十六話

「じゃあ、行って来る」


「うん。行ってらっしゃい」


 仕事へ行くお父さんを見送ってから家事に取りかかる。まずは洗濯をして、その次に掃除。それを終えたら買い物に行って昼食作り。いつも通りに過ごす。前と変わらない日々……いや、それは周りだけで、私にしてみれば大きく変わってしまったんだ。良くも悪くも……。


 あの日から二ヶ月が経とうとしてる。暴行を受けたお父さんは、今じゃすっかり怪我も治ってる。少し痣は残ってるけど、毎日元気に仕事ができてる。その暴行を指示したお母さん……エルサは、あの後、海岸の岩場に隠れてるのが見つかり、捕まった。聞いたところじゃ、罪を認めず、取り調べにも応じようとしてないらしく、その反抗的な態度から本土で裁かれることが決まったという。だから近々連れて行かれるようだ。あの人はもともと本土の人間だし、本土で裁かれるのは当然とも言える。強い思い込みで反省の態度もない彼女だ。きっと重い罰を受けるだろう。お父さんは一緒にいてやれなかった自分にも非はあると自省してたけど、自分を殺そうとした人間とさすがに夫婦じゃいられなかったみたいで、エルサとは離婚した。また父子に戻って、家の中は静けさが増したけど、心の平和は取り戻せた。これで一安心だ。


 そうして解決したこともあれば、私の中で納得してないこともある。彼――ビクトールの死に関しての結果だ。この島で殺人事件が起きるなんて、何十年ぶりのことらしくて、捜査には大勢の人が駆り出された。にも関わらず、彼を殺した犯人は、エルサと一緒にいた長髪の男と断定され、事件は無理矢理解決されてしまった。私は当事者として聴取を受けたし、あの黒尽くめの人物のことも話した。でも捜査員は現場の状況や凶器、傷口などから、ナイフを握って死んでた長髪の男の仕業と決め付け、私の話は信じようとしてくれなかった。


 そこでふと思い出したのが、黒尽くめの人物が去る前にした行動……長髪の男にナイフを握らせたのはあいつだ。あいつは自分の存在を消すために偽装工作をしたんだ。その思惑通り、捜査側はこれを仲間割れに巻き込まれた殺人として処理した。まず男二人が仲間割れを起こし、刺青の男が刺される。そこへビクトールが現れ、犯行を見られた長髪の男が襲う。でも逆に刺されてしまい、男は動揺するビクトールからナイフを奪って反撃した。その後自分も力尽きて命を失った――そういう見解だった。だけどこれはあまりに都合がよすぎるし、矛盾もある。そもそも仲間割れを起こした時点で長髪の男はナイフを持ってなかったはずで、仲間を刺すことなんてできない。それにビクトールと私は一緒にいたんだ。それなのに私のことをまったく無視してる。他にも細かいことを言えば切りがないけど、凶器のナイフは長髪の男のものだと裏付けが取れてるとかで、捜査員は頑として私の話を聞いてくれなかった。いや、聞く気がなかったのかもしれない。被害者は島の不良と流刑にされた罪人。そんな人間のために丁寧な捜査なんか、はなからする気がなかったんだろう。さらに言えば、ビクトールは街へ出た時点で、殺されても文句は言えない立場になる。決まりを破り、自業自得の死だと思ってるのかもしれない。だから労力をかける必要はないと……。


 少し時間が経って、あの時よりも大分冷静に考えられるようになって、本当の犯人を捕まえず、捜そうともしてない、いい加減な捜査員には今も腹が立ってる。でも、一番腹が立ってるのは私に対してだ。ビクトールを罪人の家から出すべきじゃなかった。決まりを破らせることもだけど、私は彼が命を狙われてたことを知ってた。それなのに無防備なまま、私の勝手な頼みで連れ出して……あんな、取り返しのつかない結果に……。彼はお父さんを助けてくれた恩人だ。でもお礼の言葉すら伝えられない。伝えなきゃいけないのに、私の、せいで――猛烈な後悔が心を押し潰そうとする。だけどこれでいいんだ。私は後悔し続けて、この先も苦しみ続ける。それだけのことをしてしまったんだから。これが、彼に対してできる謝罪……私は、彼に謝り続けるべきなんだ――出来上がった昼食を居間で独り食べる。失敗してないはずなのに、何だか美味しくない。最近は食事をしても、味気なく感じるばかりだ。


 そんな日々を送ってたある日の午後。取り込んだ洗濯物をクローゼットにしまい終えた時、玄関扉を叩く音が聞こえて私は向かった。


「はあい、どなたですか?」


 開ける前に確認すると、向こうから男性の声が返ってきた。


「ここに、ヨハンナさんがいると聞いたんですが……」


 聞き覚えのない声……私に用があるの?


