卵を背負う旅人

平本りこ

卵を背負う旅人

 世界と世界の狭間にあるこの宿場には、多種多様な者がやって来る。異様に背が高かったり、肌が見えぬほど毛深かったり。人であるようでいて、人ではないような容貌の者も訪れる。目を疑うような異形の人間を多々目にしてきたのだが、彼ほど奇妙な旅人には、後にも先にも出会ったことがない。


 朝靄立ち込める早朝に、彼は私が営む宿の戸を叩いた。


 容姿、ということならば、彼はいたって標準的な人間だ。黒い髪と黒い瞳をした、よく日に焼けた若い男である。


 異質なのは、背中に背負う巨大な灰色の卵。旅人の上体ほどの大きさがあり、重かろうと思うのだが、彼は頑なに卵を下ろそうとしない。食事時や就寝時はさることながら、廁や風呂場にまで背負って行く。あまりの重量に、肩や腰に負担がかかり、痛めてしまうのではないかと心配になる。


 彼が宿に滞在して三日ほど経った日、朝食の席で疲労をあらわにする彼を見かね、とうとう私は言った。


「肌身離さず背負っているその卵、たいそう大切なものだとお見受けいたします。ですがこのままでは、あなたの身体に障りましょう。せめて食事や就寝の折には、背中から下ろしては」


 すると彼は青白い顔に驚きを浮かべ、やがて全てを受け入れた者特有の、妙に達観した静かな微笑みを浮かべて答えたのだ。


「親父さんのお気遣いは痛み入ります。ですがこの卵は僕の一部なのです。肌から離すことはできません」

「それは、心理的なものでしょうか。それとも身体的な?」

「と、言うと」

「つまり、癒着している、ということなのでしょうか」


 時々訪れるのだ。彼のように、人ではない何かと同化した肉体を持つ者が。だが旅人は、ゆるりと首を横に振る。


「卵が癒着、というのは少し異なります。言うなれば、私の方が卵に癒着しているのです」

「ほう、それでは卵の方が本体なのですか?」


 旅人は、病人のようにやつれた顔からは意外なほど、快活に笑った。


「いえいえ違います。ちゃんと僕は僕ですよ。けれど思い出してください。母親の腹に卵がある時だって、母と卵は別の生き物でしょう。僕は、自分の意思でこの卵に癒着しているのです」

「切り離すことは可能なのですね」

「もちろん。ですがそんなことをすれば、僕には生きる意味がなくなってしまいます」

「申し訳ないが、良くわからない。とにかくその卵は、あなたの子なのですね」

「僕らはこれを、そのようには呼びませんが……他の世界の言葉を当てはめるとすれば、子という言葉が一番しっくりきます」

「家族の誰か、ということですか」

「そう考えていただいても結構です」

「失礼ですがご両親は?」

「おりません」


 そうか、と私は納得する。旅人はおそらく、人が卵から生まれる世界からやって来たのだ。そして、孵る前に親を失った弟妹か親戚の子を、一人で守り育てているのだろう。若いにもかかわらず、立派なことだ。私は彼を少しでも手伝ってやりたいと思い始めていた。


 幸いというか、災難というか、私の宿は閑古鳥が鳴いている。ここ数日、彼以外の客がいないのだ。ゆえに、目の前のたった一人の客人のために全ての時間を使ったとしても、困る者は誰もいない。


「旅人さん、あなたはその子を卵から孵すために旅をしているのですね。どうしたら卵は孵るのです?」

「栄養が必要です。色んな世界に色んな食材がありますでしょう? だから僕は、彼に幅広い栄養を得てもらうために旅をしているのです」

「感心なことですなぁ」


 旅人は、こけた頬骨の辺りを持ち上げて、満面の笑みを浮かべた。


「彼にどうしても会いたくてね。その一心で旅をしているのですよ」





 その日から、私は旅人の要望に応じて食材集めに精を出した。


 様々な世界を旅し、その土地の名物を食い倒す。言葉だけを聞けば、食道楽のようだが、野外での彼の食事を一目見て、私は認識を改めた。


 彼は決して美味なものを食すのではない。自らの口に入れる判断基準はただ一つ、栄養があるかどうかである。


 私には到底食材に見えぬモノすら口にした。目が眩むほど色鮮やかな体毛の見慣れぬ獣など序の口で、美しい絵画、名曲の楽譜、高名な学者の論文。彼に言わせればそれらはれっきとした養分であるという。


