十五話
夕暮れの近付く時間、家事を終えた私は門番に一言挨拶してから家路につく。今日も何事もなく、普段通りに仕事を終えて、変わらぬ帰り道をたどるものだと思ってたけど、罪人の家から道を一本曲がると、そこにはいつもは見ない喧騒があった。
「……何だろう……?」
普段はまばらな人通りの道なのに、なぜか多くの人達が出歩いてた。しかも揃って同じ方向へ向かってる。心配そうだったり、興味津々だったり、見せてる表情は様々だ。私は皆の向かう先を眺めてみた。でも何か人だかりができてたり、騒ぎが起きてる様子はどこにもなく、大勢の人影は道の奥へ進んで行く。あの先には海と港があるだけだけど……。
「ちょっと、何? 本当に事故が起きたの?」
「そうみたいよ。船同士がぶつかったって。一隻は沈んだって聞いてるけど」
「本当に? お向かいの旦那さん、まだ帰ってなかったけど、まさか乗ってないわよね。奥さん心配しちゃうわよ」
「大きな事故みたいだから、怪我人も出てるかもしれないわね。全員無事だといいけど」
主婦らしき二人の女性が、早足で話しながら私の前を通り過ぎて行く――船の事故が起きたらしい。だから皆、港のほうへ向かってるのか。この島の住民の多くは海に関する仕事に就いてる。自分の家族や知り合いが事故に遭ってないか、それが心配で皆見に行ってるんだろう。単なる野次馬も混ざってるみたいだけど。
「関係者以外は港に来ないように! 救助活動の妨げになります!」
屈強な男性が仲間を連れて通りを駆け抜けて行く。あれは自警団の人達だ。街の治安を守るだけじゃなく、求められれば救助活動もする。彼らが呼ばれたってことは、怪我人がたくさん出てるのかもしれない。私の脳裏にお父さんがよぎる――お父さんも海に携わる仕事をしてるけど、あくまで経営で、船に乗ったり操船することは基本ない。だからお父さんが怪我してることはないはず。でも、事故を起こしたのがグレーベル海運の船だったら……その点では心配だ。二度も事故を起こせば会社の信用にも関わってくる。この時間なら、もう家に帰ってる頃だし、早く行ってお父さんに確かめてみなきゃ――私は港へ向かう人の流れに逆らって、いつもの帰り道を足早に進んだ。そうして異様な喧騒の中を抜けようとした時だった。
「あ、ヨハンナ!」
不意に呼ばれて振り返ると、私の後を追って来るようにアンジェリカが駆け寄って来た。その姿に一瞬緊張が走る。
「……身構えないでよ。別に、何もしないわ」
不満げな顔が私を見る。
「そ、そんなつもりじゃ……ごめん」
これまでの経験が勝手に自分を緊張させる。彼女と会うのは、あの路地での出来事以来……正直な気持ちを聞いて、距離も少し縮まって、次は普通に話せるかなと思ったけど、やっぱりそんな簡単じゃないみたい。
「それで……何か用、なの?」
「用っていうわけじゃないけど、ついさっき、酒場の近くを通ったら、あなたの母親を見かけたから……」
「え? ああ、お母さん……また酔っ払って、迷惑かけてた?」
「まあ、悪そうな男達と騒いでたけど……それより、物騒なこと言ってたから、これはあなたに言っておいたほうがいいかと思って、それで捜してたの。酔った人のすることって、本気かどうかはともかく、たち悪いでしょ?」
「物騒な、こと……?」
私の中の押し隠してた不安が、またうごめき始める。
「ええ。男達と酒場から出て来て、いいから殺してやってとか、命で償わせるとか、とにかく怖いことを笑いながら言ってて……お酒のせいで普通じゃなかったのかもしれないけど」
「そ、そんなこと、本当に……?」
「こんなくだらない嘘、つくわけないでしょ」
ムッとしたアンジェリカの口調に嘘は感じられない。その耳で本当に聞いたんだろう。だとしたら、私には物騒な言葉の意味に心当たりがあり過ぎる――
「教えてくれて、ありがとう……でも、何でわざわざ私に教えてくれたの?」
聞くとアンジェリカは視線をそらし、口を少し尖らせながら言う。
「偶然母親を見ちゃったから、言うべきかと思って……あなたも、親には困らせられてるみたいだし……」
ちらと私の目と合うと、照れたようにアンジェリカは不機嫌な表情を作った。同情してくれるなんて……彼女は変わろうとしてくれてるんだ。
「……な、何よ。早く母親を追わなくていいの? 男達と向こうのほうへ歩いて行ったけど……」
そう言って指差したのは、私の家がある方向だった。まさか、酔った勢いで本当に復讐なんてことを……?