「あの、何のご用ですか?」


「お話がありまして……ビクトール・アルフレッド・リュヒナーに関して」


 声に出されて久しぶりに聞くその名前に、私の心臓は小さく跳ねた。


「……ど、どういう、ことですか?」


「それをお話ししたいんです。とりあえず開けていただきたい」


 もういない彼のことを、何で今……少し怪しい気もするし、開けるのは……でも、名前を聞いた以上、気にはなる……どうしよう。


「失礼ですが、もしかしてあなたがヨハンナさん?」


「そう、ですけど……」


「よかった。ビクターの世話をしてくれていたそうですね。彼は感謝していた」


 明るく、やけに親しげに言う声に、私は一気に興味を引かれた。この人はビクトールと顔見知りなの? でも罪人の家には私と門番以外には誰も訪れてなかったけど――途端に気になり出した気持ちは、私にゆっくりと扉を開けさせた。


「……初めまして。ヨハンナさん」


 そこに立ってたのは、いかにも家柄がよさそうな身なりをした若い男性だった。艶のある茶色の短髪に角ばった顔立ち、幅のある引き締まった身体からは精悍な印象を受ける。


「私はレオンハルド・シェーンバイン。ビクターとは長年の友人でした」


 友人と聞いて納得した。どうりで島じゃ見ない立派な服を着てるわけだ。


「じゃあ、わざわざ本土から? 何のご用で……」


「ここに来たのは、ビクターの亡骸を本土へ運ぶためです」


「え? でも、彼は流刑になって、二度と本土へは……」


 たとえ遺体になっても許されない罪だから、帰ることはできないって聞いてたけど……。


「ビクターとそのご両親が冤罪だったと、最近になって証明されたんです」


「……え?」


 私は愕然としてレオンハルドさんを見つめた。


「証明された以上は一族の墓に埋葬してやるべきだと――」


「待ってください! 冤罪が証明されたって、ど、どういうことなんですか?」


「……もしかして、ヨハンナさんはこの話を、ビクターから聞いて?」


「はい。宰相にご両親を殺されたって……悔しそうに話してくれました。全部、濡れ衣で、裏切ったのは宰相だって……」


「そうですか……まさにその通りで、ビクターもご両親も嘘は言っていなかったんです。けれど宰相のオクスは城内で大きな権限を持っている。だから周囲はやつの主張に従う者がほとんどだった。だが全員ではなかったんです。やつの裏の顔を知り、反発する者もいた……私も、その一人です」


 レオンハルドさんは肩をすくめ、ニコッと笑う。


「あなたも、貴族……?」


「いや、私は中流階級の出で、今は王国軍に属している軍人です。ビクターとは警備のためにいた夜会で偶然言葉を交わしてから意気投合して、それから付き合いが始まったんです。彼もそうだが、ご両親も、とても気さくで優しい人柄だった。権力や金に執着したり、野心を抱くような人達には見えなかった。だから罪に問われたと聞いた時はまったく信じることができなかった……そういう、私と同じ気持ちの者と一緒に、オクスにばれないよう、水面下で私達は冤罪の証拠集めをしていたんです」


「あなたが助けようとしてたこと……彼は、知ってたんですか?」


「有志で証拠集めをしていることは知っていました。けれどビクターは、お前達の身が危なくなるからと何度もやめるように言ってきました。自分のことなどいいからと……あいつらしい優しさです。流刑にされた後、私が出した手紙に返信してこなかったのも、おそらくわざとでしょう。もう関わっては駄目だと、暗に言っていたんだと思います」


 言ってレオンハルドさんは苦笑いを浮かべる――私はそんな彼に手紙が届いた在りし日のことを思い出した。差し出し人は確か友人だと言ってた気がする。返信の手紙をすぐに書いて私に届けるよう頼んだけど、水に濡れて台無しに……。でもビクトールは書き直さずに、やっぱり出すのはやめると言った。相手の迷惑になるからと……あれはきっと、レオンハルドさん宛てだったんだ。迷惑になるっていうのもただの迷惑じゃない。命に関わる迷惑だから、手紙を送りたくても、送るわけには行かなかったんだろう……。


