第三話 過ぎ去りし日々の影


 退職してから早一ヶ月が経った。梅雨が終わり、すっかり夏らしくなり、庭の木では夏の到来を喜ぶかのように、蝉がけたたましく鳴いていた。


 朝起きて、ウォーキングをし、必要があれば早くから開いているスーパーで買い物をする。帰宅後、目玉焼きを焼いて、味噌汁を作り、テレビを見ながら朝食を摂る。おかずは昨晩の残り物をつまむことが多い。

 朝食が済んだら、後片付けをして、昼まで本を読む。図書館から借りてきた本だ。小説や図説が多いが、時折小説で読んだ専門分野が気になり、その資料を借りてくることもあった。

 昼は朝の残りかインスタントラーメンを作り、午後はパソコンを開いてネットサーフィンをしたり、その日感じたことを日記代わりにワープロソフトに打ち込んだり、家計簿をつけたりした。


 街の防災無線から夕方の音楽が聞こえてくると、夕食の支度を始める。

 母は料理好きで、父が結婚当初プレゼントしたという、厚さ10㎝にもなる分厚い料理本が台所に鎮座していた。実家に戻ってから、直人はそれを見ながら、見よう見まねで料理をすることが多くなった。

 大学卒業後、社会人になると同時に独り暮らしを始め、それからなので、料理暦はそれなりに長い。プロには遠く及ばないが、直人のような歳の男性が、こうして料理ができるのも、偏に子供の頃から、母に教えて貰ったことが活きているのかも知れなかった。

 できあがった料理は、テレビを見ながら時間をかけて摂る。酒は好きだが、晩酌はやらない。酒は特別な時に飲むものだという、父の教えがこびりついているのか、特別な時以外は飲む気になれないのだ。

 台所の片隅には、日本酒やウイスキーなどの瓶が数本、父が大事に保管していた。しかし、思い出が減りそうな気がするのと、父の教えもあって、手をつけるのが憚られ、そのままになっていた。


 夕食を終えて後片付けをしたら、その後はシャワーを浴びる。

 いまだに動くのが不思議なぐらいの骨董品のような内釜のお風呂で、浴槽の隣に置いてある給湯器から煙突が伸びたタイプだ。今や博物館でしか見かけない代物だが、野村家では現役で活躍している。

 ただ、必ず換気扇を回し、一酸化炭素チェッカーを確認しながら入ることになるのだが、一人暮らしの身には、湯船にお湯を張るのはもったいなく感じ、もっぱらシャワーになってしまい、いまや、この骨董品がフル稼働することはなくなった。


 シャワーでさっぱりした後は、眠くなるまで居間で本を読んで過ごす。真夜中を越える前には眠くなるので、寝室に行って布団に入る。

 これが野村直人の一日のルーティーンだ。退職しても自ずと身体が規則正しい生活を欲し、数日間ほどだらけてみたが、やはり落ち着かなくなって、結局変わる事なく続けている習慣だ。


 この日々のルーティンは彼に落ち着きを与えてはいたが、何も産みだしてはくれなかった。ただ決められた作業をこなすだけの、生きているという実感のない日常が繰り返されているだけだった。


 この規則正しい日々は、直人に様々なことを考える時間を与えた。

 朝ウォーキングをしている時、食事を作っている時、トイレにこもっている時、眠りにつこうとしている時、ふとした時に、何かが頭に浮かび、思考の海へと漕ぎ出してしまう。

 特に長年つきあってきた相棒とも言える孤独感は、直人を思考の海へと放り込む一番の厄介者だった。

 仕事をしていた時は、気を紛らわせることができたので、孤独感とも上手くやれ、ややもすれば楽しむこともできた。

 しかし、退職してからは、一人でいる時間が増えたことで、直人の心を容赦なく占領し、孤独感をいなすことが難しくなっていた。


 仕事人間として、会社と自宅を往復するだけの日々、変わり映えしないと分かっていても、それを変えようとはしなかった直人にとって、この孤独感は腐れ縁の仲とも言える。

 しかし、ここまで心を占められると、いくら腐れ縁の仲とは言え、心が病んでしまうのは自明の理だった。

 それならば、何か新しいことを始め、情熱を注ぐ何かに没頭すれば良いのだろうが、65年も変われなかったのだ、一朝一夕に変われるはずもない。

 漠然とした不安が押し寄せてきても、何もできない自分に、苛立ちと諦めが綯い交ぜになった感情が渦を巻いていた。


 過ぎ去った日々の影は、いつまでも直人につきまとい、放すことはなかった。

 人間の思考というのは、経験や知識に基づいて意思決定を行うための基本的な方法であり、人間が世界を理解し、新しい概念を創造する手段だと言われている。

 それを考えると、直人が思考するこの孤独感とは、彼がこれまで築いてきた経験と知識が作り上げた概念であると言っても過言ではない。しかしこの概念が、彼のこれまでの人生を縛り付けてきたことに、彼は無自覚だった。


