八話
家事を終わらせてから私は罪人の家へ向かう。人影の少ない道を足早に進み、右手にある本を握り締める――今日は日曜で休日。ビクトールに言われた通り、独りで楽しめる本を持って来た。休みつつも、これで読み進められるだろう。この先には二巻が待ってるんだ。本土で話題になってるって言うし、もっと面白くなってるんだろうな……読むのが楽しみだ。でもその前にまずは一巻を楽しまなくちゃ。
「ヨハンナ、いらっしゃい」
中へ入ると居間にいたビクトールが出迎えた。いつもはおはようだけど、日曜は仕事じゃなく休みに来るからいらっしゃいなんだろう。私も笑顔で挨拶してから朝食作りに取り掛かる。
「……それは?」
食後、食器を片付け終えたビクトールは、私が持つ本を見て聞いてきた。
「家から持って来た本です。読んでる途中で……」
「私が言った通りに持って来たのか。じゃあ退屈せずに済みそうだね」
「はい。……あの、また裏庭にいても?」
「構わず好きにしてくれていいよ。私は二階にいるから」
そう言って階段に去る背中を見送って、私は早速裏庭へ向かう。
今日も晴れてはいるけど、空には雲が多く浮かんで、時折太陽を隠したりしてる。でも涼しい風が吹いてて読書するにはいい感じだ。私はベンチに腰かけ、栞を挟んだページを開いて読み始める。静かな環境で読む物語は、その世界に没頭できて頭にスルスルと内容が入ってくる。ベッドに疲れた身体を横たわらせて読む時とは大違いに面白さが染み込んでくる。やっぱり疲れた状態で読むべきじゃないな。
ページの半分を超えた辺りまで読み終えて、私はふと時間が気になって居間に戻った。棚の置き時計を見ると、針はもうすぐ午後十二時を示そうとしてた。三時間近く集中してたことに驚きつつ、私はひとまず本を閉じて昼食の準備に向かった。
「読書ははかどっている?」
食卓でちぎったパンを食べながらビクトールは食事を見守る私に聞いてきた。
「はい、おかげさまで。結構読み進められました」
「そうか。……ヨハンナは本が好きなのか?」
「えっと、本自体は、そんなに読んだことはないですけど、でも、お父さんが買って来てくれたこの本はすごく面白くて……」
「へえ、買ってもらった本なのか。それはいい出会いだね」
「ええ、本当に。本土には他にも面白い本がたくさんあるんでしょうね」
「私もあまり本は読むほうじゃないが、向こうでは新進気鋭の作家が毎年多く出ている。探せば君の好みの作家を見つけられるかもしれないな」
そんな他愛ないおしゃべりをしながら昼食が終わって、ビクトールは二階へ、私は再び裏庭のベンチに座って本の続きを読むことにした。
午前中より何だか薄暗く感じて頭上を見てみると、空を流れる雲の量が大分増えてた。そのせいで太陽はほとんど見えない。涼しかった風も少しひんやりする。曇ってきたな……でも雨が降る気配はまだない。家に帰るまで持ってくれるといいけど――天気の心配はひとまず横に置いて、私は物語の続きに目を落とした。後半に入った話は、終わりに向けて徐々に動き出し、主人公と周りの人間達がそれぞれの気持ちや思惑で複雑に絡み合っていく。その目が離せない展開に息を吐くのも忘れて読んでたけど、章が終わって一息入れたところで、私はふと眠気を覚えて瞬きする。休みを貰ってるとは言え、毎日朝は早いし、このぐらいの時間になるとどうしても眠くなってくる。だけど物語の続きは読みたい――私は眠気を払うように頭を軽く振ってページに目をやり、文章をたどる。でも一度現れた睡魔はそれを邪魔してくる。思考を止めて視界をぼやけさせ、文字を読めなくさせる。それにどうにかあらがおうとするけど、心地いい眠りの感触に身体から力が抜けていく。読みたいと眠りたいの闘いは、私の瞼が閉じたことで呆気なく眠りが勝ってしまい、ベンチにもたれかかったまま、私の意識は夢の中へ引きずり込まれて行った。
次に目を覚ましたのは、身体に寒さを感じた時だった。冷たい風が手足や顔に吹き付けてくる感覚に意識が引き戻される。また、眠ってた――そう思って目を開けると、目の前に誰かが立ってた。と言っても一人しかいないわけで、私は確認のため視線を上へ上げる。そこには開いた本を手にして読むビクトールの顔があった。あれは、私の本……何でそれを彼が……?
