第二話 記憶の中のダンス


 退職後の時間は、想像していたよりも遙かに長く、空虚だった。言い知れぬ不安を抱えながらも、野村直人は日々の生活に没頭しようと努めていた。

 退職金と年金で、贅沢をしなければ暮らしていけるだけのものはあり、日がな一日テレビを見たり、ボケ防止のために始めたパソコンを弄ったりして過ごしていた。

 また、市の図書館に行って、小説や図説などを数冊借りてきては、読み耽ったりして、大好きな読書を思う存分堪能した。

 さらに、健康のためにと始めた4㎞程のウォーキングを、雨の日も欠かすことなく、毎朝1時間以上かけておこなった。学生の頃、新聞配達のバイトをしていたので、この歳になっても早起きはさほど苦ではないのだ。


 そんな夏休みのような日々を送っていたある晴れた日に、直人は思い立って、すべての窓を開け放ち、虫干しを兼ねて押し入れの中を整理することにした。

 両親が使っていた布団と今自分が使っている布団を、まずは庭に干した。

 両親の布団は湿り気もあるし黴臭いため、今後も定期的に干すことを直人は決めた。


 布団を干し終わると、今度は押し入れの中のものをすべて外に出していった。押し入れは居間と寝室の二箇所だけだ。すべて出しても大した荷物ではない。段ボール箱と衣装ケースが詰め込まれていたが、大した数ではないと、直人は高を括った。


 衣装ケースには、母と父の服がそれぞれしまわれていた。

 母の服は柔らかな織り地で、淡い色合いのブラウスやワンピースが綺麗にたたまれている。昔懐かしい花柄のドレスや、特別な日に身につけていた上品なスカートも、その中にしまわれていた。直人は入学式や卒業式にも、母が着ていたことを思い出し、防虫剤の芳香とともに、当時の思い出が蘇り、母の優しさと懐かしい匂いが漂ってくるように感じた。


 一方、父の服はシンプルで、しっかりとした素材感が感じられるものが多かった。シャツやジャケットは無骨ながらも、父らしい厳格で堅実な、そして温かみのある人柄がにじみ出ているようだった。その中には一張羅のスーツもあり、記念日などはこれを着て、母と仲良く出かけていたのを思い出した。

 古びたネクタイや、大切に使っていた革のベルトが、まるで彼の存在を思い起こさせてくれるかのように、綺麗にしまわれていた。

 彼は、一つ一つ丁寧に取り出し、部屋にロープを渡してハンガーを掛けて、一つ一つ丁寧に虫干しをした。


 衣装ケースが終わると、今度は段ボール箱だ。

 最初に取り出したのは、母が生前つけていた家計簿の束だ。両親が結婚した当初からになるから60冊近くになる。

 しっかりした母らしい筆跡で、びっしりと書き込まれた家計簿には、時折一言日記が備考欄に書かれていた。父が酔って帰ってきたことを愚痴っていたり、直人があれしたこれしたと、成長記録をつけていたり、数少ない家族旅行のことも書いてあった。

 そして目にとまったのが、直人の名前の由来が書かれていたことだった。真っ直ぐ実直な人になって欲しいと言う願いを込めて命名したことが、誕生から1週間たった時の備考欄に書かれていたのだ。

 親に自分の名前の由来を聞いたこともなかった直人は、思わぬところで親が自分に託した想いを知って、感極まり涙ぐんでしまった。


 次に出てきたのは、段ボール20箱に及ぶ父のスクラップブックだった。

 父も直人同様趣味らしい趣味はなく、唯一していたのは、新聞の切り抜きだった。昔聞いた話では、父が入社した時に、仕事の役に立つからと上司に勧められ、始めたそうだ。

 父が若い時分からのスクラップブックには、戦後間もなくの混乱期から、復興の様子、そして高度経済成長を迎え、バブルの華々しい時代を経て、平成が間もなく終わろうとする、まさに激動の半世紀が丁寧に綴られていた。

 半世紀にわたる、膨大な新聞や雑誌の記事が貼られたスクラップブックは、古いものほど黄ばみが酷く、痛んだりしていたが、その中身はまるで手作りのタイムカプセルのようだった。

 特に、東京タワー開業、東海道新幹線開通、東京オリンピック開催には、関連記事も含めて丁寧にスクラップされ、どこから手に入れたのか、入場券や乗車券、ポスターなどもスクラップされていた。

 そして、平成に入ってからは、おそらく退職後に時間ができて、こり始めたのだろう、自分で撮った写真や、どこから貰ってきたのか、ポスターや入場券なども挟み込まれていて、見ているだけで懐かしさを感じるものが数多く残されていた。


