第四話 遙かなる約束
図書館から帰った野村直人は、居間に借りてきた本が入ったトートバッグを置き、台所へ行ってコップ一杯の水を飲んだ。
すっかり夏らしくなり、少し歩いただけで汗ばむ季節となっていたから、図書館からの帰り道も持参した水筒の水をすっかり飲み干してしまい、喉がカラカラだった。
図書館で起きた出来事は、直人にとって大きな出来事だったが、端から見たら、単に女性司書からチラシを受け取っただけの、何の変哲もない出来事だった。直人は、それでも思い出したら顔が火照ってきてしまい、折角引いた汗がまた噴き出してきた。
居間に戻ってきた直人は、窓を全部開けて、部屋に風を通し、扇風機のスイッチを入れた。人心地ついて、居間のテーブルにつくと、トートバッグから図書館で貰ったチラシを引っ張り出した。慌ててひっつかんだので、大分縒れてしまっていたが、テーブルの上に広げて内容を確認した。
チラシの一番上に、手書きの題字で「読書感想会」の文字と、用紙の幅一杯に大きな文字で「テーマ『遙かなる約束』加藤美香子著(芥川賞受賞作品)」とあり、リボンのイラストで囲ってあった。
用紙の余白には、手描きの可愛いイラストが
題字の下には、開催日時、開催場所、参加費用、参加方法があり、さらに、主催団体である文芸サークル「Page-Turners」の名と、その代表者の名前、
紹介文によると、この文芸サークルは、北窓彩春が十年ほど前に有志を募って発足した文芸サークルのようだ。
このサークルの前身は、月一回開催していた、読み終わった本を持ち寄る交換会で、回を重ねるにつれて、交換の際にお互いで述べていた一言感想が徐々に長くなり、持ち寄った本の感想を熱く語るメンバーが増えたことで、本好きの感想会に改めることを決め、この「Page-Turners」が発足したらしい。
サークル名の「Page-Turners」とはページターナーズと読み、直訳すれば「ページを捲る」と言う意味で、ページを捲りたくなるほど読みたい本のことを指す言葉である。
感想や意見を皆で交換することで、また読み返したくなったり、あるいはその作家の別の作品を読みたくなったりする、そんなきっかけを作る会にしたいと言う思いから名付けたと、紹介文にはあった。
さらに、この会は月一回の開催だが、三ヶ月に一度、テーマを決めて感想、意見交換会を開催しており、それが今回の「読書感想会」である。
通常会では、持ち寄った本の感想や意見を自由に述べ合う意見交換会として開催しており、感想や意見だけでなく、持ち寄った本の交換もおこなっていると言うことだった。
チラシを裏返すと、今後の予定が掲載されていて、毎月第三日曜日のお昼過ぎから2時間ほどの時間で予定が組まれていた。
直人は、一通りチラシに目を通し、大いに悩んだ。魅力的な内容のサークルであり、感想や意見交換は、おそらく彼の内なる世界を大きく広げてくれることだろう。しかしながら、人見知りの激しい、いや激しすぎる直人にとっては、富士山よりも高いハードルなのだ。
もし自分の感想や意見が馬鹿にされたら、もし自分の感想や意見を見下されたら、もし自分の感想や意見が笑われたら、もし……。次から次へとネガティブな考えが浮き上がってきて、彼の心を
直人はとにかく考えるのを辞めた。
分別過ぐれば愚に返るとも言うし、とにかく、思考の海はいつも荒れているので、船を出すのは危険なのだ。
お腹が鳴り、そう言えば昼食がまだだったことに気づき、簡単に昼飯を作ることにした。
お湯を沸かし、ラーメンを湯がく。炒めた野菜とお肉を乗せて、生卵を割り入れれば完成だ。味は、いつもの味噌ラーメンである。
若い時から、ラーメンと言えば味噌か塩と決まっていて、それ以外の豚骨とか醤油とか魚介なんかは旅行先で食べるぐらいだ。
腹が膨れ、後片付けを済ませたところで、トートバッグから借りてきた本をテーブルに並べる。
今日借りてきたのは、SF物が二冊、翻訳の戦争物が一冊、恋愛物が一冊、そしてあと一冊が「遙かなる約束」だ。
いつも午後はパソコンを開く予定だが、変更して本を読むことにする。やはりどうしても気になるのが「遙かなる約束」なのだ。
直人はページを捲る前に、もう一度表紙を眺めた。