「あなたの思ってる通りだと思います。彼は、自分のことより、周りの人の心配をしちゃう人だったから……」


「私達がもう少し早く証拠を集め切っていれば、オクスの処刑や、本土へ帰れることを報告できたのに……それだけが悔やまれる」


 私は全身から力が抜ける気分だった。ビクトールは罪人の家から出ることができたんだ。あと二ヶ月待ってさえいれば……それなのに、私が助けを求めたりしたから、彼は自由になれたはずの命を……!


「……あの、どうかされましたか?」


「私のせいなんです……彼が、命を奪われたのは……」


「役所の担当者から聞いています。ビクターが外へ出たのは、あなたのお父上を助けるためだったとか」


「家族の問題で、お父さんの身が危なくて……頼れる人が彼しかいなかったんです。だから……私が、連れ出してしまったんです。決まりを破らせて……」


 自分のしでかした、あまりに大きな過ちを突き付けられて、指先が小刻みに震える。


「ごめんなさい……謝っても、済まされないけど、彼を死なせたのは……私でも、あるんです……ごめんなさい……」


 消えない後悔と悲しみが、涙になって溢れてくる。私は、死んだ彼にこんなことしかできない……。


「あなたが連れ出したと言うが、ビクターは家を出ることに前向きだったのでは?」


「……?」


 私が顔を上げて見ると、レオンハルドさんは微笑を浮かべた。


「困っている人を見たら助けてやりたい……あいつはそういうやつです。それがあなたなら尚更のことだったに違いない」


「なぜ、ですか?」


 首をかしげて聞くと、微笑は笑顔に変わった。


「ヨハンナさん、あなたに会いに来たのは冤罪が晴れたのを伝えるためだけじゃないんです。彼の……ビクターの心の内を知ってもらいたいからです」


「気持ち、ってことですか……? でも、彼はもう――」


「私は亡骸の他に、私物の回収も任されていまして、先ほどまで罪人の家で彼の私物を片付けていたんです。そこで日記帳を見つけました」


「日記帳……?」


 そう言えば、何度か手帳に何かを書いてる姿を見た。邪魔しちゃ悪いと思って、あえて何も聞かなかったけど、あれが日記帳だったんだろうか。


「ええ。あいつがいたら絶対に怒られることですが、軟禁中にどんな暮らしを送っていたのか気になって、中を読んでみたんです」


「そこに、彼の気持ちが……?」


「そうです。……よろしければ、今から罪人の家へ向かい、あなた自身で読んでいただきたいんですが、どうですか?」


「今から、ですか?」


「都合が悪いですか?」


 都合は悪くない。今日は何の予定もないし、あとは残った家事をこなすだけだ。出かけることはできるけど……二か月間、罪人の家には近付いてもない。視界に入れるだけでもまだ辛い。だけど、ビクトールが罪人にされて日々何を考えてたのか、世話係の私をどんなふうに思ってたのか、知りたい気持ちは少なからずある。


「無理なら明日以降に――」


「いえ、大丈夫です。行きます」


 そう言うと、レオンハルドさんは安堵したように笑う。


「そうですか、よかった。では、あなたの準備ができ次第、行きましょう」


 私は前掛けを外し、軽く身支度を整えてから、レオンハルドさんと一緒に罪人の家へ向かった。この道をたどるのも二ヶ月ぶり……懐かしいというほどの時間は経ってないけど、私の中じゃ彼との別れは、随分遠い日のことに思える……。


 道を曲がって現れた罪人の家は、何も変わらずそこにあった。ただ今は、門の前にも部屋の中にも人影はない……ひっそりと、黙ってそこに建ってる。それを眺めてると、胸の奥がしくしく痛んでくる。


「それでは、中へ」


 レオンハルドさんが先導して行く。ここは私のほうがよく知ってる場所なのに、何だか妙な光景だ。横切った庭は手入れが途絶えたせいで、あちこちで草が伸び始めてる。私が今もここで雑草を抜いてる未来もあったはずだと思うと、強い後悔がまた私をさいなんでくる。


