第八話 予期せぬ邂逅


 読書感想会は、無事に終わった。

 野村直人が発表した後は、簡単な意見交換会があり、それぞれの感想に対して質問したいことや、作品内で疑問に思ったところなどを、自由に意見交換する場が設けられた。


 直人にもいくつか質問が来た。

「どうしてオリオン座が導いたと思ったのですか」とか、「私は満天の星を、二人の愛が宇宙の中で永遠に輝き続けることを示唆していると思いますが、どう思いますか」とか、皆熱心に聞いてくるので、直人は圧倒されてしまったが、きちんと考え、自分の意見を述べた。

 ただ、男性女性関係なく質問が飛び交うので、緊張している暇もないほど、思考の海と現実を行き来しなければならず、味わったことのない充足感を味わっていた。


「本日は楽しい時間を皆さんありがとうございました。あっという間にお時間になってしまいました。初めてご参加なさった方はいかがだったでしょうか。楽しんでいただけましたでしょうか。もし、楽しんでいただけましたら幸いです。」

 北窓彩春は、閉会の挨拶を始めた。

 次回の開催日時や、次回はテーマがなく、意見交換会になるため、好きな本についてプレゼンして欲しいこと、などを冗談を交えながら話した。

「本日はありがとうございました。忘れ物ないように、お気をつけてお帰りください。」

 こうして、北窓彩春の挨拶で読書感想会は閉会した。


 北窓の挨拶が終わると、暗黙の了解なのか、皆一斉に椅子やテーブルを片し始めた。

 テーブルの上を台拭きで拭き、椅子をたたみ、テーブルを折りたたんで、端へ寄せた。直人も荷物をトートバッグにしまい、椅子を折りたたみ、端へ寄せるのを手伝った。

 椅子とテーブルが片付くと、ほうきを持った人が床を掃き掃除し、それが終わると解散となった。

 皆それぞれ仲間同士で誘い合って、この後お茶に行くとか、飲みに行くとかの約束をして、徐々に捌けていった。


 直人も自分の荷物を持って、部屋から出ようとしたところで、北窓彩春に呼び止められた。

「野村さん、本日の読書感想会いかがでしたでしょうか。楽しんでいただけましたか。」

突然話しかけられて、心臓が飛び上がるほどビックリしたが、以前チラシを貰った時のような緊張感もなく、心臓もそれほど早く打ち始めることはなかった。大きな壁を乗り越えて、落ち着いたのかも知れない。それでも、会社にいた頃の女性同僚に話しかけられた時ぐらいの緊張感はあった。


「ありがとうございます。大変有意義な時間でした。」

それでも、ぶっきらぼうな口調は拭えず、正直な気持ちで返事をした。

「それは良かった。それならお誘いした甲斐がありました。もしお気に召していただいたのでしたら、是非次回もご参加ください。」

いつもの事務的な感じではなく、社交辞令のワンランクアップぐらいのトーンで北窓は勧誘してきた。

「ありがとうございます。是非参加させてください。」

直人が、そう返事をすると、北窓彩春が後ろに立っていた人物を引き寄せた。

「そうそう、こちらうちの母です。自己紹介の時、お好きな小説が、母と同じで『夏への扉』をおっしゃっていたので、もし良かったらお話でもと思いまして。」


 突然の女性登場に、またしても直人の心は早鐘のように打ち鳴らされた。ましてやあの気品溢れる女性だ。自己紹介の時同じ作品を言ってしまったこともあり、何か言われるのかと思うと、途端に顔が火照ってくるのを感じた。しかし、しどろもどろになりながらも、一所懸命平静を装った。

「初めまして。野村直人と言います。お嬢さんにはいつもお世話になっております。」

「あっ、いえ、こちらこそ。彩春の母で虹華にじかと申します。この歳になってもお転婆な娘で、色々ご迷惑をおかけしていないでしょうか。」

気品のある立ち居振る舞いではあるが、少し慌てたような、気恥ずかしそうな感じで、虹華は挨拶をした。

「いいえ、とても素敵なお嬢さんで、いつも丁寧に対応していただいて、本当に感謝しています。」

直人も40年以上会社勤めをしてきたのだ、このぐらいの会話はシミュレート済みである。心臓がバクバク言っているが、なんとか乗り切ろうと、頭をフル回転で社交辞令の会話フレーズを引っ張り出した。


