七話
晴れた空の下、洗濯物を干し終えて居間に戻ると、そこには珍しくお母さんがいて、椅子に座って、コップを片手にくつろいでた。私の気配にすぐ気が付くと、身体をよじって半分しか開いてない目を向けてきた。
「ヨハンナ? 何でまだいるの?」
向こうから話しかけてくるなんて……機嫌、少しは直ったのかな。
「今日は、日曜だから……」
「世話係は毎日のはずでしょ?」
「そうだけど、これからは日曜だけ、休めることになったの」
お母さんは怪訝な顔を浮かべる。
「どうして? 担当の役人にそう言われたの?」
「違う……世話してる、罪人の彼が、休んでもいいって言ってくれて……」
そう言うとお母さんは急に表情を険しくして立ち上がり、私に詰め寄って来た。
「罪人に言われたって、どういうことよ。それであなたは言う通りに休んでるの?」
目の前でしゃべるお母さんの息は少しお酒臭い……あのコップの中身はお酒なのかもしれない。
「さ、最近、私が疲れてるみたいだからって、休んだほうが、いいって……」
「それを真に受けたってこと?」
睨んでくるお母さんを見られず、私はうつむいて答える。
「疲れは、自分でも感じてたから、休んでも、いいかと――」
その時、私は顎をつかまれて、強引に顔を上げさせられた。引きつる私の顔をお母さんはまじまじと見つめる。
「……両目はしっかり見てるし、顔色もいいわ。これのどこが疲れてるのよ」
投げ捨てるように顎から手を離したお母さんは、コップの中身をあおってから言う。
「疲れてるっていうのは、こういう顔のことを言うのよ。何か飲んでなきゃ目も開けてられないようなね」
お母さんは自分を指差しながら私をねめつける。
「……休むなんて許さないわよ」
「でも、休んでいいって――」
お母さんは私の肩を握るようにつかんだ。
「相手は罪人よ? そんな優しいこと言って、裏じゃ何かたくらんでるに決まってるじゃない。何騙されてるのよ」
「あの人は、そんなこと……」
「目を覚ましなさい! きっとヨハンナが邪魔だから、そういうことを言ったのよ」
「邪魔……? 何で……」
「あそこから逃亡するためよ。ヨハンナが毎日側にいたら、逃げ出す隙がないじゃない。だから休みを与えて、逃亡する時を狙ってるに違いないわ」
毎日側にいると言っても、私が家事をしてる時、ビクトールは大体二階にいるし、常に姿を見て監視してるわけでもない。本当に逃亡をたくらんでるなら、私が買い物に行ってる間にもできるわけで、わざわざ休日を与えるまでもないような……。
「たとえ私がいなくなっても、外には門番がいつも――」
「門番なんて同じ場所に突っ立ってるだけでしょ? でもあなたは罪人のすぐ側で仕事をしてるわ。逃亡するのに一番目障りな存在よ。そんなあなたが休んだら大変なことになるでしょ」
大変なことって、大げさな……。
「あの人は逃亡なんて考えて――」
「何を言ってるの? あなたは私より、罪人の言葉を信じるっていうの?」
疑う強い視線が私に問うてくる――わからないとは、答えられない。
「……ま、まさか。そんなわけ、ない」
「それなら罪人の言うことなんか無視して、休まず行きなさい。世話係でも、罪人の悪いたくらみは止めないと。じゃないと私達が迷惑するんだから」
「そう、だね……うん、わかった……」
「行くならさっさと行きなさい」
そう言ってお母さんはまた椅子に座ると、気だるそうに片肘を付いてコップに口を付ける。……お酒のこと、お父さんからまだ注意されてないのかな。
「……ねえ、お母さん」
「何?」
「お父さんとは、何か話した?」
これに明らかに不快感を見せたお母さんは、横目でギロリとこっちを見た。
「何かって、何を?」
「その、お酒の、こととか……」
「……話してないけど、それが?」
少し迷いつつも、私は代わりに言うことにした。
「いつも飲んでるみたいだから、ちょっと、飲み過ぎなんじゃないかなって……酒場でも、飲んでるって聞いたから、私、心配で……」
「それだけ?」
「う、うん……」
お母さんは仰ぐようにコップの中身を飲み干すと、空になったそれを机にポイッと放る。
「子供のあなたにお酒のことなんか関係ないでしょ」
「そんなことないよ。飲み過ぎたら、お母さんの身体が悪くなっちゃうし……」
「私の身体なんだからいいじゃない」
「よくない。お母さんは、大事な家族だから――」
