第九話 心にしまった想い


 時は遡る。

 北窓彩春きたまどいろはは、今朝から少しそわそわしていた。いつも現れる老紳士を待ち侘びていたからだ。週に一度か二度、図書の返却と借覧に訪れるその老紳士に、彼女が代表を務める文芸サークル「Page-Turners」のチラシを渡すためだ。

 この老紳士、昨年までは土日祝日のいずれかに来館していたが、今年の春過ぎから来館する曜日が不特定となり、週に2回以上来館することもあった。

 転職されたのか、退職されたのかは分からないが、できればその老紳士にサークルへ参加して貰いたいと、彩春は考えていた。


 図書館の正面玄関の自動ドアが開いて、お目当ての老紳士が漸く姿を見せた。

 うっすらと口髭を蓄え、ハンチング帽を被り、半袖のポロシャツに、スラックスを穿いた、中肉中背の老紳士は、愛用のトートバッグを肩にかけて、真っ直ぐ彩春がいる受付カウンターに向かってきた。


 彩春は、少し緊張しながらも、努めて事務的な口調で、

「ご返却ですね。図書館カードをお願いします。」

と微笑んで、彼がバッグから取り出した図書と提示された図書カードを受け取った。

「全部で五冊ですね。今確認しますので、少々お待ちください。」

 この老紳士は、大抵5冊を借りていく。小説が中心で、時折図説や専門書などを借りていくこともある。小説のジャンルは決まっていないようで、様々なジャンルを読んでいるようだった。この日返却された本も、時代、恋愛、SF、自叙伝、戦争とバラバラのジャンルだった。


 彼女は提示された図書館カードのバーコードをスキャンし、モニターに表示された返却者の名前、野村直人を確認する。

 さらに、貸出中図書一覧の5冊がモニターに表示されているのを確認し、返却された図書の破損状態などを確認してから、バーコードをスキャンしていく。すると、モニターに表示された貸出中図書に、返却処理中の赤い表示がつく。

 5冊の図書をスキャンし終わると、返却処理完了のボタンをモニター上でタッチし、返却処理を終了する

「お待たせしました。確かにご返却承りました。問題ございません。」

 ここまでは、いつもの図書館司書としての仕事だ。ルーティンの様に熟すことができる。


 しかし、ここからは個人的な仕事、いやミッションである。

 できるだけ柔らかく、押しつけないように、参加したいと思って貰えるように、努めてにこやかに声をかけなければいけない。

 野村に気づかれないように、大きく深呼吸した彩春は、用意していたチラシを、野村に提示しながら勧誘した。

「もしご興味があれば、こちらにご参加なさいませんか。」

第一声は自然に言えた。ややもすれば声が裏返りそうになったが、多分大丈夫だ。

 野村は、驚いたような表情をしていたが、チラシには興味を示し、目を通してくれた。

 ここで、ダメ押しをしなければと思い、彩春はたたみかけた。

「小説がお好きなら、是非参加なさいませんか。そんなに堅苦しくない、和気藹々とした雰囲気のサークルですので、ハードルはあまり高くないと思います。是非ご検討ください。」

 そして、旦那にも見せたことのないとびっきりの笑顔を見せる。アラフォーの自分がするような表情ではないと自覚しているので、もの凄く恥ずかしくて、顔から火を噴きそうだったが、このミッションが成功しないと、今まで綿密に練ってきた計画が破綻してしまうのだ。心頭滅却、無念無想の境地で、笑顔を作る。


 しかし、その努力も虚しく、老紳士はぽつりと「検討します。」とだけ言って会釈し、チラシを掴むとそのまま立ち去ってしまった。

「Mission Failure!残念。上手くいかなかったか。慣れないことをするもんじゃないわね。」

 彩春は、沈み込む気持ちを奮い立たせて、野村が返却してきた図書を、カートに乗せる。

 