 この世には無数の世界が存在し、ある世界での常識はある世界での非常識になる。狭間の宿場で生まれ育った私は、旅人の迷いない様子を見て、そういう次元も存在するのだろうなと考えた。


 旅人は毎日食べ続けた。四六時中、咀嚼を続けている彼を心配し、とうとう私は言った。


「そんなに食べて大丈夫ですか。休憩した方が良いのでは」


 無心で暴食していた旅人は、はっと我に返る。


「いや、ついつい夢中になってしまいお恥ずかしい。狭間の宿場には、たくさんの良質な食材があるので嬉しくて。もっと早く来れば良かった。そうすれば、苦労して世界と世界を渡り歩かなくても済んだのに」

「狭間ですからね、全ての世界から物や生物が流れつくのです」

「ああ、これで背中の彼に会える日が、いっそう早くなる」


 心底幸福そうな顔をして、彼は食事を再開した。





 食えば食うほどその身体はやせ細る。対象的に、背負った卵は大きくなった。どちらが本体かわからなくなった頃、とうとう旅人は旅どころか外出すらままならない身体となり、宿の一室に籠るようになった。


 巨大な灰色の卵を背に乗せて、うつ伏せに横たわる旅人。卵に圧迫されて、呼吸が阻害されるのだろう。彼は布団の上で浅い呼吸を繰り返している。


 相変らず他に客はいないので、私は彼を付き切りで看病した。


「旅人さん、お加減はいかがですか」

「最高の気分ですよ」

「それはなんと……。我慢なさってはなりませんよ。弱音くらい吐いたって良いのです」

「いいえ、弱音など」


 旅人は、激痛に歪む顔に笑みを張り付かせる。常に前向きな表情を崩さないのは、旅人の美点であろう。しかし、死の影が忍び寄る病床でこのような恍惚を浮かべるなど、もはや狂気の沙汰である。


「嫌々詰め込んだ養分は、卵の中の彼を形作る血肉となりません。だから僕はこの旅を、苦しいと思ったことなどないのです。美しきもの、力強いもの、興味深いもの。それらをたくさん摂取して、背負った卵を育てる。これほど前向きで面白いことはありません」

「あなたの世界の人々は皆、そのように達観しているのですか」

「もちろんです」

「悪いが理解に苦しみます。たとえ我が子のためといえど、親の自己犠牲の上に生れ落ちるその子が哀れです」

「自己犠牲?」

「そうでしょう。だってもし、卵を育てるためにあなたが命を落としてしまったとしたら」


 ああ、と布団の上の彼は唸った。胸部を圧迫された、潰れたような声だった。


「多くの世界では、人は死に、無に帰すものなのですよね。知識として知っています。狭間に暮らすあなたですらも、その常識の上、ものを考えている。確かにその前提において、僕の様子は奇妙極まりないのでしょう」

「と、言うと?」

「僕らは皆、生を受けた瞬間から、背中の卵から生まれて来る存在のために、生き続けます。彼や彼女に会いたい一心で。そして、最後には……ほら、もうその時です」


 ぴきり、と卵の殻に亀裂が走る。枕に片頬を押し付けた旅人の目尻から、透明な歓喜の涙が零れ落ちた。


「ああ、やっと」


 殻を破ろうとする者が暴れる振動で、旅人の身体が軋んでいる。


「彼に会える」


 何度目かの大きな衝撃の後、旅人の骨が鈍い音を立てて折れた。それでも彼は、笑みを絶やさない。私は全身の毛穴が飛び出すような不快を覚えたが、旅人が生まれた世界では、これは祝うべき誕生の儀式なのだろう。そうだ、母親が苦痛を堪え、子を産み落とすのと同じこと。


 もはや呻き声すら出せぬ旅人は、血走った目を見開き、口の端から鮮血を噴き出しながら、眼球をぎょろりと背中に向けて、己の卵から生まれ出る存在を目に焼き付けようとした。


 分厚い殻が、ばりんばりんと割れ、粘液に塗れた人間の裸体が現れた。その姿を見て、旅人は人生最大の幸福に満たされて、恍惚の表情を浮かべて唇を動かした。


 ——やっと会えた。


 破壊された声帯は、一音たりともこの世に波紋を残さなかったのだが、私には確かに、彼の最後の言葉が聞こえた。


 束の間、無音が訪れる。耳に痛いほどの静寂を破ったのは、生まれたばかりの青年だ。こと切れた旅人の枯れ木のような背中を無遠慮に踏みつけて、彼は言う。


「僕を育ててくれてありがとう、以前の僕」


 その横顔は、健康そうな血色を帯び、適度に肉付いているものの、旅人と全く同じ造形であった。





 その後、青年は親であり自分でもある旅人を食べた。


 さすがに見ていられず、私は階下へ行った。吐き気を覚えたが、これは彼らの世界では通常の命の営みなのだ。それを頭ごなしに気色悪いものとしてしまうのは、多種多様な世界の狭間で宿屋を営む者として、あってはならぬこと。


