ。変に引っ張り出すと、美化してきた思い出に傷がつくでしょ。」
「まあ、確かに。」
「あなたが幼稚園の時に好きだった、ヒロ君なんて今会ったら大変よ。すっかりおじさんになって、奥さんにひっぱたかれながら、子供に追い立てられる姿なんか、あなた見たくないでしょ。」
「確かにそうだけど、ってなんでヒロ君が出てくるのよ。とっくに忘れてたわよ彼の名前なんて。もう。本当に母さん記憶力良いんだから、まいっちゃう。」
「お返しよ。」
そう言って、いたずらっ子のように母は笑い、彩春もつられて笑った。久しぶりに親子で声を上げて笑ったかも知れないと、彩春はふと思った。
そんな会話の流れで、もうこの話は終わるかと思ったが、彩春はそこから攻勢を掛けた。そして、一度は遠くから眺めてみるだけでもと言うことになったのだ。
今回は、彩春に軍配が揚がった。
翌週の土曜日と日曜日の午前中に、母を図書館の入り口横にある休憩用のベンチに座らせて、野村の来館を待つ。
土曜日は不発だったが、日曜日の午前中まだ早い時間に、野村は現れた。
彩春は、身振り手振りで、母に来館を伝えるサインを送り、この老紳士が野村であることを伝えた。
母は彩春の挙動を笑ってみていた。しかし、母の視線がその老紳士に行った途端、笑顔が消えて驚愕の表情へと変わった。そして、口元を抑え目には涙をうっすらと浮かべていたのだ。
半世紀近く経った邂逅である。母の目にはどう映っているかは、彩春には想像すらできないが、色んな溢れ出る思いが込み上げてきているのは確かだった。
少なくとも、母の表情が失望に変わらなかったことだけは良かったと、彩春は一安心した。
それから、母は毎週土日になると、図書館に来るようになった。遠くから野村を眺め、彼が帰宅すると、自分も帰宅する。まるで、少女が恋する男子を追いかけるようで、彩春は少し呆れながらも、
しかし、母の恋心に火が着いたのか、日毎に溜め息の回数が多くなり、美しく着飾るようになった反面、すこし
そこで、彩春は一計を案じ、母と野村を引き合わせることにしたのだ。
「母さん。野村さんと話がしたくない?」
「どうして。そんなの良いわよ。見ているだけで充分よ。これ以上望んだら罰が当たるわ。」
「何言ってるの。毎日溜め息ついて、そんなこと言わないの。」
照れくさそうにしている母は、まさに恋する少女で、ややもすればすぐに沈みがちになるその表情に笑顔を取り戻したいと、彩春は画策していたのだ。
「あのね。私が文芸サークルをやってるのは知ってるわよね。」
「あの、なんとかって言うサークルでしょ。」
母は、当然名前を知ってるのに、照れ隠しでごまかすように知らない振りをする。
「なんとかって。Page-Turnersよ。」
「そうそれそれ、それがどうしたの。」
「野村さんを、このサークルに勧誘しようと思うの。そこに母さんが来れば、自然と再会が叶うと言う訳。どう、この作戦。」
「あんた、本当に悪知恵だけは良く思いつくのね。でも無駄よ。野村さんは人付き合いが極端に苦手な人だから、きっと勧誘しても参加してくれないと思うわ。」
「だって、もう65歳だよ、いくら人付き合いが苦手でも、好きなことなら食いつくと思うんだけど。」
「人を魚かなんかみたいに言わないの。でも、あなたは言い出したら聞かないからね。好きなようにやってみなさい。ただし迷惑を掛けないこと、無理強いはしないこと、あの人は極端に女性が苦手なんだから、あんまり緊張させちゃ駄目よ。」
本当は、野村と話したくてしょうがないくせに、母はそんな風に言う。
「分かったわよ。野村さんのことになると、本当に饒舌になるんだから。」
「親をからかうんじゃないの。もう。」
そんなやりとりをして、この日を迎えたのだが、あえなく玉砕したのだ。ただ、希望の火はまだあった。チラシだけは持って行ってくれたのだ。それだけが救いだった。
その後、2時間ぐらい経っただろうか、野村が両手に本を抱えて、受付カウンターに戻ってきたのだ。
「貸し出しですね。図書館カードをお願いします。」
彩春は受け取ったカードをスキャンし、モニター表示を確認する。既貸出がないか確認するためだ。そして、カウンターに置かれた図書のバーコードを一冊ずつスキャンする。表示された題名が合っているかを確認し、備考欄に破損状況などの記載があれば、それを伝え、確認を取ることも忘れない。
野村が持ってきたのは、SF物が二冊、翻訳の戦争物が一冊、恋愛物が一冊、そして「遙かなる約束」だった。
「遙かなる約束」は次回の読書感想会のテーマ図書で、偶然なのか、チラシを見て選んでくれたのか、判別はつかないが、参加の確立が俄然上がってきたと言うことだ。
彩春は内心小躍りしながら、努めて事務的に対応した。
「返却日は2週間後の7月31日水曜日になります。お忘れにならないようお願いします。」
そう言って、貸出図書を手渡すと、野村はトートバッグにしまいながら、
「わかりました。ありがとうございます。」
と言って、図書館を後にした。
彩春は大きく溜め息をついた。大きなミッションをやり終えた緊張感からの解放に、机に突っ伏したい欲求に駆られたが、もちろんそんなことはできない。図書館のど正面。誰に見られているかも分からないのだ。監視カメラ以上のカメラがあると思った方が良い。
「彩春!どうしたの。」
後ろから同期の桜庭に肩を叩かれる。
「今の男性、彩春の彼氏?」
「そんな訳ないでしょ。私にはちゃんと旦那がいるんだから。」
そう言って左手の指輪を見せる。
「独身の私に対する嫌みの指輪ね。」
「ごめんって。」
「で、あの人誰よ。珍しくチラシなんか手渡ししちゃって。」
「あの人は母の初恋の人。老いらくの恋ってとこね。」
「と言うことは、彩春の新しいお父さんか。」
「話が早いって。まだ、そんな段階でもないんだから。」
「どういうこと。」
「上手くいけばそうなるかも知れないけど、まだ二人は会話もしてないの。」
「うっそぉ。プラトニックラブなの!まさかお母さんの片思い?」
「そう言うことになるわね。相手は相当な堅物。落とすとなると難攻不落の城に攻め込むようなものよ。」
「そんなに。」
「そう。だから、外堀から埋めようと思ってね。色々画策してるって訳。」
「まあ、あんまりのめり込まないようにね。変なクレーム貰ったら、あんたクビだけじゃ済まないんだからね。特に今の時代煩いからね。」
「分かってるわよ。それは気をつけるって。あっ、今度の日曜日いつものサークルだから、代打よろしくね。」
「了解。まあ、楽しんでくださいな。それにしても老いらくの恋か。私も良い人現れないかなぁ。」
「がんばってね。」
「
「ごめんって。」
彩春は同期と軽口をたたき合いながらも、ひとまず第一段階はクリアしたことを確信し、後で母に報告しなきゃと思った。
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