第六話 新たなる挑戦
この日も、朝から良く晴れ、ややもすれば汗が噴き出すほどの暑さだった。
直人は、朝からいつもの通りウォーキングをして汗をかき、いつも通り午前中は本を読んで過ごした。
少し早めの昼食を摂り、直人は出かけてきた。行き先は図書館である。
そう、彼は例の読書感想会に参加する決心をしたのだ。散々悩みに悩んだが、結局参加する方へ心が動いたのだ。「遙かなる約束」の魅力が後押ししてくれたのかも知れない。
図書館に着くと、五階にある会場の会議室へと向かった。
エレベーターで五階に上がり、会場の会議室を目指した。会議室は20人から30人ほどが入れる広さで、結構盛況なサークルなのかもと思わせる。
開け放たれた入り口を入ると、一台のテーブルが設置され、臨時の受付場所になっていた。そこには、先日チラシをくれた、いつも対応してくれる女性司書がいて、いつも以上の笑顔を振りまいていた。
そう言えば、図書館の受付カウンターに今日はいないなと思っていたが、このサークルの関係者だったのかと、直人は合点がいった。
直人が参加したい旨を告げると、その女性司書は破顔して、いつもの事務的な対応では決して見ることのない笑顔を見せた。どうやら心の底から喜んでいるようだった。
「ご参加ありがとうございます!私、この会の代表をしている北窓と言います。よろしくお願いします。そんなに堅苦しくない会なので、気軽に楽しんでいってください。
今日は『遙かなる約束』がテーマですが、普段は自分の好きな本についての意見交換会もやってますので、お気に召していただいたら、またご参加いただけると嬉しいです。」
新規の参加者はよほど嬉しいのだろう、普段見たことのない様子で捲し立てられた。
「はあ、こちらこそよろしくお願いします。」
あまりの勢いに、直人は圧倒されたが、今回は心の準備をしてきたので、内心は心臓が早鐘のように打ち鳴らされていたが、なんとか平静を装うことができた。
直人は、新規参加者用の用紙に名前と連絡先を書き、参加料の100円を支払って領収書を受け取り、受付を済ました。
会場内はコの字型にテーブルが配置されていて、好きな場所に座ってくださいと言われた直人は、窓側の一番入り口に近い場所を選んだ。
少し早かったのか、参加者はまだまばらで、各々本を開いて読んでいた。既に着席している参加者に向かって会釈をして、直人は席に着いた。
他の参加者を習って、会が始まるまでの間、自分も少し準備しようと、愛用のトートバッグから感想を書きしたためているノートと、借りている「遙かなる約束」を取り出した。
どんな会なのか勝手が分からないので、一応できるだけの準備はしてきたのだが、時間までノートを見返すことにした。見返すと言っても4ページぐらいの書き殴った文字だが。
ノートを見始めると、心臓はなんとか落ち着きを取り戻し、緊張はしているものの、平静を保つことはできた。
暫くすると、受付の女性司書、いやこの会の代表である北窓が、賑やかな声を上げたので、ノートから目を離し、受付の方を見ると、そこには気品のある老女が立っていた。
年の頃は直人と変わらない感じであるが、その立ち居振る舞いは、老女らしくなく、夏らしい薄水色のブラウスに、淡い色のカーデガンを上品に羽織り、タイトな黒のスカートが、彼女の気品溢れる性格を表しているようだった。
老女と呼ぶには失礼極まりないと感じるほど、気品のあるその女性に、直人は見とれてしまったが、すぐに目を逸らした。折角平静を取り戻した心臓は、再びバクバクと鼓動を打ち始めてしまったからだ。
会議室の座席が参加者で埋まると、漸く時間となり、入り口の扉を北窓が閉め、会議室の一番奥へと向かい、挨拶をすると、いよいよ読書感想会が始まった。
「それでは始めたいと思います。
本日はご参加いただきありがとうございます。私はこのPage-Turnersの代表をしている
ご存じの方も多いと思いますが、私はこの図書館で司書を務めています。しかし、このサークルは図書館とは関係なく、私個人で始めたサークルになりますので、あらかじめご了承ください。
気軽に皆さんが意見交換できる場所をご提供できるよう、このサークルを運営しています。本日のテーマは加藤美香子さんの『遙かなる約束』ですが、是非皆さんご自由に感想や意見を述べて、日頃蓄積された知識を皆さんと共有していただければ幸いです。あまり堅苦しくしたくはないので、挨拶はこの辺で。
皆さん気楽に楽しんでください。」
北窓の挨拶は、女性らしい柔和な話し方でありながらも、どこかしっかりした、落ち着きのある声だった。
今まで受付カウンターで何度も顔を合わせているが、初めて直人はまじまじと彼女の顔を見た気がした。気品と言うにはまだ若すぎるが、30代らしい良い歳の取り方をしているように直人は感じた。
ふと、あの高校の卒業アルバムで見つけた、フォークダンスの写真を思いだした。そう言えば、北窓がミス
女性の顔は下手するとおんなじようにしか見えず、区別がつかないこともあるので、直人はそう考えて、すぐに頭から消しさった。
その後、北窓がこの会での注意事項をいくつか話した。特に、感想や意見の食い違いについては念を押された。
この会では忌憚なく意見や感想を皆さんに自由に述べて貰うため、互いの考えや意見が合わないことが多く、議論をすると白熱する恐れがあるので、決して頭ごなしに相手を否定せず、互いの意見を聞いて参考にするつもりで聞いて欲しいと言うこと、また、参考にできない、賛成できないのであれば、そう言う意見もあるのかと、流して欲しいということ、この会は、議論して結論を出す場ではなく、色んな意見や考えに触れる機会を持つ会であることを忘れないで欲しい、と言うことだった。