「……ありがとう。それじゃ私、行くね。このお礼はまた――」
「そんなのいらないわよ。心配なら早く行ったら?」
「うん。次はゆっくり、おしゃべりできたらいいけど」
「暇だったらね。私、忙しいから」
早く行けと手を振られて、私は笑顔で離れた。見送るアンジェリカはぎこちない笑みを浮かべたけど、そこにこそ彼女本来の優しさが表れてるようで、私の中の緊張の種は砕けて消えた。友達をやり直せる――代わりにそんな希望の種が生まれた気がした。
でも今はそんなことを感じてる場合じゃない。アンジェリカが聞いたっていう言葉……向けられてるのがお父さんなら、あんなに怒りを見せてたお母さんだ。頭に血を上らせて本当にやりかねない。しかも悪そうな人達と一緒だっていうし、本気で復讐しようとしてるのかも……不安が足と鼓動を速める。急がなきゃ。早くお父さんに知らせなきゃ――
「……!」
家に着く手前の道に差しかかった時、左からガヤガヤと話しながら現れた人影を見て、私は咄嗟に側の民家の壁に身をひそめた。そこからそっとのぞいて確認する――
「――で、家ってどこ? この辺って言ったよな」
だらしなく服を着た長髪の若い男が、後ろを歩くお母さんに聞いた。
「ここを真っすぐ行って曲がれば到着よ」
お母さんは笑いながら答える。その顔は少し赤らんでる。お酒のせいだろうか。
「約束はちゃんと守ってくれよ。殺っても逃げられても、金は貰うからな」
まくった袖の下から刺青が見える強面の男は、半笑いでお母さんに言う。
「でも逃げられたら約束の額の半分よ。それが嫌ならしっかり殺ってちょうだい」
「へいへい。にしても、女の恨みってのは怖えなあ。好きなやつでも容赦なく殺れるんだから」
「向こうが悪いのよ。私を一人にして、別の女と遊ぶんだから。そんなの、絶対に許さない……!」
「なあ、こんなことして本当にばれないか? 金貰えても、牢にぶち込まれるのは勘弁だぞ」
「またそれか? てめえは心配性だな。大丈夫だよ。遺体は海に沈めて魚の餌にするし、遺書も用意できる……そうだったよな?」
「ええ。あの人は喧嘩もしたことない人だから、ちょっと脅せば遺書ぐらい大人しく書いてくれるわ」
「それで会社と財産、まるまる貰うってか。ヒヒッ、悪い女だぜ」
「何度も言わせないでよ。悪いのは向こうだから。これは慰謝料で、当然の報いよ」
「俺らなら上手くやれるよ。だからさっさと片付けて、たんまり金を貰おうぜ。な?」
「そんなに上手く行くか? 誰かに見つかったらどうする気だよ」
「港の事故で皆出払ってる。人目がないうちに終わらせりゃ大丈夫だよ」
「自信がないなら帰ってもいいわよ。お金がいらないならね」
「自信ないなんて言ってないだろ。ちゃんとやるって……」
三人は話し続けながら私の前を通り過ぎて行った――震えが止まらない。お母さんは本気だ。本気で、お父さんを殺そうとしてる。しかも遺書を書かせて、財産まで奪おうとたくらんでる。勝手な思い込みで、そこまでするなんて……!
