第一話 静かなる余興


 穏やかだった春の日差しが、徐々に暑さを増してきた頃、野村直人のむらなおとは自身の生涯に大きな節目を迎えていた。

 彼は65歳の誕生日を迎え、その日を会社にある机の片付けに捧げた。

 引き出しの奥からは、長いサラリーマン生活の間に溜まった様々な書類や、忘れられた小物が次々と現れた。そのほぼすべてをゴミ箱に詰め込み、雑巾で机や椅子を拭いていく。

 綺麗になった机と椅子を見ても、何の感慨も湧かず、ただ物々しい孤独感だけが心に残った。


 退職式では、同僚たちの温かい拍手と大きな花束を受け取った。しかし、その拍手も花束も、彼の心に響くことはなかった。それらはただ、退職の形式的な行事に過ぎず、彼にとっては何も変わらないものであった。

 涙を浮かべて分かれを悲しんでくれる女性社員もいたが、彼女たちですら、明日になれば何事もなかったかのように、野村直人のことは忘れ去るのだ。

 

 彼はこれから訪れる孤独とどう向き合っていけば良いのか、その問いだけが彼の心を占領していた。

 野村直人には家族もいなければ、深く交流のある友人も、ましてや恋人もいなかった。彼の人生は、まるで誰も歩んでいない砂浜に、ただ一人足跡を残すのみであった。その足跡は、風雨で消え去ってしまうのではないか、ともすれば足跡があったことも忘れ去られてしまうのではないか、それほど弱々しかったのだ。


 彼は40年以上勤めたこの会社を出た。もう二度とこの会社に来ることもない。

 孤独と向き合うことの恐怖と、自由を得たことの喜びがい混ぜになったこの気持ちと向き合いながら、彼は最後の家路についた。


 野村直人の両親は、彼が50代の頃に次々と他界した。

 兄弟姉妹もいないため、二人が他界した後、それまで住んでいたアパートを引き払い、実家に帰っていた。

 実家は質素な造りの平屋で、寝室と居間、そして台所があるだけの、家族三人が住むには少し狭すぎるが、一人で住むには広すぎるぐらいの間取りで、父親が若い時分にローンを組んで建てたものだ。

 戦時中に生まれた父親は、厳格で真面目な人だったが、収入は決して多くなく、母親も相当遣り繰りに苦労したようだ。それでも、家族三人なんとか食えて、直人を大学まで出してくれたのだ。

 二人には感謝しかなかった。

 この家に戻ってきたのも、二人が残したこの家を最後まで守りたかったからでもある。


 野村直人は、大きな花束を抱えながら、家の前で立ち止まった。

 彼の母親が生前仲良くしていた、京子きょうこおばさんと呼ぶ、近所に住む山中京子が彼に声を掛けてきた。

「なお君どうしたの?そんな大きな花束を持って。」

 京子おばさんの目は、驚きと好奇心に満ちていた。

 直人は少し照れながら答えた。

「今日退職したんです。これは同僚からのプレゼントでして。」

「そうなの。それはお疲れ様。もうなお君もそんな歳になったのね。おばさんも歳を取る訳だわ。」

京子おばさんは微笑みながら言った。

「これから、何かする予定はあるの?」

「いいえ、しばらくはのんびりしようと思っています。」

直人は静かに答えた。

「そうね、長い会社勤めを終えたんだもの、ゆっくり休むのが一番よ。困ったことがあったら、いつでも相談に乗るわよ。いつでも声を掛けて頂戴。」

 直人は京子おばさんの言葉に心から感謝した。人付き合いが苦手な彼が、唯一心許せる赤の他人である。子供の頃から面倒を看てくれているというのもあって、親戚のおばさんのような感じなのだ。


 家に入ると、大きな花束を台所の洗い桶に水を張って水揚げをした。

 そして花束の一部をバラして、仏壇代わりにしている、居間の棚の上においてある花立てに生けた。

 線香に火をつけ、手を合わせ、父と母の遺影に向かって、今日無事に退職したことを報告した。ちゃんとした親孝行はできなかったけど、無事に勤め上げることができたのは、偏に両親のお陰であると、直人は両親へ感謝の気持ちを伝えた。


 彼は帰りに買ってきた、滅多に飲まないビールと焼き鳥を手に、庭に面した縁側に腰掛けた。

 すっかり日が延び、夕暮れ時にしてはまだ少し明るかったが、陽の光は柔らかく、彼の周りの世界を金色に染め上げていった。しかし、その美しさは返って彼の心を重くし、心から楽しむことができなかった。