バンッと机を力任せに叩いた音が、私の言葉をさえぎった。
「うるさい! そんな嘘、聞きたくないのよ!」
息を呑んで固まる私を、お母さんは鋭く睨み付けてくる。
「ごちゃごちゃ話す時間があるなら、早く罪人の世話に行きなさいよ! ほら!」
怒鳴りながら今にもつかみかかって来そうな迫力と恐怖に私は目を瞑り、追い立てられるように家を出た。
「……やっぱり、言わなきゃよかった」
家に振り返り、お母さんをまた怒らせた後悔をしつつ、私は仕方なく歩き出す。日曜だから辺りは人影がまばらだ。仕事が休みで皆、家でゆっくり過ごしてるんだろう。私もそうするつもりだったのに……。ビクトールには何て言ったらいいのか。私が今日来るなんて思ってないだろうし。でも行かずに休んだことがばれたら、お母さんをもっと怒らせるかもしれないし――他に行き場もなく、叱られることを恐れた私は、言い訳をする覚悟で罪人の家へ向かった。
「……おはよう、ございます」
そっと居間に入るが、ビクトールの姿はない。この時間、いつもなら朝食を食べ終えた頃かな――そう思いながら何気なく台所を見やって、私は目を見張った。
こっちに背を向ける見慣れた後ろ姿が、調理台の前に立って何やら作業をしてる。台所にはトン、トン、と不規則に、かつ慎重に何かを刻む音が響いてる。……本当に自分で料理をしてるんだ。普段は見ないその光景は何だか違和感を覚えてしまう。
私は静かに近付いて、後ろから作業の様子をのぞき見てみる。ビクトールがやってたのはラディッシュの皮剥きのようで、包丁の使い方がわからないせいか、皮だけを剥くんじゃなく、まな板に置いて表面を削るようにして切ってた。そのせいで皮は分厚く、ラディッシュの食べる部分はどんどん小さくなっていく。これは、ちょっと、見てられない……。
「そんなやり方じゃもったいないですよ」
たまらず声をかけると、ビクトールは驚いて振り向いた。
「……ヨハンナ? どうして君が……休むんじゃなかったのか?」
「そのつもりだったんですけど、その、お母さんに、行けって言われて……来ちゃいました」
「休みだと言わなかったのか?」
「言ったんですけど……お母さんは、邪魔だから、休ませたんだって……」
「邪魔? 君のことが? なぜそんなことを」
「あなたが……逃亡を、たくらんでるかもって、疑ったみたいで……」
そう言うとビクトールは呆気にとられた顔で瞬きをする。
「ご、ごめんなさい。私はそんなこと思ってないんですけど、お母さんはあなたを知らないから、信じられないみたいで……」
「そうか……そうかもしれないね」
ビクトールは自嘲するように笑う。
「謝ることなどないよ。私は罪人で、傍から見れば、ヨハンナを休ませたのは厄介払いのためで、何かたくらんでいると思われても不思議じゃないし、怪しまれるのも当然だ。そこまで考えが至らなかったこちらが悪かった」
「いえ、あなたは何も、悪くないです……むしろ、気遣ってくれたことは嬉しかったし、お礼を言いたいぐらいです」
「礼を言われることじゃない。君は現に疲れていて、あの娘は避けなければいけないんだ。母親に何と言われようと休んでもらいたいが、罪人の私を疑う気持ちもよくわかる。心休まる我が家で休めないとはな……」
ビクトールは宙を見つめて考え込む。
「……あの、大丈夫ですから。アンジェリカには会わないよう注意して歩くし、休まず、日曜も来ます。そのほうが逆に落ち着くと――」
「家で休めないなら、ここで休んでもらうしかないか……」
「え……?」
微笑むビクトールはこっちを見る。
「ヨハンナには休日が必要なんだ。だから君さえよければ、日曜もここに来てもらって、ここで休む、というのはどうだろう。それなら母親に休んでいるとは思われないはずだ」
「ここでって……でも、ここはあなたの家で……」
「日曜だけは君の憩いの場にもなる。だから私のことは気にしなくていいし、もちろん世話もしなくていい。私は君に構わず、できるだけ離れて過ごすから、君も独りの時間と空間の中で自由に過ごせばいい」
私が他に行き場がないのを察したのか、ビクトールは笑顔で提案する。嬉しいには嬉しい話だけど――
「私にとって、ここは仕事場で……何も気にしないで、休めるかどうか……」
「そこは努力してもうしかないな。仕事のことは一旦忘れて、好きなようにやってくれ」