私は焦る自分を抱き締めながら考える。どうにかしないと……でも私が家に行っても、お父さんと一緒に殺されて終わりだ。三人相手に太刀打ちできるわけもない。誰か、お父さんを助けてくれる人は――
「……自警団……」
閃いて自警団の詰め所へ行こうと思ったけど、すぐにハッとした。さっき見た港のほうへ走って行く自警団員を思い出す。詰め所へ行っても今はいないかもしれない。確実に連れて来るなら港まで行かないと……でもお母さん達はもう家に着いちゃう。港まで行って戻って来る間に、間に合わない可能性も――
そこでまた閃いた。門番……彼らも自警団員だ。帰り際に挨拶して、確実にあそこにいるってわかってるし、港へ行くよりも遥かに近い。それしかない――私は踵を返して、歩いて来たばかりの道を急いで駆け戻った。
通りの異様な喧騒はやや収まったみたいだけど、港のほうへ行く人影はまだちらほらとある。その中を通って道を曲がり、人気のない静かな道を進めば、さっきまでいた罪人の家が見えて来る。
「……門番、は……?」
家の前まで来たけど、そこにいるはずの門番の姿が見当たらない。辺りを見回してみても、どこにもいない……どうして? ここを出た時はいたのに――もしかして、港へ行っちゃったの? 騒ぎを知って自警団と一緒に……。あるいは、買収のせいで、夜の警備を放棄して帰ったとか? でもまだ暗くなるまで時間があるのに……。
「ヨハンナ?」
門の前でうろうろしてると、不意に名前を呼ばれて私は顔を上げた。見れば玄関扉を開けてこっちを見るビクトールの姿があった。どうすればいいかわからない私は、庭を通ってすぐに駆け寄った。
「あ、あの、門番は、どこに……?」
「門番なら、少し前にどこかへ行くのを見たが……」
「港、ですか?」
「そこまでは……仲間らしき人物と話していたから、私は交代かと思ったんだが、次の門番が来ていないな。……一体どうしたんだ? 随分と慌てている感じだが」
門番は多分、港へ行ってしまった。他の自警団員に呼ばれたんだ……。
「何か、問題でも起きたのか? よければ助けになるが……」
心配げな顔がこっちを見つめてくる――距離と時間的に、もう頼れるのは、彼しか残ってない……!
「お願いです、助けて!」
私はビクトールの腕をつかんで頼んだ。
「……何があった? とりあえず説明を」
真剣な表情になった彼に、私はお母さん達の話してた内容を伝えた。それを聞くビクトールの顔は、次第に険しくなってく。
「――本当に、意趣返しをするとは」
「もう時間がないんです。今頃お母さん達は家に着いて……本気で、お父さんを殺す気です! お父さんを助けないと……!」
「ひとまず落ち着くんだ」
「そんなの無理です! お父さんが殺されちゃうのに、私は、一人で、どうしたらいいのか……自警団は皆、港に行っちゃって、助けてくれる人はどこにも――」
「大丈夫だ。私が助ける」
私は思わずビクトールを見返した。
「ど、どうやって? あなたはここから――」
「わかっている。出ることは許されない。だが人の命が懸かっているんだ。そんなことを言っている場合じゃない。少し待ってくれ。すぐに戻る」
そう言うとビクトールは家の中へ戻り、一分も経たないうちにまた玄関に戻って来た。その頭には茶色のフード、身体にはマントを羽織ってた。一年中暖かいこの島には似つかわしくない格好だ。
「本当に、ここから出るつもりですか……? もし見つかったら大変なことに――」
「見つからないよう、だからこれをかぶっている。……時間がないのなら早く行こう。私の心配より、君の父親の心配のが先だ。さあ、家まで案内を」
これで本当にいいのか……彼を危ない目に遭わせることをして――私の中には迷いがあったけど、お父さんの命を思えば背に腹は替えられない。助けられるのは、その希望があるのは、ビクトールしかいないんだから――私は頷き、走り出した。今はこうするしかない。他に選択肢なんてないんだ……!