 仕事の糧にと始めたことが、ここまで来れば立派な職人作業である。ページをめくるたびに、「懐かしい」と直人は呟いてしまい、厳選されたスクラップは歴史的な価値もあるのではと邪推するほど、素人の仕事ではなく、寡黙な父の情熱を雄弁に語っているように感じた。


 スクラップは亡くなった年まで続き、父が最後に入院したその前日まであった。思わず入院から亡くなるまで、母と交代で看病した数日間を思い出してしまった。

 結局親孝行らしいことは何もできず、孫の顔を見せてやることもできず、大成できなかった不甲斐ない自分を情けなく思い、様々な感情が湧き上がって、また涙が溢れてきた。

 押し入れいっぱいに入っていたスクラップブックの段ボール箱を全部開けて、取り敢えず風を通し、また明日から一箱ずつ虫干しすることに決めた。


 段ボール箱を開けるたびに、思い出が蘇り、叱られたことも、褒められたことも、三人で出かけたことも、優しかった母と、寡黙だった父と、三人で過ごした日々が、走馬灯のように蘇り、胸が熱くなった。


 他にも雑貨や思い出の品が詰まった段ボールがいくつか出てきたが、その一番奥に「直人」と母の字で大きく書かれた段ボール箱が出てきた。

 中を開けてみると、小中高大の卒業アルバムが4冊と、賞状や通知表、両親を描いた絵や作文、卒業証書などがクリアファイルに入れられて丁寧にしまわれていた。


 直人は、思わず小学校の卒業アルバムを手に取り、広げてみた。もうほとんど記憶の彼方に行ってしまった、学校の写真から始まった。

 すでに取り壊されてしまった木造の校舎が懐かしく、まだ白黒写真しかなかった時代の、セピア色した写真は妙に感慨深いものがあった。

 学校行事で撮影された写真には、目立たない子供だった直人はほとんど写っておらず、クラスの集合写真や、一人一人の写真を見ても、名前や人物像が浮かんでくる者はほぼいなかった。思い出らしいものがなかったのだ。

 それでも、ただ懐かしく、大好きだった江戸川乱歩の推理小説を、教室の片隅でひたすら読んでいたことだけは、鮮明に思い出した。


 中学の卒業アルバムも同じように、懐かしく感じることはあっても、クラスメイトを誰一人として思い出せず、写真を見ても、名前を見ても、ピンとこなかった。

 直人の頭の中に、中学での思いでは、ほとんど何も残っていなかった。


 高校の卒業アルバムは、小、中とは違って、綺麗なカラー写真で飾られていた。

 直人が入った高校は、県下でも上位に入る翠風すいふう高校で、学年で一人ぐらいは東大に行く生徒がいたほどだった。その中でも直人の成績は中ぐらいで、可もなく不可もなくといった感じだった。

 アルバムには色んな行事の写真も飾られていて、卒業アルバム委員の生徒がつけたコメントとともに、翠風祭という体育祭と文化祭が一つになった学祭の様子、定期考査や授業中の写真、他にも日常のスナップ写真が所狭しと並べられていた。

 ほぼ写っていなかった直人だったが、一枚だけ翠風祭の体育の部のフォークダンスで顔を真っ赤にして照れくさそうに女子と踊る姿があった。


 当時は女子のブルマー姿が眩しくて、ろくに目を合わせることもできず、ただ教えられた型どおりに手や足を動かし、ロボットのようにぎこちないながらも、一生懸命踊ったことを今更ながら思い出した。半世紀近く経った今でも、照れくさくて顔が火照ってきた。


 よく見ると、写真に添えられたコメントには「美人と踊って、照れくさそうに顔を真っ赤にしている男子」とあった。一緒に写っていたのは、確かミス翠風に選ばれた学校一の美人だった。おそらく彼女を写した写真にたまたま直人が写り込んでしまい、恰好のネタにされたのだろう。

 こんな写真がアルバムにあったことも、ミス翠風の彼女と踊っていたことも、今の今まで気づきもしなかった。

 しかし、直人が女性の手を握ったのは、この体育祭のフォークダンスが最初で最後だったことを、はっきりと思い出した。

 記憶に刻まれたフォークダンスは、甘酸っぱい青春の一頁になるのが普通なのだろう。しかし、直人は、その記憶によって、今でも当時と同じように、顔から火が出そうになるほど、照れくさくなり、高校の卒業アルバムをそっと閉じた。


 当時と変わらない自分の反応に、不甲斐なさを覚え、結局この不甲斐なさが、今の独り身に繋がっていることを、まざまざと思い知らされ、やるせなくなった。

 自分を変えるチャンスを逸してきた直人だったが、「これまで」を終わらせない限り、新たな人生が幕を開けないことは十分理解していた。

 しかし、65年間変えられなかったものが、一朝一夕に変えられるものではない。

 大学の卒業アルバムを捲りながら、そんなことをつらつら考えていた。

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