 玄関をくぐり、居間に入ると、中にさほど変わった様子はなかった。二ヶ月前と同じ物が同じ場所にある。しばらくは誰にも使われないだろう家具達……放って置かれてるだけで、何でこんなにも切なく感じるんだろうか。


「……それは……?」


 居間の隅、壁際に置かれた見覚えのない木箱に気付いて私は聞いた。


「ビクターの私物を詰め込んだものです。このまま船に乗せて本土へ送るんです。そして……」


 レオンハルドさんは食卓に近付くと、そこに置いてあった手帳を取って私に差し出した。


「これが、ビクターの日記帳です」


 受け取った物はやっぱり何度か見たことのある手帳だった。そんなに厚さはなくて、革張りの作りは島にはない高級感をかもし出してる。一方で革の縁はこすれてたり、色が薄くなってたりして、頻繁に使ってたことも感じられる。


「読んでみてください。さあ、座って」


 椅子に促されて、私はそこに腰を下ろす。ビクトールが食事をし、くつろいでた食卓……そこで彼の日記帳をのぞくことに、わずかな申し訳なさを覚えつつも、ゆっくりページをめくり、丁寧な文字で書かれた文章に目を落とす。




『二日 マーケンの月


 私に流刑が下された。数日後には南の果てのレタン島へ送られる。ここには二度と戻れなくなる。何もかも終わった。こうなるぐらいならば、両親と一緒に殺してくれたほうがよかった気さえする。この先、私は何を糧に生き続ければいいのか。あの者は憎いが、恨んだところで、この罪が消え去るわけでもない。もう、どうでもいい気持ちだ。――これからは暇つぶしに、こうして日記を書くことにする。そのうち飽きてやめてしまうかもしれないが』




 これは、島へ来る直前の日記……ビクトールの諦めと絶望が伝わってくる。当然だろう。一生故郷へは帰れず、田舎の知らない島に閉じ込められるんだ。暗い気持ちにもなってしまう。




『八日 マーケンの月


 レタン島へ向かう船の中にいる。狭い部屋に入れられ、息が詰まりそうだ。揺れも激しくて、すでにここは地獄のようだ。船酔いで起きていられない。ひどい気分だ』




 日記と言っても毎日書かれてるわけじゃなく、記しておきたい出来事や気持ちがある日に書いてるようだ。前の日記とは違い、この日の文字は内容通りに乱れてやや読み辛い。こんな辛さに耐えて島に来たのか……。




『十四日 マーケンの月


 新たな我が家に着いた。いや、棺桶と言ったほうがいいか。二階建ての、田舎にあるには洒落た作りだ。外には門番、そして世話係の少女が一人来た。罪人の私に握手を求めるほど緊張していた。まったく、彼女も不運だ。こんなことやりたくなかっただろうに。それでも甲斐甲斐しく世話をしてくれようとする。その様子がわずらわしい。私を一人にしてくれないものか』




 私は当時の光景を思い出す。緊張しながら会ったビクトールは最初、確かに無愛想で私を遠ざけてた。気難しい人なんだと思ったけど、彼に起きたことを思えば仕方がなかったと理解できる。でもわずらわしいと思われてたのは正直、悲しいけど。


 視線を下げると、付け足されたように書かれた続きの文章があった。




『――朝方、腹が減って台所へ行くと、作られた料理が置かれていた。あの少女が作り置いてくれたものだ。それを食べていると、自分の愚かさや人としての小ささを痛感させられた。言われたことをしているだけの少女に当たって何になる。昨日取った態度を思い出すと自分が情けなくなった。彼女は誠意を持って世話をしようとしてくれている。この美味しい料理が何よりの証拠だ。私の事情など彼女は知ったことじゃない。心を塞ぐより、少なくとも彼女の前では〝今〟を見つめて過ごすべきだ。今日来たら、謝らなければ』




 ビクトールの心変わり……それが私の作った料理だったことが、何だかとても嬉しかった。役目としてただ普通に作っただけのものなのに、こんなふうに感じてくれてたなんて……。それと、彼の人を思い遣る優しさは、もうこの時から表れてたんだ。自分も辛いのに、私なんかの気持ちを考えてくれて……彼は本当に優しさの塊のような人だ。