私は家までの最短距離を駆け抜ける。時折人とすれ違ったけど、フードとマント姿に奇異な目を向けられても、呼び止められたり悲鳴を上げられることはなく、誰も目の前に罪人がいるとは気付いてなかった。そうして何事もなく走り続けて、私は肩で息をしながら我が家の近くまでやって来た。
「あれが、私の……」
指をさした先を見て、私は動きを止めた。そこには玄関を塞ぐように立ってる長髪の若い男がいた。落ち着きなく辺りをキョロキョロ見てる。
「……あいつは母親の仲間か?」
ビクトールに聞かれて私は頷いた。
「そうか。見張りをしているようだな。ということは残る二人はすでに中に……」
近付いて行こうとするビクトールを私は咄嗟に引き止めた。
「ど、どうするんですか?」
「中に入れてくれと頼んでみる。まあ無理だろうけどね。その時は実力行使だ」
「危険じゃ……」
「危険は承知の上だ……ヨハンナは物陰に隠れて」
ビクトールは引き止めた私の手を解き、男のほうへ向かって行く。焦りと恐怖でじっとしてられない気持ちを抑えて、私は言われた通り近くの塀に身を隠し、そこから様子をうかがい見る。
「……あん? 何?」
近付いたビクトールに、長髪の男は威嚇するような目付きで言う。
「この家のご主人に用があるんだが」
「悪いね。今先客がいるんだ。出直してくれる?」
「無理だ。今すぐ用がある。通せ」
ビクトールは男を押し退けて扉に触れようとしたけど、それを男はすかさず押し返した。
「おい、先客がいるって言ってんだよ! 聞こえねえのか?」
「まともな客じゃないのは知っている。入らせてもらう」
強引に通ろうとするビクトールに、長髪の男は苛立った笑みを浮かべて言う。
「てめえもまともじゃなさそうだな、ええ、コラ!」
拳を振り上げた男は急に殴りかかった。私は悲鳴が漏れそうな口を咄嗟に手で塞ぐ――あんな至近距離じゃ避けられない!
でもビクトールは至って冷静だった。殴られるのを読んでたのか、飛んで来た拳をつかんで受け止めると、そのまま男の身体を扉に押し付け、それと同時に扉を開けて中に押し入った。殴られずに済んだ、けど――私は家の中に消えた彼を追って塀の陰から出て、恐る恐る玄関に近付いた。
距離を取ってそっとのぞくと、ビクトールは暴れる長髪の男を床に押さえ込んでる最中だった。
「何なんだ、てめえ……!」
「大人しくしろ。さもなくば痛い目を見るぞ」
「へへっ、痛い目? じゃあ見せて……みろよ!」
男が不敵な笑みを作った次の瞬間、ビクトールの目の前を鈍い光が切り裂いた――ナイフだ! 男が隠し持ってたんだ。不意の攻撃にビクトールが身体を仰け反らすと、それを逃さず男は彼の手から逃れて居間の奥へ走って行った。
「おい! 変なやつが来た! 手伝って――」
仲間に助けを求めて長髪の男は大声を上げる。でもビクトールは素早く近付き、男を捕まえて振り向かせると、その顔を躊躇なく殴った。
「うっ……!」
男はよろける。そこに続けて拳が振り下ろされる。
「やっ、やめ……ぐふっ」
痛そうな一発が入って、男はその場にくずおれてしまった。それをビクトールは見下ろす。
「もっと痛い目に遭いたいか?」
「悪、かった……もう、よして……」
赤く腫れた顔に、怯えて力の抜けた姿からは、もう戦意を喪失してるようだった。痛みと恐怖で立ち上がれない男からビクトールがナイフを取り上げた時だった。
「何かうるせえな。何やって――」
仲間の刺青の男の声がした。私は玄関にもっと近付き、そこから目だけをのぞかせる。見えたのは居間の奥にあるお父さんの部屋の前に立つ男。その部屋の中を見れば、壁際で腕組みして立つお母さんと、その側で椅子に座るお父さん――その顔を見て私は息を呑んだ。赤や青にひどく腫れて、鼻血まで流してる……ひどい! 何度も何度も殴られて、脅されたんだ。あの男に!