 直人はこの日、本の返却と新たに借覧するために、図書館へと足を運んだ。

 近年建て替えられたこの図書館は、地下二階、地上五階建ての、博物館か美術館かと見紛うほどの巨大な建物で、中には閲覧室や学習スペースはもちろんのこと、貸し会議室なども多数あり、数人から数十人が一堂に会し、時間あたり数百円で借りられる部屋が様々用意されていた。

 市民なら誰でも自由に利用できるが、噂を聞きつけた人々が、他県からも訪れるぐらいで、一階に併設されたカフェとともに、SNSで紹介されていることも多かった。

 蔵書が増え、閲覧・学習スペースも大幅に増えたこの図書館は、夕方や土日ともなれば、近隣の学生でびっしりと埋まっている。冬は暖房、夏は冷房と、学習スペースとしては最高の場所だからだ。

 直人も学生時代良くこの図書館に通い、本を読んだり勉強したりした。しかし、当時は平屋の古びた建物で、狭くて学習スペースも数席しかなく、取り合いになったものだったと、足を運ぶたびに当時を懐かしく思い出した。


 直人は、図書館に入ると、入り口のカウンターで、返却手続きをおこなった。

 入り口カウンターは、正面玄関から入ってすぐのところに、役所の受付カウンターのように鎮座していた。カウンターの奥では、司書たちがパソコンを操作したり、返却された図書の状態確認をしたり、新規で搬入された本にラベルを付ける作業をしたりしていた。


 直人がカウンターに行くと、

「ご返却ですね。図書館カードをお願いします」

いつも対応してくれる30代半ばぐらいの女性が声をかけてくれた。

「はい。お願いします。」

直人は、目を合わせずぶっきらぼうに言いながら、持ってきた図書をカウンターに置いて、図書館カードを提示した。

「全部で五冊ですね。今確認しますので、少々お待ちください。」

事務的な口調だが、微笑みを絶やさず、慣れた手つきで図書館カードと返却図書のバーコードをスキャンし、モニターの表示を確認した。

「お待たせしました。確かにご返却承りました。問題ございません。」

事務的な口調でそこまで言った後、急に口調が変わった。

「もしご興味があれば、こちらにご参加なさいませんか。」

 一枚のチラシを手渡しながら、かけてきた女性司書の声は一段トーンが上がっていた。明らかに事務的口調とは違う、女性特有の猫なで声とでも言うのか、物をねだるような甘えた声というのか、実際の声はただの勧誘口調だったのだが、直人には艶めかしい声に聞こえ、ドギマギしながらそのチラシを受け取った。


 チラシには「読書感想会」とあり、昨年芥川賞を受賞した作家の小説がテーマとなっていた。日付は次の日曜日で、主催は文学サークル「Page-Turners」とある。参加費用は100円で、2時間ほどの予定となっていた。


「小説がお好きなら、是非参加なさいませんか。そんなに堅苦しくない、和気藹々とした雰囲気のサークルですので、ハードルはあまり高くないと思います。是非ご検討ください。」司書がそう言って、にこりとしていた。まるで子供が父親に遊びに行こうとでも誘うかのような、そのキラキラした眩しい笑顔を見て、直人は少し焦った。

 急に頭が真っ白になり、どのように返事をして良いか分からなくなってしまったのだ。いつもは「問題ありません。」に対して「ありがとうございます。」で済んでいた会話が、突然のキラキラした笑顔とサークル参加の勧誘で、「ありがとうございます。」を言いそびれてしまったのだ。

 いつも他人と話す時は、充分にシミュレートしてから話すため、内心心臓が破裂しそうに緊張したりしていても、外見は平静を装い会話することはできていたのだ。

 しかし、この時ばかりは、予想だにしない内容に、キラキラの笑顔で、どのシミュレーションパターンも不適切と感じ、

「検討します。」

とぼそりと言って頭を下げるしかできなかった。直人はチラシをつかみ取り、内心走って逃げ出したいのを必死に堪えながら、足早にその場を離れた。


 いつも来ている図書館で、いつも応対してくれる女性司書で、いつも優しく応対してくれるが、あくまでも事務的でしかしなかったのだ。それが、突然あんな眩しい笑顔を見せられてしまっては、焦ってドギマギしてしまうのも、致し方なかった

 もしかしたら変な人だと笑われたかも知れない、もしかしたら危ない人だと警戒されたかも知れない、もしかしたら勧誘したことを後悔しているかも知れない、もしかしたら……。後から後からネガティブな感情が湧き起こってきた。


 直人は習慣付いたように、何も考えず、いや考えられずに上の階へと上がって、気がついたら小説が並べられた棚の前に辿り着いていた。まるで全速力で走ったかのように心臓の鼓動は早く、額から汗が噴き出していた。