『十九日 マーケンの月


 最近の彼女――ヨハンナの様子が暗い。疲れた顔もしている。何か問題を抱えているようだ。話を聞くと、母親と喧嘩をしているらしい。助言をしてみたが、早く仲直りできるといいが』




 この頃は疲れ切って、本当に辛かった。ビクトールの気遣いは嬉しかったけど、結局、彼には仲直りしたって嘘を言ってしまったんだっけ。


 何日か街の様子や天気のことを書いた後、こんな日記が書かれてた。




『六日 アンテルナの月


 友人から手紙が届いた。恩師のマヌエル先生が亡くなったという知らせだった。数年前から病を患ってはいたが、まさかこんなに早く逝かれてしまうとは。先生も私のために冤罪の証拠集めをしてくれていた。そのせいで命を奪われたのかもしれない。それを確かめるべく友人に手紙を書き、ヨハンナに渡したが、水に濡らし、持ち帰ってきた。このおかげで私は冷静になれた。どんなに気になろうと、彼らと連絡を取るのは危険を与えることになる。頭ではわかっていたはずなのに。ヨハンナには感謝しなければ。――それにしても彼女の暗い表情が気になる。手紙を濡らしたのはきっと赤髪の娘が関係しているんだろ。いつまでも傍観しているわけにはいかない。彼女が心配だ』




 ビクトールはすでにこの時からアンジェリカの存在に気付いてたんだ……確かに、手紙が風で飛ばされたって言っても、彼は疑ってた。恩師を亡くしたと知ったばかりで、私の心配までしてくれるなんて……。


 数日の日記を流し読んだところで、この日記に目が留まる。




『八日 クルクーデの月


 ヨハンナに休日を与えてから、彼女に明るい笑顔が増えてきた。言葉を交わすことも多くなり、仕事中にはない素の彼女が垣間見えて、なぜだか見ているこちらも明るい気持ちにさせられる。今読んでいる本を、読み終えたら貸してくれるという。本土で人気を博した作品だ。楽しみに待つとする』




 本はいつでもいいって言ってたけど、日記に書いてくれるほど楽しみにしてくれてたんだ……ちょっとだけ嬉しい。




『二十二日 クルクーデの月


 遅れて来たヨハンナが頬を腫らしていた。ただ事じゃないと思ったが、彼女は落ちた瓶が当たっただけと言う。だがそんなふうには見えない。こんな痛々しい顔にするなんて……彼女は他にも問題を抱えているんだろうか。だがこちらから聞くわけにもいかない。苦しいのなら、私に打ち明けてほしいものだ』




 思い出す。ビクトールが腫れた頬を冷やしてくれたことを……彼は私を美しいと言ってくれた。それで私は舞い上がるような心地になった。そこで初めて彼のことを意識し始めたんだと思う……小さな恋心が芽生えたんだ。




『三十日 クルクーデの月


 我が家の外に怪しい姿を見かけた。明らかに島民じゃない。とうとう私の元にもあいつの手先が来たのかもしれない。だとしたら、この命もそう長くはないだろ。いずれと覚悟はしていたつもりだが、いざそれが近いと知ると、この暮らしが終わることを惜しむ自分がいる。ここへ到着した時にはまったく想像できなかった気持ちだ。そう思わせてくれたのは、紛れもなくヨハンナだ。彼女の存在は私の中で日々大きくなっている。だから、彼女を巻き込んでしまわないよう、十分注意をしなければ。彼女には絶対に害が及ばないように』




 この時、はっきり言ってなかったけど、やっぱりビクトールは自分を狙いに来たやからだと半ば確信してたんだ。そんな危険な状況にいながら、ここでも私の心配を……彼はどうしてここまで優しいんだろうか。人を思い遣れるんだろうか。




『七日 ラパネの月


 ヨハンナが抱えている心配事を話してくれた。どうやら母親に問題があるらしい。以前にも喧嘩をしていたし、思い返せばそういう兆候はあった。親とは失ってからその大きさに気付かされるものだ。少しずつでも問題が解決されればいいが……助言だけしかできない自分がもどかしく感じる』




 私はその助言だけでも救われた。あなたのしてくれたことは私を間違いなく助けてくれたんだ。




『二十六日 ラパネの月


 ヨハンナが前に言った本を貸してくれた。だが汚してしまったとかで、新しいものをわざわざ買い直して渡してくれた。私のためを思ってくれるその気持ちがこの上なく嬉しい。この本を開くたびに彼女の姿が脳裏によぎってしまいそうだ。内容が頭に入るか少し心配になる』