刺青の男はこっちの異変に気付いてビクトールを睨み据えた。
「誰だお前? ……おい、何勝手に部外者入れてんだよ」
男は動けない仲間に聞いたけど、答えは返ってこない。
「チッ、役立たずが……」
「これ以上、ここのご主人に危害を加えるのなら、容赦はできない」
ビクトールにも奥のお父さんの姿が見えたんだろう。低く抑えた声でそう言うと、取り上げたナイフを静かに構えた。
「何だ? 物騒なもん見せやがって。俺とやる気か?」
刺青の男はニヤニヤしてる。
「黙って帰ってくれれば、何もしない」
「はっ、そいつ殴り倒しただけで、随分いい気になってんな……俺が言うこと、聞くと思ってんの?」
男は背中側の腰に手を回すと、少し錆の浮いたナイフを引き抜いた。あいつも武器を……。
「ちょっと! 何やってるのよ。早く必要なもの書かせなきゃいけないのに」
奥の部屋からお母さんが苛立った様子で言った。……お父さんの目の前で、よくも堂々とそんな態度を!
「ちょっと待ってろ。すぐ終わらせるよ」
刺青の男はナイフを構えると、余裕の笑みを見せる。
「来いよ。切り刻んでやるから」
ナイフをゆらゆら揺らし、挑発するような様子の男とビクトールは対峙する――向こうはこういうことに慣れてる雰囲気だ。すごく強かったらどうしよう……彼が切られでもしたら、その時私は、何をしたら……。
「……何だよ、来ねえのか? しょうがねえな……!」
男の目付きが変わったと思うと、前へ踏み込んだ瞬間にナイフが突き出された。間合いを一瞬で詰められるも、ビクトールはやっぱり落ち着いてそれをかわす――彼は剣術を習ってたっていうし、きっと大丈夫だ。あんなやからに負けるわけない!
そんな私の期待通り、ビクトールはナイフを剣代わりに男の攻撃をかわし、弾いて部屋の隅に追い詰める。あんなに余裕ぶってた男の顔も、大分必死さが滲んで笑顔どころじゃなくなってる。
「強え……お前、島の人間か?」
「どうだっていい。……まだ続けるなら、血を流すことになるぞ」
「は……はは、そりゃごめんだ。わかった……お前には勝てそうにない」
引きつった笑みを見せると、男は降参だというように両手を上げた。勝った――私は怪我もなく終わったことに安堵した。ビクトールも自分のナイフを下ろし、男の手から武器を取り上げようと手を伸ばす。
「……言うこと、聞くかっての!」
伸ばされた手をかわした男は、空いてる左手で棚にあったかごを引っつかむと、それをビクトールに投げ付けた――あいつ、騙し討ちを!