「そうですか。それなら良いのですが。」

虹華が恐縮しているその脇で、

「お転婆娘ってなによ」

と彩春が小声で文句を言っている。

 直人は、心臓がひっくり返りそうな勢いで早鐘を打っていたが、虹華が恐縮しながらも社交辞令の会話を続けているため、なんとか平静を装って相手に徹した。


「ねぇ、母さん、この後野村さんとお茶でもしながらお話ししない?『夏への扉』の感想も聞いてみたいし、ねっ。」

 彩春がなぜそんなことを言い出したのか、直人には理解できなかった。来月の読書会にでも聞いてくれれば、その時にでもきちんと話すのにと直人は思ったが、よほど気になるのかも知れない。

「彩春、野村さんにもご予定あるでしょうから、駄目に決まってるでしょ。」

案の定、虹華に窘められている。

「野村さん、この後よろしかったら、少しお茶でもしませんか。」

虹華の制止を聞かず、あのチラシを手渡した時のように、キラキラした眼差しで彩春は直人を誘ってきた。


 これが単に若い娘からだけの誘いだったら、一も二もなく断っただろう。そんな危険な場所に足を踏み入れる度胸は、今の直人にもなかった。

 女性二人にお茶へ誘われるなんてことは、これまでの人生一度もなかった。詐欺の勧誘以外では。ただ、誘ってきているのが、この図書館で司書をしている女性とその母親だ。変な勧誘をされたり、罠があったりする訳ではないだろう。

 まさか母親が何かの元締めで、自分をカモにするとか、そんなことも一瞬頭をよぎったが、そんなのは、小説の読み過ぎだと、自分を諫め、今日は人との関わり合いを作るために参加したんだと言うことを思い出し、代表の北窓彩春と懇意になるのは悪いことではないと判断した。

「私で良ければ、ご相伴にあずからせていただきます。」

と返事をした直人にとっては、清水の舞台から飛び降りるような覚悟だった。

 返事をしてしまってから、直人の心臓はさらにギアを上げたように高鳴り始め、顔は真っ赤で、そのまま卒倒するのではと思うほど緊張していた。


「よかった。それでは、下の喫茶店でいかがでしょうか。あそこのケーキ意外と美味しいんですよ。」

彩春は、本当に嬉しそうにしている。虹華の方は少し困った顔をして、なんども「済みません」を繰り返していた。


 読書感想会の参加者が全員退室するのを待って、最後の点検をした彩春が会議室の戸締まりをし、三人はエレベーターで一階に降りた。

 彩春は鍵を返却に行くと言って、受付カウンターの方に行ってしまい、直人と虹華はそこに取り残されてしまった。

「本当に自由奔放な娘で、申し訳ございません。」

虹華が恐縮してそう言う。

「いいえ、お気になさらず。私も暇をしていましたので。」

もう少し気の利いた台詞があるだろうと思いつつも、直人はいまだ女性と会話を続けている奇跡に、内心驚いていた。

 しかし、それ以上の会話がやはり続かない。想定外の事態が起こっているのだ、脳は完全にパンクしていた。


 彩春が戻ってきて、三人は図書館に併設された、地元のチェーン店が運営する喫茶店へと入る。

 この図書館の一階ロビーは二階までの吹き抜けになっていて、正面入り口の左側に喫茶店が併設されていた。いわゆるオープンスペースで、カウンターサービス形式のカフェである。購入した飲食物を図書館内に持ち込んで、飲食することはできないが、このスペースで借覧することは可能であるようだ。言わばブックカフェのようでもある。

 もちろん、持ち込める図書にも制限があり、貴重な図書に関しては持ち込みができないのだが。

 この喫茶店店名らしきものには「libri di torte」と書いてあるが、何語なのかも分からなければ、もちろん発音も意味も、直人にはまったく分からない。マークにはケーキで作られた本が描かれていて、おそらくそう言う意味なのだろうと、直人は推測している。

 日本人に通じない名前を付けるもんじゃないよな、年寄りにはさっぱりだと思う。このことも、図書館に来るたびに、思うことの一つだ。


 日曜日の午後、人気の図書館と言うこともあり、ほとんどの席が埋まっていたが、幸い一席だけ空いていて、三人はそこへ座った。

 彩春が誘ったこともあり、三人分のケーキセットの代金を出してくれた。女性に代金を払わせるのは害悪だとまで言われてきた世代が、娘のような年頃の女性に出させるのは、色々と思うところがあったが、直人が出そうとしたのを頑なに固辞されたので、ここはごちそうになることにした。