「……あ、起きてくれたか」
私の視線に気付いたビクトールは本をすぐに閉じると、微笑みを見せた。
「また気持ちよさそうに寝ていたよ。あ、これ」
そう言って本を差し出し、私はベンチに座り直してそれを受け取った。
「す、すみません……もしかして、落ちてたのを拾ってくれたんですか?」
「いや、そうじゃないんだが、君がどんな本を読んでいるのか、少し気になったものだから、つい……あ、別にそのために来たわけじゃない。今にも雨が降りそうな空だったから、君の様子を見に来たんだ。そうしたらここで寝ていたものだから起こしてやろうとした時に、その本が目に入って――」
ポツ、と手の甲に何かが当たって私は見る。砕けた透明の水がそこにはあった。雨だ――そう気付いた直後、雨粒は頭や頬に当たり、そして次には堰を切ったようにザーザーと降り始めた。
「中へ入ろう。早く」
ビクトールに背中を押され、私は慌てて部屋に入った。
「危なかったな。目を覚ましていなかったら、君はベンチでずぶ濡れだったよ」
本当にその通りだ。本も濡れて大変なことになってたかもしれない。
「ありがとうございます。起こしてくれて」
「いや、私は本を勝手に読んでいただけだ……しかし、ずぶ濡れは免れたが、それでも少し濡れてしまったな」
そう言うとビクトールは居間を出て行き、タオルを手に戻って来た。
「濡れたままじゃ風邪をひく。これで拭いてくれ」
「あ、ありがとうございます」
渡されたタオルで濡れた髪や服を拭いていく。雨のせいか、周りの空気も冷たいものに入れ替わったようで肌寒い。何かで温まったほうがいいかな……。
「……そうだ。紅茶を入れてくるんで、待っててください」
タオルと本を置いて、私は台所でお湯を沸かして紅茶を作る。そしてティーポットとティーカップを持って居間に戻った。
「紅茶は作り慣れてないんで、美味しいかわからないんですけど……」
机に置いたティーカップに注ぐと、上品な赤色のお茶が湯気を立たせる。それをビクトールに差し出すと、その香りを嗅いでから一口飲む。
「……本当に慣れていないのか? 十分美味しい紅茶だ」
「よ、よかった……安心しました。もっと飲みたかったら言ってくださいね」
「ヨハンナは飲まないのか?」
「これは、私のためのものじゃないので……」
「またそれを言うのか? 紅茶の一杯ぐらい、飲んでも構わないさ。君も温まったほうがいい」
するとビクトールは台所から同じティーカップを持って来て、そこに紅茶を注いで私に渡した。
「抵抗感があるなら、自分で入れた紅茶の味を確かめるつもりで飲めばいい」
さあ、と強く言われて、紅茶を押し返せなかった私は、迷いつつも受け取ってカップに口を付けた。ほろ苦くも後から甘さを感じて、癒される香りと一緒に身体を温かな熱が包み込む――
「……自分で言うのも何ですけど、美味しい、ですね」
「ヨハンナが作ってくれるものは全部美味しい。だから自信を持っていい」
ニコリと笑ってビクトールは紅茶をすする。こうはっきり言われると、何だか恥ずかしいけど、嬉しい――顔が熱くなって、赤くなってるんじゃないかと思った私は、それを隠そうと別の話を探して、机に置いた本を見つけた。
「……と、ところで、この本、読んでみてどうでしたか?」
「ああ、冒頭の数行だけ読んだが、それだけでも興味を湧かせるような、読み手をワクワクさせる面白さを感じたよ」
「そうですか! やっぱり皆、面白いって感じるんですね」
「題名を見て思い出したが、これは私が本土にいた当時、友人の読書家達が話していた本だと思う。ページをめくる手が止まらないとか、興奮気味に語っていたな」
「人気がある本みたいで、続編も出てて……実はそれ、お父さんに貰ってもう持ってるんです。今から読むのが楽しみで」
「続編が出るとは、相当人気のある本なんだな。そんなことを聞くと私も俄然、興味を覚えてしまうな」
「興味が? それじゃあ、これ、読み終えたら貸しましょうか?」
「え? いいのか?」
「もちろん。本は読みたい人に読んでもらわないと。でも、全部読むまで、もう少しかかっちゃうかもしれないけど……」
「私は急かすつもりはない。貸してくれるのはいつだっていいよ。だから気にせず、いつも通りに読み進めてくれ」
「はい。その時はすぐに伝えます。きっと夢中になれますよ」
そうして本を貸す約束をした後、私は少し早かったけど夕食の準備を始めた。雨の勢いは衰えず、料理の最中も雨音は途切れず部屋に響いてた。でも皿を食卓に運ぶ時には弱まり、ビクトールが食べ終わる頃にはほとんどやんでしまった。さっきまでの土砂降りが嘘のように辺りは普段の静けさを取り戻してた。
「雨がやんでよかった。濡れずに帰れそうだね」
暗くなった窓の外を眺めながらビクトールが言った。雨がやまなきゃ走って帰るのを覚悟してたけど、ちょうどいい時間にやんでくれて本当によかった。