 本を買わせたような形になって、ビクトールは申し訳なさそうにしてたけど、心ではこんなに喜んでくれてたんだ。私も買い直した甲斐があった。でもできれば、直接言葉で嬉しさを伝えてほしかったけど……言わなかったのは彼らしい気遣いなんだろう。


 この日記にはまだ続きが書かれてる。




『――午後になり、嫌な事実を知った。最近気になっていた門番の動向をヨハンナに頼んで探ってもらったところ、彼らはあいつの手先と接触し、買収されていた。着実にその時が迫っている。だが私には逃げ道などない。殺される瞬間にささやかな抵抗ができればいいほうだろ。この事実をヨハンナに話したら、彼女は諦めず逃げろと言った。それは無理だと返すと、それでも屈しないで生きてほしいと、今にも泣きそうな顔で言われた。私のせいで彼女が苦しむのは見ていられなかった。その細い身体を初めて抱き締めて、私はやっと気付いた。彼女の存在、彼女に対する気持ち、そのすべてを失いたくない。そしてこの時間を、いつまでも過ごしていたい……ヨハンナは、同じ思いを抱いてくれるだろうか』




 私は目を見張ってその文章を読んだ――同じだ。私もこの時……ビクトールに抱き締められた時、苦しさを覚えながらも、こんな時間がずっと続けばと思ってた。まさか彼も同じだったなんて……心の声を目の当たりにしても、信じられない……。




『四日 ブレタリークの月


 ヨハンナが母親との問題を解決できないでいる。聞けば血のつながりはないんだそうだ。私はこれまで間違った助言をしてしまっただろうか。事情を知っていればもう少し……いや、知っていたとしても私が言えることに大差はないのかもしれない。ヨハンナは母親が父親に危害を加えるのではと不安になっている。何かあれば助けを求めろと言ったが、私には一体何ができるのか。彼女の助けになるのなら、何でもやってやりたいが……やはり罪人の身であることがもどかしいばかりだ』




 この数日後に、ビクトールは言葉通り、私が求めた助けに応じてしまった。自分の危険もかえりみずに……それが、命を落とす行動だとも知らずに……。私は、何てことをしてしまったのか。こんなに私を思ってくれてた人を、私の手で殺したも同然のような目に遭わせて……ごめんなさい。何度でも謝らせて。ごめんなさい――まるで言い足りない言葉を心で呟きながら、私は次のページをめくって何も書かれてない白紙を確認しようとした。おそらくこれが最後の日記……そう思ったのに、めくったページには予想に反してもう一日分の日記が書かれてた。これが本当に最後の日記……私はその文章に目を落とす。




『六日 ブレタリークの月


 魔手が迫りつつあると感じるせいか、後悔や心残りを残したくないという気持ちが湧き始めている。この命はすでにあってないようなものだ。失うことはもはや怖くはない。だが嫌なことはある。中途半端にこの世を去ることだ。今の私の心残り……それはヨハンナだ。彼女がいてくれたからこそ、私は罪人にされても心穏やかに過ごせている。感謝してもしきれない。この気持ちは必ず伝えたいが、もう一つの気持ちを伝えるべきか、それは悩むところだ。彼女はまだ十七と子供だ。しかも私は公には罪人の身。そんな男に愛を告白されても、きっと彼女を困らせてしまうだけだ。行く末のない男が、無限の将来の待つ彼女の愛を得ようなど、立場をわきまえない厚顔無恥な振る舞いとも言える。心残りと欲張ることはまた別だ。ヨハンナは私には過ぎた存在……ならば側にいてもらうだけの今に、微力でも彼女の力になれることに満足しなければ。この胸の愛は大事にしまい、冥土の土産にでもしよう』




「笑えない……全然……」


 私は口元を手で覆い、込み上げる嗚咽を押さえた。何で……何で言葉で言ってくれなかったの? 言ってくれたら、私がどれほど喜ぶか、どうしてそれを想像してくれなかったの? たとえ先が見えてても、私はあなたと気持ちが通じ合えたってわかっただけで、それだけで十分だったのに……。