好きなように――私は分厚い皮が散らばる調理台の上を見やる。
「……じゃあ、一つ、お願いが……」
「何だ?」
「料理は、私にやらせてください。あなたのを見てると、どうも歯がゆくて……あ、べ、別に、悪口じゃなくて、何て言うか、えっと……」
正しい言葉を探してると、ビクトールは小さく笑い声を漏らした。
「ふふっ、こちらとしても、ありがたいお願いだ。実は私も、このラディッシュの始末をどうしようかと思っていてね。料理なんて簡単にできるものだと考えていたが、まさか自分がここまでできないとはね。我ながら情けないが、意地を張って続ければ、多分食事を始めるのは日が暮れる頃になってしまうだろう。だから……料理だけ、君に頼んでもいいだろうか」
料理に降参して照れ笑いを見せる彼に、私は笑って言った。
「はい。ぜひ! それじゃあ早速――」
私は水で手を洗ってから包丁を握り、でこぼこになったラディッシュの皮剥きを始めた。
「やはり私はヨハンナに世話をしてもらわないと駄目みたいだな……だが料理だけだ。日曜は他の世話はせず、しっかり休んでくれ」
「わかってます。これを終えたら、ちゃんと休みますから」
皮を剥きつつ、昨日買っておいた食材を眺めて作る料理を考える。朝食にしては遅い時間だし、昼食に合わせたもののほうがいいかな――そうして具だくさんの野菜スープと魚介のムニエルを作り、食卓へ運んだ。ビクトールは美味しそうに食べてくれて、ありがとうとお礼まで言ってくれた。私はそれだけで幸せな気分になれた。
午後は言う通り、私は家事も何もしないで休むことにした……けど、他人の家だとやっぱり落ち着かない。しかも仕事場だし、どうしてもその意識が働いてしまう。床や棚の隅に埃が見えると、ついつい拭かなきゃと手が動きそうになるけど、そこはグッとこらえて目をそらす。今日は休日なんだから、仕事はしなくていい……でもやっぱり、見ちゃうとやりたくなるな……。
「くつろいでいるか?」
二階から下りてきたビクトールが居間をうろついてた私に笑顔で話しかけてきた。
「は、はい。休めて、ます……何か用ですか?」
「水を取りに来ただけだ」
「じゃあ私が――」
台所へ行こうとすると、ビクトールは片手を上げて制する。
「私の世話はいい。もう忘れたのか?」
「あ、そうだった……いつもの、感覚で……」
「真面目過ぎるのも困ったものだな。私も、あまり声をかけてはいけないな」
ビクトールは台所へ行き、水がめからコップに水を注ぐと戻って来る。
「……次の日曜は、何か独りで楽しめるものでも持って来たらどうかな」
「楽しめる……?」
「たとえば、絵を描くとか、裁縫で小物を作るとか……ああ、好きな本を読んだっていい。そういうことでも心は休まるだろ?」
「ええ……そうかもしれませんね」
「ぼーっと休んでもいいが、それだけじゃ暇そうだからね。次はそうしてみたらいい」
ニコリと笑みを残してビクトールは二階へ戻って行った。……独りで、楽しめるものか。確かに、椅子に座ってじっと休んでても、部屋の埃や汚ればっかりを探しちゃって、仕事のことが頭から抜けてくれない。でも何か集中して楽しむものがあれば、周りに意識は向かなくなるかも……そう言えば、それにちょうどいい本を私、持ってる。子守唄代わりになって全然読み進めてなかったけど、この時間に読めば眠気に邪魔されることなく、しっかり楽しんで読めるだろう。よし、来週はあの本を持って来よう。でもとりあえず今は、仕事のことを忘れて休まないと。せっかくの休日、落ち着かないまま終わらせたくない。
部屋にいるとどうしても掃除をしたくなるから、私は裏庭に出て爽やかな空気を思い切り吸った。そしてポツンと置かれたベンチに腰かけ、晴れた空を見上げる。静かな空間。街の喧騒も聞こえてこない。時々海鳥の声と、その影が通り過ぎるだけだ。最近、こんなふうに過ごしたことなんてなかったな。家でもここでも毎日洗濯、掃除、料理。少し休めても、頭はやり残しはないかって常に考えてる。道に出ればアンジェリカがいないか捜すし、家に帰ればお母さんの気配を捜す。自分のための時間なんてほとんどなかった。
『毎日だからこそ、自分の時間も持ってほしい。でないと、この先が持たないだろ』