「あれだけ降れば道がぬかるんでるかもしれない。気を付けて帰るんだよ」
「はい、そうします。じゃあまた明日に」
挨拶して私は外へ出る。そこに立ってる門番は雨合羽を着て寒そうにしながらご苦労さんと声をかけてきた。フードをかぶってはいるけど、顔は濡れてしまってる。あの雨の中ずっと立ってたと思うと、その大変さに自然とお疲れ様ですと言葉が出た。……雨は上がったけどまだ寒い。早く家で温まろう。
ビクトールが言ったように、帰る道はどこもぬかるんで、あちこちに水溜まりができてた。柔らかくなった地面を踏むと、ヌチャっと嫌な感触がする。だからできるだけ水の溜まってない箇所を通ろうと足下だけを見ながら歩いてた時だった。
「あ……」
前からの気配と声に顔を上げると、そこには三人の人物が立ってた。綺麗な正装をした四十代ぐらいの女性と男性、そしてその後ろにいるアンジェリカ――私は息が止まる心地で三人を見つめた。
「どうしたのアンジェリカ、あなたのお友達?」
「う、ん……」
女性に聞かれてアンジェリカは気まずそうに頷く――多分この二人は彼女の両親だろう。狐のような目や輪郭がよく似てる。親の前だとこんなに大人しい態度を取るんだ……。
「もしかして、学校での同級生かな?」
口ひげを生やした父親が笑顔で私に聞いてきた。
「あ……は、はい……」
「娘はどう? わがままな振る舞いはしてないかしら」
今度は母親が聞いてくる。この質問に私はちらとアンジェリカを見た。赤い前髪の下からは刃物のような視線が向けられる。その無言の脅しに恐怖を感じた私は笑みを作って答えた。
「そんなこと、ありません。学校を卒業してからも、とても、よく、してもらってます……」
「そう、安心したわ。卒業以来、お友達を連れて来ることがなくなって、笑顔も少なくなったと感じてたのよ。でも仲良くしてくれるお友達がいてくれてよかったわ。これからも暇を見てはアンジェリカと遊んであげてね」
笑顔の母親に私は笑顔だけを返した。嘘でも〝はい〟なんて言いたくない……。
「では失礼するよ。……アンジェリカ、お友達に挨拶ぐらいしなさい」
父親に言われたアンジェリカは不服そうな顔でこっちを見ると、小さな声で言った。
「……じゃあね」
「何なの、その適当な挨拶は。礼儀正しく、もっと大きな声で言いなさい。聞こえないでしょう」
母親に注意されて、アンジェリカは表情を曇らせたまま言う。
「……おやすみなさい。また、遊んでね」
元気な口調とは裏腹に、アンジェリカの顔の端々には不本意な気持ちが滲み出てた。でも両親はそこまでは気付いてない。
「親しき仲にも礼儀ありだ。忘れるな。……では」
父親は私に軽く会釈してから歩き出すと、二人はそれに付いて行く。三人が立ち去るのを息をひそめるように待ってると、横を通り過ぎようとしたアンジェリカが一瞬足を止めて小声で言ってきた。
「こんなことで、いい気にならないでよね」
不意に肩を小突かれて私はよろめいた。足下のぬかるみで滑りそうになって咄嗟に手を振った瞬間、その手から持ってた本が抜けて、側の小さな水溜まりにバシャンと落ちてしまった。私は慌てて拾い上げるも、表紙は泥水にまみれ、中の数ページも茶色い水を吸って汚れてしまった。まだ読んでる本なのに――私は小突いたアンジェリカを見た。彼女は睨むように私をいちべつすると、足早に両親の後を追って去った。私の持ち物を汚さないと、彼女は気が済まないんだろうか。謝る気なんてなく、私を見ればいじめて……両親は初めて見たけど、娘ほど意地悪な印象はなかった。むしろしっかりした親に思えた。注意もして礼儀にも厳しそうだった。それなのにどうして娘はあんなにねじ曲がってるんだろう……。
「……運が、なかったな」
いつもは会わない時間にアンジェリカと遭遇して、さらに水溜まりに本を落とすなんて、運がなかったと思うしかない。溜息を吐きつつ、泥水で汚れた本を抱えて、私はぬかるむ家路を急いだ。
家に入ると、食卓に着くその前に本の汚れを落とさなきゃと、私は台所で濡らした布巾で汚れを拭き取ろうと試みた。でも泥汚れは上手く取れず、拭くほど染み込んだり広がったりするだけだった。
「ヨハンナ、夕食食べないのか?」
居間からお父さんが聞いてくる。
「こっちの用が済んだら、食べるから……」
そう答えて手元の本を見下ろす。これ以上拭いても、もっと汚すだけだ。文字のインクも滲んじゃう。それでも一つ救いなのは、泥水が染み込んだのはすでに読んだ前半のページだけってことだ。後半部分は一応問題なく読めそうだった。ただ大きな問題は、読み終えたらこれをビクトールに貸す約束をしてることだ。
「……これじゃ、貸せないよ」
どうしたらいいのか、何も思い付かないまま、私は途方に暮れるしかなかった。
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