 辛うじて胃液を飲み込み、ことが終わった頃合いを見計らい、扉越しに青年に声をかけた。


「何か入用な物があればお申し付けください」


 少しだけ間を置いて、扉が開く。室内から金臭さを帯びた空気の塊が、私の顔面を打ったが、それだけだった。旅人が横たわっていたはずの布団には、肉片どころか、骨の一本すらも残っていない。唯一の痕跡は、生前旅人が吐血した紅だけである。


 第一に布団に目を向けた私は続いて、眼前の人物に視線を向ける。健康的な青年が、旅人が着ていた衣服に身を包み、柔和な笑みを浮かべて立っていた。


「ありがとうございます親父さん。ですが僕は、他の世界へ向かいます。大変お世話になりました」

「他の世界では、何を?」

「たくさんの素晴らしいものを摂取して、卵を育てるのですよ。ほら」


 彼は、巨大な卵を背負っても問題ないように大きく膨らんだ着物の背中部分を摘まみ上げた。滑らかな肌色の上に、親指の爪ほどの小さな灰色の卵がついていた。


「卵が癒着している」

「いいえ、違います。卵が癒着しているのではありません。僕が卵に癒着しているのです。僕の人生の全ては、この卵を育て、賢く優しく徳の高い立派な人間となり、命を繋いでいくためにあるのです」

「では、また世界中の素晴らしいものを食べに行くと」

「もちろんです」

「旅人……いえ、以前のあなたは、この狭間の宿場で多種多様の食材を簡単に手に入れることができると喜んでいましたよ。旅立たずとも、ここで卵を育てたら良いのでは」

「あの時のは間違っていました。人格を磨こうとしているのに、効率を重視し、苦労もなく食材を得るなど言語道断です」

「ですが彼は、あなたを育てるために懸命に」

「はい。当時の僕には感謝しています。そもそも、狭間で暴食することが怠惰の極みであると気づくことができたのも、当時の僕がたくさんの良質な栄養を摂取してくれたからです。そういう意味で、彼には感謝してもしきれません」


 彼は、あの瘦せこけた旅人当人であり、旅人から生まれ出た別の人物でもある。


 私には到底理解ができぬ原理であるのだが、彼の世界ではこれが通常のことなのだろう。





 朝靄立ち込める時分、すぐにでも出立すると告げた青年を軒先まで見送って、私は真心を込めて一礼した。


「長期のご滞在、誠にありがとうございました。最後に一つ、教えていただけますでしょうか」

「なんなりと」

「命を削り知見を広め素晴らしい人間となった先に、いったい何があるのでしょう。叶えたい夢があるのですか?」


 青年は聖像のように高潔な笑みを浮かべたまま、簡潔に述べた。


「以前の自分よりも、理想の自分になるのです。それ以外いったい何がありましょう」

「……どうかあなたが真理に辿りつき、立派な卵をお育てになりますよう祈っております」


 満ち足りた笑顔を浮かべる彼は、いたって標準的な人間だった。黒い髪と黒い瞳をした、よく日に焼けた若い男。


 彼であり彼ではない痩せこけた旅人が宿の戸を叩いた朝の光景が、脳裏に鮮烈に蘇る。今、朝日に照らされている青年の姿は、あの日とほとんど変わりない。異なるのは、眼前の青年の方が健康そうであるのと、背中に背負った卵が見えぬこと。


 しかし、私は知っている。その背中には小さいながらも灰色の卵があり、彼は卵に癒着している。


 これから彼は、世界を巡り、様々なものを摂取して、いつかまた巨大な卵を背負い、最後に食われて命を繋いでいく。目的はただ一つ。理想の自分に会うために。


 命を削り生死を繰り返す旅の終点に何があるのかわからぬが、それに私見を述べるのは私の流儀ではない。世界が違えば価値観は異なるのだから。





 世界と世界の狭間にあるこの宿場には、多種多様な者がやって来る。私は青年の背中を見送って、次なる客人を迎えるために、宿へと戻って行った。



〈完〉

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