 彩春はティラミスと紅茶のセット、虹華はショートケーキとコーヒーのセット、そして直人はチーズケーキとコーヒーのセットをそれぞれ注文した。

 代金を出して貰ったのだから、せめてサーブだけでもと、直人が商品を受け取り、テーブルまで運んだ。


 三人はテーブルに着くと、まずは飲み物で喉を潤し、ケーキを一口食べた。

「やっぱり、ここのケーキは美味しいですよね。」

彩春が頬に手を当てて、本当に美味しそうに、二口目を頬張る。

「この子ったら、もっとお行儀良くしなさい。本当に済みません、がさつな子で。」

虹華がそれを見て、彩春を嗜め、直人に頭を下げる。

「いいえ、お気になさらず。ケーキとても美味しいですよね。」

自分に娘がいたら、こんな気分になるのかもと想像して、直人も自然に笑顔となる。


 人心地ついたところで、彩春が会話のとっかかりを提供した。

「野村さん『夏への扉』がお好きなんですよね。うちの母もそうなんですよ。良く読み返しているのを見かけますし、福島正実ふくしままさみさんと小尾芙佐おびふささんの訳書をそれぞれ読み比べまでしてるんですよ。

 野村さんはどんなところが気に入ってるんですか。」


 直人は話を振られ、「夏への扉」について少し考えてから、徐に話し始めた。

「読み比べですか、それは凄いですね。

 私は高校時代に小遣いで買った、福島正実さん訳のハヤカワ版しか持っていなくて、それを繰り返し読んでいます。

 原書は大学時代に読みましたけど、訳書と照らし合わせ、辞書を引きながらでしたので、英語の勉強にはなりましたが、楽しむという感じてはなかったですね。

 小尾芙佐さんの訳書はこちらの図書館でお借りして読みました。現代風の文体が新鮮で、福島正実さんの訳書にはない味わいを楽しめました。」


そこまで一挙に話した直人は、息をついた。そして二人が真摯に聞いてくれているのを見て、少し考えてから、続きを話し始めた。

「この本の気に入っているところですよね。

 やはり、タイムトラベルですかね。時代設定が1970年から2000年を行ったり来たりする訳で、その設定が未来感満載で、高校生だった自分は凄く興奮して、憧れたのを覚えています。

 今や2000年は過去の話になってしまいましたが、当時は遠い未来で、そんな未来へ行ける主人公のダンを羨ましく思いましたね。今でも羨ましく思ってます。

 それが、この本の一番の魅力ですかね。

 ただ、ダンが友人や恋人に裏切られたりするのは、何度読んでも許せなくて、気持ちが熱くなります。

 特にコールドスリープの前夜に、裏切った友人と恋人に、復讐の返り討ちに遭った時は、悔しくて歯がみしてしまいました。初めて読んだ時にですけど。今でもあのシーンは悔しくて心がモヤモヤするんですけど。」

 直人は、話し始めたら止まらなくなってしまった。この後もあんなシーンが良かった、あの台詞が良かった、ここがいまだに納得できないなど、熱い思いを延々と語った。

 二人は、そんな直人に時折相槌や質問をくれながら、熱心に聞いてくれた。母がそうしてくれたように。


「野村さんって、こんなに雄弁な方だったんですね。いつも寡黙でいらっしゃるから、ビックリしてしまいました。」

 直人の、立て板に水の様な語りが終わると、彩春は驚きを隠せないように、そう言った。

 対して、虹華の方はニコニコしながら、さも、こういう人なのよこの人は、みたいな眼差しで彼の話を頷きながらずっと聞いていた。


 夢中になってしゃべっていた直人は、我に返った。

「済みません、べらべらとこんなにしゃべってしまって。年寄りのいけないところですね。」

直人は前のめりで話していた自分を諫め、少ししゅんとなって、自虐的に頭をかいた。

「とんでもないです。とても楽しいお話でした。私も母の影響で、何度も『夏への扉』は読んでいますので、新たな見方ができたと言いますか、新たな発見ができたと言いますか、今度読む時は、新鮮な気持ちで読み返せそうです。」

彩春は嬉しそうにそう言った。

「そう言っていただけると、嬉しい限りです。久々にこんなに自分の気持ちを聞いて貰えて、嬉しかったものですから、ついつい語ってしまいました。済みません。」

直人は若い女性にフォローされている自分が恥ずかしくなった。

「そうなんですね。こちらこそ大変楽しいお話で、聞き入ってしまいました。

 ところで、野村さんて高校はどちらだったんですか。」

彩春が、変な雰囲気になりそうな場を変えるために、話題を変えてくれた。


「私ですか、私は翠風すいふう高校の出身です。もう大昔の話なので、記憶の彼方ですが。」

「そうなんですね。私も翠風高校でした。実は、母もそうなんですよ。ねっ母さん。」

「えっ、あっ、はい。私も翠風高校でした。野村さんと同じで遠い過去の記憶ですが、この子が同じ高校に行ってたこともあって、学生としてだけじゃなくて、保護者としても通いました。」