「よければ、これを……」


 横からレオンハルドさんが白いハンカチを差し出してきた。気付けば私は涙を流してた。日記を濡らしちゃいけないと、すぐに受け取って目元を拭った。


「あいつの気持ち、わかったでしょう。あなたはビクターを殺してなどいないんです。むしろ生かしていた。あいつにとってあなたは澄んだ空気のようであり、時には宝石のような輝きを放つ、掛け替えのない、必要な存在だったんです」


「でも……私が、助けを求めなきゃ……」


「それは違います。あなたが助けを求めず、苦しんでいる様子を見せるほうがビクターにとっては辛いことだったと思います」


「死、よりも……?」


 レオンハルドさんは強く頷く。


「命を狙われ、間もなく奪われるとビクターは予感していた。残り少ない時間を、心を寄せるあなたのために使えたのなら、あいつの性格からして、おそらく本望と感じているはずです」


 私の頭の中に、ビクトールのかすれた声がよみがえる。


『これで、よかったんだ……ヨハンナ……君の……ために……』


 あの言葉の続き……それが、この日記に書かれた気持ち……。


「あいつに代わり、私からお礼を言わせてください。世話をして、寄り添ってくださり、ありがとうございました」


 笑顔を浮かべたレインハルドさんは私に向かって小さく会釈する。


「あなたが後悔することなどありません。ビクターは最後の瞬間まで、あなたの助けになれたんですから。だからどうか、顔を上げてください。いつまでも暗いままでは、あいつを心配させてしまいます」


 ……そうかもしれない。ビクトールは私の表情を見逃さず、いつも気にかけてくれてた。ずっと暗かったら彼を安心して眠らせられない――私は日記を閉じて椅子から立ち上がる。


「読ませてくれて、ありがとうございます。彼の気持ちを知れて、寂しさは変わらないけど……でも、少し前向きになれた気はします」


「そうであるなら何よりです。あなたを苦しめたまま放っておくなど、ビクターも望まないでしょうからね。あなたが前向きになれたのなら、日記を読んだことも許してくれるでしょう」


 いたずらな笑みを見せたレインハルドさんは、ふと何かを思い出したように木箱から一冊の本を取り出した。


「そう言えば、これ……日記を読んでいて気付きました。もしかしてこの本は、あなたが貸した本では?」


 差し出されたのは『不可思議な彼ら』……私が買い直して貸した本だ。見ればページの序盤のほうに栞が挟まれてる。読んでくれてたんだな……。


「てっきりビクターの私物かと思って、木箱に詰めてしまったんですが、あなたの本ならお返しを――」


「返してもらわなくて、いいんです」


「ですが、あなたの本なんですよね? 返さないわけには――」


「これはプレゼントした本なんです」


「日記には貸してくれたと書いてあったが……」


「彼が認めてないだけで、これはあげたんです。だから持って行ってください」


「いいんですか? 本当に」


「もちろんです。読み途中の本を取り上げたら、きっと彼は気になって怒ると思いますし……側に、置いてあげてください」


「それでいいのなら、わかりました。これはあいつのために持って行かせてもらいます」


 レインハルドさんは本を木箱に戻す。私はハンカチと合わせて日記帳を渡し、一緒にしまってもらう。蓋が閉められ、それを抱えるようにしてレインハルドさんは持ち上げる。


「……では、私はこれで。港でビクターが待っていますので」


「はい……お気を付けて」


 するとレインハルドさんがおもむろに右手を差し出してきた。


「あなたとお話ができてよかった。どうかお元気で」


 爽やかな微笑みを向けられて、私はそっと手を出し、握手を交わした。力強く握ってくる分厚い手が、言葉通りの気持ちを伝えてくる。お互いの手が離れると、レインハルドさんは別れの笑みを残して罪人の家を後にした。


 残された私は改めて部屋の中を見回した。これで、ビクトールとの時間は本当に終わる。でもあちこちに残された思いや感謝は私の中でずっと続いていく。彼がどこへ行こうと、私はその愛を永遠に忘れずに進むんだ。悲しみに沈んで立ち止まってちゃいけない。ビクトールにまた心配させるわけにはいかないから。


「ありがとう……さようなら……」


 静寂と思い出がたゆたう部屋に私は言葉を残す。ビクトール、私もあなたを、愛してる――心の声でそう告げてから、私は静かに玄関扉を閉めた。

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世話係のヨハンナ 柏木椎菜 @shiina_kswg

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