この美しい夜の田園風景は、言い知れぬノスタルジー感と、魂が渇望する未来のような気がして、凄く惹かれるのだ。直人に収集癖はないが、この絵がもし売られていたら、一も二もなく購入していたかも知れない。ただ購入したところで飾る場所など無いのだが。
直人はいよいよ表紙を捲り、「遙かなる約束」を読み始めた。
彼は窓辺に座り、遠くの景色を眺めていた。目の前には淡い青空とともに田園風景が広がっている。風がそよそよと吹き、稲穂が揺れる様子が穏やかな午後の光景を彩っていた。
長い間、彼はこの風景を眺めていた。日が落ちるまで、ただひたすらに。時折、遠くの山々から聞こえる小さな鳥のさえずりや、風の音が、静かな時間を彩っていた。
彼が座る、この古びた椅子は、長い歳月の経過を物語るように、所々剥げ落ち、擦り傷も無数にあった。まるで、彼と過ごした苦楽を刻み込んだように。
彼は、遥か彼方を見つめながら、心の中でふと思った。かつての約束を果たす日が、いつか訪れるのだろうか。
田園風景から始まるこの書き出しは、主人公である老作家、
しかし、彼には精算できていないものが、一つだけあった。それがヒロイン
この約束は、若い頃に心から愛した女性、絵里子が突然失踪したことに端を発する。
新月の夜、満天の星が煌びやかに輝く深夜、田園地帯の家々はすっかり寝静まり、時折梟の鳴き声が微かに聞こえてきた。
いつものように主人公は小さな書斎で執筆をしており、まもなく日常が終わろうとしていた。
寝室では、絵里子が古びたノートに何かを書きしたためていた。その表情には何かを決意した力強さと、その決意を憂う悲しみが浮かんでいた。
この後、絵里子はこの古びたノートと一輪の白いカーネーションが活けられた細長い花瓶を一本だけ残して、佐伯健太郎の前から姿を消すのだ。
彼女が残した古びたノートには、彼との思い出が綴られていた。そしてその最後のページに書かれていたのがこの言葉だった。
「いつかまた、星が輝く夜に再会しましょう。その時、互いの人生を語り合いましょう。」
佐伯健太郎は、突然の彼女の失踪に気が狂い、発狂した。しかし、やがて彼は憔悴し、絵里子のいなくなった日々に、生きる望みをなくし、自殺を図ろうと画策するが、編集者の訪問により、彼は一命を取り留める。
やがて、佐伯健太郎が、周囲の協力もあり、十数年のブランクを経て、再びベストセラー作家へと返り咲くのだ。
そして、再びこの田園の一軒家で、椅子に座る佐伯健太郎に場面が戻り、彼女が残した言葉の真相を探る旅に出る決心をするのだ。
当時古びていたノートも、今や彼の涙でふやけ、見る影もなくなっていたが、かろうじて文字は読むことができた。
彼は、まず親戚を訪ね、彼女の消息を尋ねたが、もちろん知る者はなく、今更何しに来たんだと、塩を撒かれる始末。
その後は、彼女との思い出の地を一つ一つ巡りながら、その一つ一つを噛みしめていく、まさに巡礼の旅となる。
彼女と出会った場所、付き合い始めの頃に住んでいた四畳半一間のアパート、良く散歩した近所の公園、貧しくてパンの耳で飢えを凌いだ行きつけのパン屋さん、数ヶ月に一度の贅沢として食べた、中華屋のレバニラ炒め定食も健在だった。
佐伯健太郎が売れっ子作家になると、今の田園地帯に居を構え、小さいながらも幸せな日々が続いた。
その後も二人で出かけた旅行先へと、軌跡を辿るように佐伯健太郎は巡った。
札幌で食べた味噌ラーメンの味に感動し、東北三大祭りのねぶた、七夕、竿灯では、人混みにもみくちゃにされ、北陸で見た雄大な立山連峰の雪景色に感動し、お遍路を体験してみようと、十㎞ほどを二人で歩いた四国路の過酷さ、そして、九州では周遊券を使って各県をのんびり巡り、各地の名産や景色を楽しんだ。また、沖縄では、海水浴を楽しみ、絵里子の美しい水着姿は、今でも佐伯健太郎の脳裏に残っていた。
加藤美香子の作風なのだろう、その事細かな描写は、全国を探し歩く佐伯健太郎の心情はさることながら、各地の美しい情景がありありと目に浮かび、各地のグルメに至っては、まさに自分が口の中で味わっているかのような錯覚に陥るのだ。
パンの耳を二人で食べるシーンで、直人は思わず涙を流してしまったほどだった。
佐伯健太郎は、ついに絵里子の消息を掴むことに成功する。彼女を探し始めてから3年の月日が経っていた。