 休む間もなく、次の返却希望者が現れる。

「ご返却ですね。図書館カードをお願いします。」

 彩春は、仕事に没頭していった。


 彼女がなぜ、野村にサークルのチラシを渡したかったのかと言うと、それは彼女の母親が原因なのだ。

 彼女の母親である虹華は、高校時代にミス翠風すいふうに輝いたほどの美人である。彩春も同じ翠風高校に通っていたため、よく先生からもあのミス翠風の娘かと言われたものだ。母は、歴代ミス翠風の中でも群を抜いていたらしい。

 確かに娘の彩春から見ても、65歳になった今でも、歳を感じさせないほどの美貌を保っているのだ。容姿は年相応なのに、立ち居振る舞いに気品があるためか、美しく見えるのだ。

 がさつな彩春とは、対称的である。外見そとみは似ているのにと、いつも彩春は打ちのめされるのだ。ミス翠風にノミネートすらされなかったし。

 

 しかし、母がそんな美しさを保つようになったのもここ最近のことで、彩春が大学を卒業して間もなくの頃、父が交通事故で他界した時は、酷く落ち込んで、頬はこけ、痩せ細り、見る影もないほど憔悴していたのだ。

 母は、表向き気丈に振る舞っていたが、時折大きな溜め息をついては、泣きはらしたような顔をしていた。


 彩春も、結婚を決めた恋人を紹介しようとしていた矢先だったので、やりきれない思いになった。親孝行の機会を奪われ、加害者に対して、怒りと憎悪が沸き起こり、いなくなってしまった父を想って、涙が止まらなかった。


 彩春を救ってくれたのは恋人だった。父の三回忌が済んだ後、暫くしてからプロポーズを受けて結婚した。両家の家族を数人呼んで、小さな披露宴を行ったが、その時漸く母は嬉しそうにしてくれた。

 しかし、その笑顔にはどこか陰りがあり、辛い心を気丈にも隠しているのがありありと分かった。


 母のことが心配だったため、旦那に自分の実家で同居して欲しいと頼んだが、彼は二つ返事で了承してくれた。

 やがて娘が生まれ、育児に没頭し始めた頃、母の異様な行動に気づき始めた。


 普段は、孫の面倒を看てくれて、色々とアドバイスをくれたりするのだが、手が空くと、高校の卒アルを引っ張り出して、とあるページを日がな一日眺めていたり、母が愛読している「夏への扉」の本を開いたまま同じページを眺めたりしているのだ。

 娘が保育園、幼稚園、小学校と上がるにつれ、その傾向がどんどん酷くなっていって、ぼぉっとしていることが多くなった。

 とうとう認知症が始まってしまったかと、心配になり、ネットで見つけた認知症診断テストをいくつか母にやらせてみたが、認知症の判定はまったく出なかった。

 

 それでも様子のおかしい母の気持ちを紛らわせようと、あちこち旅行へも連れて行ったし、観劇や美術館、博物館などにも連れて行った。時には、無理矢理遊園地でジェットコースターに乗せたこともあった。

 しかし、そんな荒療治も虚しく、帰宅すると決まって、アルバムを開くか、「夏への扉」を開いているのだ。


 ある日、母が高校の卒アルを見ていた時、上からのぞき込んでみた。何を見ているのか気になったのだ。しかし、母は彩春が覗いていることに気がつくと、慌ててページを閉じた。

「お母さん、それ卒アルでしょ。やっぱり懐かしいの。」

「そうね、懐かしいわね。色んな思い出が詰まってるの。」

「いつも同じページを見てるでしょ、何か思い入れのある写真でもあるの。」

「そんなことないわ。どれも皆懐かしいわよ。」


 彩春には、母が何かをごまかしているようにしか感じられなかった。何をごまかしているのか分からなかったが、無理矢理聞き出そうとしても、きっとのらりくらりと答えてくれないのは分かっているので、ちょっと鎌をかけてみた。

「初恋の人でしょ。」

「えっ、ち、ち、違うわよ。何言ってるのこの子は。」

母は明らかに動揺していた。いつも泰然自若として、何かトラブルや問題が発生しても、冷静に対処してきた母は、父が他界した時でさえ、気丈に振る舞い、周囲に悲嘆や動揺を見せなかったのだ。