この注意事項は直人にとって心のハードルを少し下げてくれた。下手な意見を言っても、大丈夫そうだ。人と意見をぶつけ合うのは苦手な直人にとって、うれしいルールだ。
注意事項の説明が終わると、参加者の自己紹介へと移った。
参加者は、前から順番に一人ずつ名前と好きな本やジャンルについて一言ずつ紹介していった。
参加者は皆好みがバラバラで、SF物、恋愛物、懐古物、時代物、探偵物と多岐にわたっていた。中には、古文小説が好きだという人もいたが、おしなべて、皆本を読むことが好きだと言うことに変わりはなかった。
自己紹介が直人のはす向かいに座った、例の気品ある女性の番になった。
「
良く通る涼やかな声で、落ち着いた口調の女性だった。名字を聞いて、もしかして代表者の家族か何かかなと思ったが、それよりも彼女の好きだと言った小説の題名が気になった。
「夏への扉」は直人も好きな小説だ。アメリカのSF作家ロバート・A・ハインラインが1956年に発表したSF小説で、原題は「The Door into Summer」だ。
高校時代に嵌まり、1970年から2000年へとタイムトラベルする設定が、まさにドンピシャで、滅多に買わない本を、小遣いで買って、何度も何度も読んだ思い出の一冊だ。大学時代は英語の勉強も兼ねて原作も読んだし、今でも時折読みたくなることがあり、少なくとも年に一度は読み返している。
自己紹介は直人が最後の番だった。
「野村直人です。ジャンルを問わず目についた物や、話題の作品を読みます。強いて言えば、よく読むのはSF物で、若い時から『夏への扉』が愛読書で何度も読み返しています。」
他にも好きな小説はいくつかあったが、なぜか先程の女性と同じ本の題名を挙げてしまった。言ってしまってから、彼女に気持ち悪いやつだと思われてないか気になったが、目を合わせると、いかにもと思われてしまうので、下を向いて目を合わせないようにして、平静を装った。嘘はついていないので、何かを言われる謂われはないのだが、直人はまた少し緊張してしまった。
全員の自己紹介が終わると、いよいよ読書感想会の本題に入っていくこととなった。
「皆さんありがとうございます。では早速本題に入りましょう。
まずは、今回のテーマである『遙かなる約束』ですが、皆さんご存じの通り、昨年の芥川賞受賞作品で、加藤美香子さんの著書になります。
彼女の作品は、繊細な心理描写と、その美しい言葉遣いが魅力的であることで有名です。この「遙かなる約束」では、彼女の実力が遺憾なく発揮されていて、凄く読み応えのある作品に仕上がっていました。
そんな素晴らしい作品ですが、皆さん思うところは色々あると思いますので、忌憚のない意見や感想を、自由に述べてください。もちろん酷評も大歓迎です。
では、こちらの田中さんから。」
北窓の進行が入り、一番前に座っていた、田中と呼ばれた古株らしい40代ぐらいの男性から感想や意見を発表していった。
「私は時代物の特にチャンバラが好きなので、こう言った恋愛物というのは門外漢と言いますか、喰わず嫌いなところがあります。
しかし、この小説は評判通りの美しい文体と、主人公の心情が微に入り細に入り描写されていて、私でもすごくのめり込みました。
一番印象に残ったのは、やはり絵里子が失踪する前日、白いカーネーションを一輪だけ用意し花瓶に挿す瞬間です。その時の心理描写が、女性の揺れ動く心がありありと分かり、男性の私が感情移入してしまうほど、素晴らしい場面だったと思います。
後で知ったのですが、白いカーネーションの花言葉が、『純粋な愛』、『私の愛は生きています』と言うらしく、彼女は心の中で彼を愛していたのかと、女心の複雑さに改めて感心してしまいました。以上です。」
田中はゆったりとした話し方で、感想を述べると、全員から拍手が上がった。
「ありがとうございます。白いカーネーションにそんな花言葉があったんですね。そう聞くと、あのシーンの見方も変わってきますね。
では、次に
門倉と呼ばれた、20代後半ぐらいの若い女性は、自虐的に笑いながら感想を述べた。
「私は、女として絵里子さんに凄く感情移入をしてしまいました。
作品には、本人がほとんど登場しないのですが、佐伯健太郎の回想に登場する彼女の、彼に与えた影響の大きさに、驚きました。
私もこんな風に男性に影響を与えられる女性になれたらと、憧れてしまいました。
ただ、愛してくれる男性にこんな仕打ちをするのってどうなのって、思いました。
最初、読み始めた時は、亡くなった奥様との思い出の話かなとも思ったら、そうではなかったので、ある意味驚きました。まさか、彼女が失踪していただなんて思いもよりませんでした。
けど、彼女の一挙手一投足に一喜一憂し、読後はすっかり読み疲れてしまうほど、心を揺さぶられました。とても素敵な物語だなと思いました。」
彼女が語り終わると、やはり皆拍手をした。
「確かに、愛する男性にあの仕打ちはないですよね。同じ女性として許せない人も多いかも知れません。ただ、もしかしたら私もやっちゃうなんて人がいるかもしれませんので、男性諸氏は気をつけてくださいね。」
北窓のコメントに皆笑い、会は和やかに進行していった。
こうして、参加者が感想を言っては拍手が起こり、北窓が一言コメントしていくスタイルで、順番に感想を述べていった。
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