そう言って、虹華は照れくさそうに笑顔を見せた。

「皆翠風高校卒業生なんですね、すごい。こんな偶然あるんですね、なんか小説みたい。ちなみに、野村さんは何期生ですか。私は丁度40期生なんですよ。」

まるで、宝物でも見つけたような喜びようで、彩春は聞いてきた。

「私は、確か、12期生ですかね。高校創立が昭和37年で、私の入学が49年なので、そうですね12期生ですね。」

直人は、あやふやな記憶を確かめるように、色々思いだしながら答えた。

「じゃ、母と一緒ですね。母さんも12期生よね。」

「ええ。私も12期生です。」

「もしかして、クラスとか同じだったりして。」

彩春がなぜか一人盛り上がっている。

「彩春、あんまり人のことを根掘り葉掘り聞かないのよ。」

虹華が窘めるが、彩春は止まらない。

「良いですよ。高校のクラスは、確か1年からずっとB組の文系クラスでした。」

「ほら、お母さん」

そう言って、彩春は虹華を小突いている。

「実は、私もB組でした。旧姓を紫月しづきと言います。」

「紫月さんですか。済みません。記憶がなくて。……いや、ちょっと待ってください。確か……、もしかして、ミス翠風の紫月さんですか。」

直人は、記憶の彼方を探っていて、最初は思い至らなかったが、どこかで聞いたなと、思考を巡らせていたら、思い至ったのだ。あの、卒業アルバムに載っていたフォークダンスの相手が、まさに目の前のその人だったのだ。

 数日前に見た女性が、まさか目の前に現れるとは、漸く落ち着いた心臓が、また早鐘を打ち始めた。

「ええ、お恥ずかしながら、ミスを取ったこともあります。あのときは周囲が盛り上がっていただけで、私の黒歴史です。」

そう虹華は自虐的に笑った。

「いいえ、道理で、どこかでお目にかかったような気がしたんです。彩春さんに似てらっしゃるからと思っていましたが、そうだったんですね。全然気がつきませんでした。」

「いいえ、こちらこそ野村さんのこと全然気がつかなくて、まさか同じクラスだったなんて分かりませんでした。」

少し恥ずかしそうに虹華はそう言って、顔を俯かせた。


 その後も、懐かしい担任や名物の英語教師の話とか、直人の知らないその後の高校の様子など、三人は高校の話に花を咲かせた。


 外はすっかり陽が傾き、カフェにも西日が差し込んできた。夏の日差しは少し和らぎ、眩しさはあるものの、刺すような痛さは感じなかった。

 店員が慌てて、ブラインドを下ろしに来て、差し込む陽射しを遮った。

 それを合図に、彩春がお開きの呼びかけをした。

「すみません。すっかり遅くなってしまって。そろそろお開きにしましょうか。」

「こちらこそ、長いことつきあわせてしまったようで、済みません。」

直人は少し名残惜しかった。こんなに長々と女性と話をするのは初めてだったが、すっかり彼女たちと打ち解けることができて、平静を装う必要もなくなったのは、内心驚きで、時間を忘れてしまい、まだしゃべっていたいと思ったのだ。

 こんな気持ちは初めてで、直人は戸惑いながらも、なにか心地の良い、どこか懐かしさを感じていた。


「また、来月読書感想会をやりますので、その時にでもまたお話ししませんか。野村さんのお話とても楽しかったです。」

彩春はお世辞とも、本音とも取れることを言った。

「是非、またお話ししましょう。私も楽しみにしています。野村さんがこんなに楽しい方なら、高校の時にもっとお話ししてれば良かった。」

虹華もそんな風にお世辞のようなことを言う。

「いいえ、こちらこそ楽しい時間をありがとうございます。高校時代の懐かしい話も聞けましたし、忘れていた青春が蘇ったようです。」

直人も、お世辞半分、本音半分で言った。


 それぞれ使った食器をトレイに乗せると、それを直人が率先して返却口へと返却した。

 外に出ると、まだ暑さの残る陽射しの中、次回の再会を約束し、それぞれ家路へと向かい、図書館を後にした。

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