 そんな母が、明らかに動揺しているのだ。

 これはまさか図星だったのかと、彩春は驚いた。母と父はいつも仲が良く、喧嘩をしているところは見たことがなかったので、二人は心から愛し合っているものだと思っていたし、母に別の男性の影を見たことは一度もなかった。

 

 母に父とは別の男性への想いがあると知ったのは、少し嫌な気持ちがしたが、それにもまして好奇心の方が勝り、落ち込んでいた母の、心の依り代になっているのであれば、娘として温かく見守りたいと思う気持ちも生まれた。

 母ももう60を過ぎたのだ。老いらくの恋とは言うが、いつまでも美しく元気でいて欲しいと思うのも、娘としての正直な気持ちだと、彩春は思った。


「ねぇ、どんな男性なの。スポーツマンとか、それとも秀才とか、うーん母さんならイケメン狙いかな。」

「な、何を言っているの。そんな人いないわよ。」

「うっそだぁ。だって母さん明らかに動揺してるもん。正直に白状して。カツ丼なら出してあげるから。」

「何馬鹿なこと言ってるの。そんなんじゃないって言ってるでしょ。あの人は。」

「あっ!あの人!あの人って言った!あの人ってどの人!ねぇ教えてよ。」


 動かぬ証拠を掴んだ彩春は攻勢をかけるが、その後も、母はのらりくらりと言い逃れ、親子の攻防は続いた。

 そして、とうとう母が根負けして、白旗を揚げた。

「わかりました。白状しますよ。」

 そう言って、高校時代の初恋をぽつりぽつりと語り始めたのだ。


「私が高校に入学して、最初のクラスで隣に座ったのが私の初恋の人よ。

 あなたが思うようなスポーツマンでも、秀才でも、イケメンでもないわ。どちらかと言ったら朴訥で、人付き合いが苦手な、女子には不人気なタイプね。

 休み時間になるといつも独りで本を読んでいて、誰とも話さないし、遊ばない。部活にも入っていなかったのではないかしら。

 私も最初はただの隣に座るクラスメートとして接したの。

 でもね、なぜか物静かな彼に少しずつ惹かれていった。本を読んでいる時のその横顔がとても素敵だったのよね。特に、文字を追うその目がいつもキラキラしていて、彼の内に隠された情熱のようなものを見た気がしたの。とても素敵な目だったわ。

 彼と話すのは簡単ではなかったの。彼は人と話すのが苦手で、私も積極的なタイプじゃなかったから。それに彼は、女性が特に苦手みたいで、クラスの女子に用事があって話しかけられても、顔を真っ赤にして緊張していたぐらいだから。

 でもそんなある日、彼に話しかける機会があったの。あの日のことは今でも鮮明に覚えているわ。

 良く晴れた秋の日で、残暑も漸く和らいできたころ、休憩時間に皆が外へ遊びに行っていて、教室には私と彼しかいなくてね。

 その時、私は勇気を出して彼に話しかけたの。『何を読んでいるんですか。』って。

 彼は声をかけられたことに驚いて、真っ赤になって焦ってたみたいだけど、それでも優しい声で、ぶっきらぼうに本の表紙を見せて『夏への扉です。』と一言だけ言って、また本の世界へ帰って行ったの。

 たった一言交わした会話だったけど、漸くクラスメートとして、個人的な話ができたことに舞い上がったわ。あの頃は私も本当に乙女だったのね。

 それからすぐに、私も『夏への扉』を買って読んだわ。とても面白くてね。すぐに私も嵌まってしまったの。

 ただ、あなたも知っているとおり、難解な言葉が多くてね。今でこそタイムマシンとか、コールドスリープなんてSFの世界では当たり前に見かけるけど、当時はなんだかよく分からなくて、読み進めるのに苦労したわ。