偶然にも人伝に彼女の消息を知った彼は、彼女との再会を決意するところから物語が続く。
山間部の田舎町、佐伯健太郎は、約束の喫茶店へ向かっていた。雪が降り積もり、凍てつくような寒さが身に染みる中、彼は雪を踏みしめながら歩いた。
しかし、この日は満月であり、その眩しい光が雪に反射し、寒さの中にも暖かな光を投げかけていた。
佐伯の吐く息は白く、目深に被ったハットのつばには、息でできた小さな霜の結晶が月明かりに輝いていた。彼の足跡は雪原に深く刻まれ、それはまるで彼の孤独な旅路を物語るかのようだった。
こんな文章から始まったクライマックスは、絵里子との再会へと向かう。
佐伯健太郎が扉を開けると、来客ベルが鳴り響き、奥からマスターが低い声で歓迎を告げる。マスターに手で示された奥の席に、薄紅色のセーターを纏った女性の後ろ姿があった。そして、彼が近づき、女性に声をかけたところで、二人の時の流れが再び動き出すのだ。
このあたりの描写を、直人は手に汗握る思いで、ドキドキしながら読み進めた。
まるで自分が絵里子と再会するかのような、足の軽やかさと、時の重みを感じながら、一歩一歩彼女に近づいていく佐伯健太郎の心情が、直人の心を締め付けていくのだ。
最後に二人が交わす、
「絵里子さん。」
「待っていたわ。」
と言うもの凄くシンプルな会話は、二人が互いに過ごした時の流れの重みを感じさせるとともに、ようやく約束を果たせたことへの祝福の言葉ともとれた。
ここで、この小説は終わりを迎えるのだが、この後二人は喫茶店の閉店まで話し込み、二人が別々に過ごした日々を語り合うのだろうと想像すると、時の流れは時に残酷だが、時に温かく人を包み込むのだと、直人は思った。
読後、最初の感想は、一言「美しい」だった。
とにかく文章が美しいのだ。女性らしい文体というのか、一つ一つの描写が微に入り細に入りしていながらも、くどくなく、さらにその描写一つ一つが直人の心に情景を鮮明に浮かび上がらせ、佐伯健太郎の心情までもが、まるで自分が佐伯健太郎になったかのような錯覚に陥るのだ。
こんな、作品に今まで出会ったことはなかった。いや、のめり込んだ作品なら数多あった。しかし、この作品はそののめり込み方が、他の作品とはまったく違ったのだ。
そして、この作品のテーマとも言える、「時間を越えた愛」が前面に押し出されることなく、読後じわりじわりと気づいていく。そういったところも、この作品の魅力となっているのだろう。
そう直人は考えを巡らせた。
最後に本を閉じて、表紙に目をやった時に、直人はふと合点がいった。
ただの懐かしく、ノスタルジックな夜の田園風景のイラストだと思っていたのが、それぞれに意味を持ち、この絵に作者の想いが込められているのかも知れないと考えた。
田園風景は、移り変わる季節の変わり目や時間の流れを象徴し、過去への回顧と未来への変化を表しているが、そこにある一軒家は、唯一変わらない「約束」の価値を再認識する物語のテーマを象徴している気がした。そして移り変わる季節は同じように巡り来ることも、この小説のテーマを示唆しているような気がしたのだ。
また、満天の星は、絵里子の台詞にあった「星が輝く夜に再会しましょう」とリンクし、約束が果たされる運命を予感させ、裏表紙に描かれた満月が、完成や完全性を象徴するように、二人の愛が満たされたことを示唆しているのではないかと感じた。
もう一つ、オリオン座の存在は、この二人の運命をガイドする役割を象徴していて、作中にも、佐伯健太郎が絵里子を探す旅の中で、彼を導く星として効果的に登場することからも、作者がこのオリオン座に託した想いは、二人を結びつける役割を担わせたかったのかと、直人は考えた。
このイラストを見る目が変わり、こんなところにも読者を楽しませる仕掛けがしてあったことに、直人は大いに感心した。この加藤美香子という作家の緻密さ、優雅さに感服し、惹きつける魅力にすっかり虜になってしまった。
気がついたら、夕方の防災無線が流れる時刻はとうに過ぎ、外はすっかり暗くなっていた。彼は慌てて、本を片付けると、台所に行って、夕飯の支度を始めた。
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