 直人は少し苛立ちを感じて、焼き鳥を一口頬張り、ビールで流し込んだ。

 彼の心には、これから始まる新たな人生において、好きなように思う存分謳歌できる反面、何事も孤軍奮闘しなければならないことへの、言い知れぬ不安が去来し、彼はそれに苛立ちを覚え、大きな溜め息をついたのだった。


 彼は苛立ちを抑えようと、目を閉じて深く息を吸い込んだ。

 しかし、彼の心の中には、開放感と不安が入り混じった感情が渦巻いていた。会社という枠組みから解き放たれたことで自由を得たことの満足感と期待感がある反面、何をするのも自分で決めなければならず、目的もなくただ漠然とした欠如感と亡失感が彼を襲っていたのだ。

 長年続けてきた仕事が、彼の日々にリズムと目的を与えていたことを、今更ながらに直人は理解した。


「これからどうすれば良いんだろう。」

彼はぼんやりと呟いた。

 彼の心から沸き上がってくる、声にならない叫びのようなものが、心の内側で渦巻いた。

 会社人間として、家と会社を往復するだけの日々、特に趣味もなく、楽しみと言えば図書館で借りてくる小説を読みふけって、自分が体験したことのない世界を想像することだった。


 彼は、自分の過去を振り返り、これまで避けてきたことに思いを馳せた。

 まずは趣味についてだ。彼は子供の時から読書は好きだった。学校の図書館と市の図書館に通い、手当たり次第に読み漁った。

 しかし、それ以外のことはまったく興味がなく、男の子が好きになる乗り物や、カメラ、楽器などにのめり込むことも、釣りやゴルフ、スキーなどのスポーツも興味は湧かなかった。

 それでも、唯一旅行は好きだった。年に一度か二度、その時話題となった場所へ出かけるのは、日常を忘れて新たな体験ができるので、長期休みが取れた時には必ずと言って良いほど出かけた。海外へも三度ほど渡航した。


 アメリカと中国、そしてインドだ。アメリカと中国はツアーに参加し、インドは一から計画を立てて、旅行会社にお願いして予約を取り、有休を使って10日ほどかけて有名どころの観光地を中心に巡ってきた。

 インドでは人生観が変わると言われたが、都市にいれば煌びやかな摩天楼と人々のエネルギッシュな喧噪に圧倒され、ひとたび田舎に行けば、貧しかった子供の頃を思い出し、なにか身につまされるような思いに駆られた。

 寺院などを観光しても、まるでハイエナのように物売りが寄ってきて、ゆっくり観光することもできず、ガンジス川での沐浴を体験してみようと足を運んだが、あまりの汚さに、結局足先だけ川につけて、雰囲気を味わっただけだった。

 結局10日間という短い期間だったせいもあるが、人生観が変わるような体験はできなかった。


 次にこれまで避けてきたことと言えば、人間関係だ。

 子供の頃から本を読むのが好きだったこともあり、友人と遊ぶなんてことはほぼしてこなかった。他の子供たちが公園で野球に興じている時も、独り部屋にこもって本を読んでいる、そんな子供だった。

 そんなだから、親しい友人もできず、クラスでもあまり目立たない存在だった。

 思春期になり、女性に興味を持つようにはなっても、こんな性格からか声をかけるなんてこともできなかったし、逆に声を掛けられることもなかった。

 友人もいない、恋人もいない人生を変えるタイミングは、おそらく、いくつかあったのかも知れないが、彼はことごとくそれをいっしてきたのだ。

 そして、この歳になるまで、人付き合いと言えば近所の人と挨拶をする程度、会社でも仕事に関する会話以外ほぼ交わさない。飲み会に参加しても、独りちびちびとやりながら、同僚たちの話を黙って聞いているだけで、二次会に参加することは終ぞしたことはなかった。


 自分の過去を振り返っても、前向きになることもなく、結局彼の心に去来したのは、恐怖と不安だけだった。

 夕陽が完全に地平線に沈み、月明かりが彼を照らしていた。皿の上に焼き鳥はなく、ビールの缶も既に空だった。

 月光の影に情緒を感じる余裕がないほど彼の心は沈み、明日からの人生に言い知れぬ不安を抱えたまま、彼は立ち上がり、夕飯の支度のため台所へと向かった。

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