前にビクトールに言われた言葉を、ふと思い出した。その時、妙に嬉しかったのを覚えてる。それは多分、私の気持ちを言ってくれたと感じたからだろう。私はこんな、のんびりする時間が欲しかったんだ。それをまさか罪人の彼が作ってくれるとは思いもしてなかったけど。
「気持ち、いいな……」
私は両腕を上げて全身を伸ばすと、次には力を抜いて目を瞑る。降り注ぐ光は瞼を通り抜けて暗いはずの視界を明るく輝かせる。ここレタン島の太陽は一年中暖かい。そんなポカポカした光は心も身体も心地よく温めて、私を休ませてくれる――
「――ンナ、ヨハンナ」
呼ぶ声と肩を揺らされる感覚に、私はうっすら目を開けた。
「もう夕方だ。ここで寝ると風邪をひいてしまうよ」
ぼやけた視界がはっきりすると、目の前には困り顔を浮かべたビクトールがいて、私は途端に目を覚ました。
「……はっ! あの、ご、ごめんなさい! 私――」
「慌てなくていい。起きたばかりだ」
そう言われて私は気付く。
「その、私、ここで……寝ちゃって……?」
「ああ。よく寝ていたよ。起こすのをためらうぐらいね」
ビクトールは笑う。……寝顔をさらすなんて、恥ずかし過ぎる。
「い、いびきとか、かいてませんでしたか? あと寝言とか……」
「静かに寝ていたから大丈夫だよ。そのせいで君がここで寝ていると気付くのに遅れたんだが」
苦笑するビクトールの奥を見れば、青かった空は朱色に染まり、その朱くも黒い影が街並みを覆うとしてる。
「もう、こんな時間に……そうだ! 夕食を作らなきゃ――」
私はベンチから立ち上がって部屋に入ろうとした。
「もし疲れているなら帰ってもいい。この時間なら帰っても問題は――」
「夕食を作らないで帰るなんて、できません」
「だが、かなりぐっすり寝ていた。それだけ疲れが――」
「休みでも、料理だけはしたいっていうお願いをしたの、忘れたんですか?」
あ、と口を開けると、ビクトールは金の頭をポリポリとかく。
「そうだったな……だが、疲れているのに無理に作ることは――」
「一眠りして疲れは取れましたから。すぐに作るんで、しばらく待っててください」
裏庭から台所へ移動して、私は残った食材で夕食作りを始めた。手伝おうかと言うビクトールに居間へ戻ってもらい、デザート付きの三品を食卓に運んだ。それを美味しいと言って食べてくれる姿を見守ってから私は帰路についた。ベンチで休めたせいか、帰る足がやけに軽く感じた。それに心も何となく軽い。日曜でもアンジェリカに会わずに済んだからかな。それともビクトールの笑顔をたくさん見られたからか……その両方かもしれない。とにかく、こんな気分で帰れるのは初めてだ。すれ違う人がいなければスキップでもしちゃいそう――そんな余韻を引きずって帰宅した私だけど、家でも嬉しいことがあった。
それは夕食の時、部屋から出て来ないお母さんはそのままに、お父さんが作った料理を二人で食べてる時だった。
「……そうだヨハンナ、これ」
思い出したように言ったお父さんは、傍らのかばんの中から一冊の真新しい本を取り出して私に差し出した。
「前に買ってやった本の続編が出たって聞いたから、買って来たぞ」
本を受け取り、私はその表紙を見つめる。
「……すごい! 『不可思議な彼ら』の二巻!」
今読んでる本がずばりこの一巻で、お父さんが以前、本土で人気らしいと聞いて買ってくれたものなんだけど、その続編が出てるなんて知らなかった。
「それも本土じゃ話題になるほど売れてるらしい」
「そんな人気の本、よく買えたね。島に入って来る数なんて少ないでしょ?」
「こういう時、海運業をやってると得するんだ。仕入れ先に頼んで一冊売ってもらった。……前の本はもう読み終えたのか?」
「ううん、まだ……でも読む時間が作れそうだから、早く読み終えて二巻もすぐ読みたい。……ありがとう、お父さん!」
「喜んでくれてよかった。ヨハンナには頼りっぱなしだから、たまにはお礼もしないとな」
嬉しそうに言ってお父さんは食事を続ける。子守唄代わりになってた本だけど、読み進まなかったのは私がただ疲れてただけで、話の内容は面白いとはっきり言える。そんな本の続編が手に入ってしまったら、早く一巻を読み終えないわけには行かない。来週の日曜、持って行ってしっかり読まなきゃ――ワクワクしながら私は本の表紙を見つめて一撫でした。
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