 でもね、彼と同じ世界に没頭していると思ったらとても嬉しくて、言葉は難解でもストーリーは面白いし、あっという間に読破してしまったわ。最後ハッピーエンドになるのも、凄く良かった。彼とこんな恋をしてみたいなんて憧れたものよ。

 その時初めてSF物を読んだけど、とても興奮したのを覚えているわ。

 その後、彼に『夏への扉』を読んだことを話して、感想を語り合ったの。彼と親しく話せたのはそれだけ。でもね、凄く短い時間だったけど、今でも私にとっては大切な思い出で、宝物なの。

 普通のクラスメートの関係になっても、私の心はずっと彼を追いかけていたの。

 翠風祭でクラス皆が準備している時も、高二の時にミス翠風に選ばれた時も、彼に話しかける機会がなかったのはすごく寂しかった。もっと積極的になれば良かったと、今でも後悔しているわ。

 高三の翠風祭は、それこそ最後のチャンス。彼に告白しようかとか、色々悩んだけど、嫌われるのが怖くて、結局勇気が出せなかった。

 ただ、体育の部で最後の奇跡が起こったのよ。

 その頃はやり出していたフォークダンスを初めて種目として取り入れたの。男女が人前で手を繋ぐなんて、恥ずかしいし、いけないことだって言われていた時代だったから、皆衝撃を受けてたわね。私も衝撃は受けたけど、彼と手をつなげるかも知れないと思うと、凄く嬉しかったの。

 体育の時間にフォークダンスの練習をするんだけど、みんなキャーキャー言っている中、彼は黙々と独りで練習していたわ。

 今思えばそんなに難しいステップではないけど、ステップなんて踏んだことのない当時の子たちは、足を絡ませて転ぶ人が続出してね。皆擦り傷が絶えなかった。私もできるようになるまで結構大変な思いをしたわ。

 本番当日、意中の相手と踊るのを皆楽しみにしていたの。私も彼と踊れるのが本当に楽しみだった。

 曲の中盤ぐらいで、彼と踊る番が来た時は、心臓が飛び出すかと思うほど緊張したわ。でも、それ以上に彼は緊張していたのね。ステップは完璧なんだけど、どこかぎこちなくて、それに何よりも顔を真っ赤にして俯きながら踊っていたの。決して楽しそうではなくて、義務に駆られた感じで。

 それを見ていたら、折角彼と踊れる素敵な時間が、悲しい思い出になってしまうと思ったのね。

 順番が来た時に、彼に勇気を持って『楽しく踊ろ』って言っちゃったの。その時の私はちゃんとリードしなきゃと思っちゃったのね。折角なら笑顔で踊りたいじゃない。

 それで緊張していた彼も、私の言葉に応えてくれて、俯いていた顔を上げて、無理矢理笑顔を作ってくれてね。たった10秒ほどしか彼と踊れなかったけど、私にはとっても長く感じられて、とても幸せな時間だった。

 彼と離れる時『ありがとう』って言ったら、彼また顔を真っ赤にして俯いてしまったのね。その後もずっと俯いていたから、私との時だけ顔を上げて踊ってくれたと、勝手に喜んでいたのよ。今でもあれは良い思い出。彼にとっては災難だったかも知れないけれど。

 これで彼との思い出は終わりよ。甘酸っぱい青春の思い出ね。

 高校を卒業してからは、大学も別で、彼は地元の大学、私は上京したから、その後の消息は知らないわ。同窓会でも顔を見せたことないし。」


 母が遠くを見つめて、語り終えた。ぽつりぽつりと語り始めてから、一挙にしゃべり終わるまで、彩春は黙って聞いていた。父が他界してから、こんなに楽しそうに思い出を語る母は見たことがなかった。

 乙女の顔とよく言うが、まさに今の母は乙女の顔だった。すこし頬を赤らめ、目を細め、遠くを眺めるその表情は、まさに恋する乙女だった。


 その後母に、いつも見ている卒アルを見せて欲しいとお願いしたが、それだけは頑なに拒否された。理由を聞いても、それだけは言えないと言われ、結局いつも何を見ているのかは分からずじまいだった。

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