 心を静めようと、大きく深呼吸をした。何度も何度も、大きく大きく。


 頭が真っ白になったのは、別に彼女に恋心を抱いていたとかそういうのでは微塵もない。ただ女性が向けて来る笑顔に慣れないのだ。テレビとかで見る分には平気なのだが、ああして突然向けられると、心の準備がないせいか、焦ってしまうのだ。これは、子供の頃からまったく変わらない。思春期のガキかと笑われようが、心臓がバクバクしてしまうのは、どうしようもないのだ。


 早鐘のような心臓の鼓動がようやく落ち着きを取り戻し、額に浮き出ていた汗を拭き取ると、直人は借覧する本を選び始めた。

 この図書館は、地方都市の図書館にしては蔵書が比較的充実していて、新規発行されたものから、すでに絶版になったものまで、あらゆる本が数多く収蔵されていた。

 一般的な公共図書館の収蔵数が15万冊前後と言われる中、この図書館は驚異の50万冊越えで、市内の図書館をすべて合わせると100万冊に上ると言われていた。

 地方都市のこんな小さな市になぜこれだけの図書館があるかというと、この市出身の企業家が街のためにと寄贈したのだ。200億円をかけて建物を改築し、自身の蔵書の多くを寄贈し、また寄付金を元に蔵書を増やした結果、ここまでの数になったのだ。

 

 直人の心臓は、まだドキドキしていたが、それでも目に付いた本をピックアップしては、パラパラとページをめくり内容を確認しては、借覧する本を選別していった。

 本にのめり込むと、世俗を忘れて自分の世界に入れるこの感じが、直人は好きだった。

 あっという間に手には四冊の本があった。


 もう一冊ぐらいと思い、一つ一つ背表紙を眺めながら、吟味していた直人の目にとまったのは、暗めの青色を基調としたモノトーンの背表紙で、上の方にキラキラ輝く星が描かれていた。どこか柔らかく温かみのある色合いのグラデーションの背景に、読みやすいフォントで「遙かなる約束」加藤美香子かとうみかこ著とある。


 思わず手に取って表表紙を見ると、どこか田舎の風景だろうか、田園地帯にぽつりと一軒家があり、明かりが漏れていた。空には満天の星が描かれていて、冬の象徴であるオリオン座が左上の隅に描かれた、印象的なイラストを背景に、タイトルと著者名が、背表紙と同じく柔らかいフォントでさりげなく書かれていた。そして、裏表紙には大きな満月が描かれ、田園地帯を照らし出していた。


 直人の第一印象は、「素敵な表紙だな」の一言だった。

 夜のイラストに、これほど温かみを感じることなんて、今まで一度も味わったことはなく、描かれた風景とその色合いに、どこか懐かしさを感じながらも、ノスタルジーだけではない何かを感じた。

 直人は、表紙を眺めながら、心の奥底に沸き上がるこの不思議な感情とともに思考の海に飛び込んだ。

 

 最初に感じたのは、懐かしさと静けさが漂うこのイラストに、静寂の奥底にある希望だった。そして、一軒家から漏れる明かりからは、温かみと安らぎを感じ、満天の星とオリオン座からは、自然の美しさと不思議さを感じ、裏表紙に描かれた満月は、新たな始まりを象徴しているように感じた。

 日常に横たわる温かみや、美しさ、そして不思議な光景というものが、人の心をかき立て、未来へと進む原動力になる。穏やかなこの光景は、その始まりに過ぎないのだと、直人は結論づけ、この不思議な感覚に誘ったこの本に、俄然興味が湧いてきた。


 加藤美香子と言えば、繊細な心理描写や美しい言葉遣いで、読者を魅了する作品を書くことで知名度を上げている新進気鋭の作家である。

 昨年芥川賞を受賞した時には、新進気鋭の美人作家などと、大きな話題となったので、直人もその名前は知っていた。

 そう言えば、先程貰ったチラシにあった、次回のテーマ作が彼女のこの作品だったなと思い、直人はパラパラとめくってみた。


 書き出しは、老作家が窓辺に座り遠くの景色を眺めるところから始まる。そして、遠い日の小さな約束に思いを馳せ、その約束を果たそうとすることで物語が動き出す。

 老作家が自分の過去を元に書いたと言う設定で話が進む、良くあるパターンの筋で、いわゆる「回想小説」とか「自伝小説」とか言われるものだ。


 初めて彼女の小説を手に取ってみたが、評判通りの美しい描写で、主人公の目に映る田舎の風景がありありと浮かび、主人公の心情と相まって、繊細に描写されていた。

 直人はこれは是非読んでみたいと思い、そのまま借覧することに決めた。


 この日は、この「遙かなる約束」を含めて、結局いつも通り五冊を借覧することにした。

 もう一度あの女性司書がいるカウンターへ行かなければならないかと思うと、直人の心臓は、鼓動を打ち鳴らし始めたが、できるだけ平静を装い、落ち着いて、深呼吸をしてから、カウンターへと向かった。

 件の女性司書は、今度はいつものように微笑んでいるだけで、事務的に応対してくれた。直人は内心ホッとして、ぼそりとお礼だけ述べて、図書館を後にした。

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