でも飛んで来たかごは反射的に腕で防がれて、顔に直撃せず中身の小物をばらまくだけだった。危なかった……と思った矢先、男は間髪入れずにナイフをビクトールの顔目がけて突き出す――私の心臓は止まりかけた。
錆の浮いた切っ先がビクトールの正面をとらえた――かに見えたけど、それをしっかり見てたビクトールは瞬時に身を低くして攻撃をかわした。ナイフの切っ先は彼の頭ぎりぎりをかすめて、かぶってたフードを引っ掛けて金の髪をあらわにさせた。
「くっ……!」
攻撃が空振りに終わった男は逃げ出そうとする。でも少し遅かった。低い姿勢のまま、ビクトールはナイフを振り、男の動きを一瞬止める。そこを狙ったかのように、返す刃が男の腕を素早く切り裂いた。
「うっ……ぐ……!」
左の二の腕を押さえて男は小さくうめく。押さえた指の間からは細く赤い筋が流れ落ちる。深く切られたのか、かなり痛そうに顔をしかめてる。そこにビクトールはナイフを向けた。
「右腕も切られたくなければ、ナイフを捨てろ」
男は冷静に言うビクトールを忌々しげに睨んでたけど、目を伏せると諦めたように自分のナイフを床に放り投げた。
「勝負はついた。さっさと仲間を連れて去れ」
悔しそうに歯噛みして、男はゆっくり仲間のほうへ向かう。
「待ちなさい! どこ行くのよ! まさか逃げるの?」
奥の部屋からお母さんが慌てて叫ぶ。
「お金、欲しいんでしょ? だったらこの男をどうにかしなさいよ!」
これに刺青の男はちらと振り向いた。
「勝ち目ねえやつ相手にするほど馬鹿じゃねえんだよ。どうにかしたかったら自分でやってくれ。金より……命だから」
そう言って男は、座り込んで朦朧とする仲間に肩を貸して、鈍い足取りで家から出て行った。玄関にいる私に目もくれず、よたよたと人影のない道へ遠ざかって行く――相当懲りた様子だし、仕返しに戻って来ることはないだろう。それにしてもビクトールがこんなに強かったなんて。彼がいなかったらお父さんは助かってなかったかも……そうだ。こんなことを起こした張本人もどうにかしなきゃ――私は自分の中の怒りを感じながら家に入った。
「なっ、何よ、無防備な私まで、そのナイフで切る気?」
お母さんは震えた声でビクトールに言ってたけど、私を見つけると必死な表情になって言った。
「あっ、ヨハンナ! この男が私を襲おうとしてるのよ! お母さんを助けて!」
「……違う。この人は、お父さんを助けに来ただけで、襲ったりなんかしない」
「え……? な、何? あなた、この男と……?」
気付いたお母さんは顔を引きつらせる。
「それに、私はもう娘じゃないわ。こんな時ばっかり母親にならないで。あなたはお父さんを殺そうとした、犯罪者よ!」
「その通りだ。罪を認め、今すぐ自首することを勧める」
「は? 自首って、何言ってるの? 悪いのは全部ルネじゃない! 私を裏切って、浮気したのがいけないんでしょ!」
「エルサ……誤解だと、何度繰り返せば――」
「うるさいっ! 黙って!」
痛々しい姿で椅子に座るお父さんに、お母さんは目を剥いて怒鳴った。
「この人は、幸せにするって言いながら、私を放って独りにしたのよ! 約束を破って、裏切ったのよ!」
「だとしても、暴力を振るったり、命を奪う理由にはならない。あなたが夫にした罪は事実として消えることはないんだ。大人しく自首を――」
「ああああ! 私は悪くない! 何も悪くないんだから!」
叫びながら頭を抱えたお母さんは突然走り出し、ビクトールと私の肩を弾いて外へ飛び出して行った。
「精神的に不安定に見える……あれは追ったほうがいいな。ヨハンナは父親の側にいるんだ」
「は、はい」
ビクトールはお母さんの後を追って家を出て行く。それを見送って私はお父さんに近付く。
「助かってよかった……でも、顔がすごく腫れてる。冷やさないと」
「お前と、あの人のおかげで、命拾いした……だが、今は、エルサを見つけに行くんだ」
「こんな目に遭って、まだお母さんの心配をするの? いい加減に――」
「そうじゃない。私も、これでようやくわかった……エルサの、私に対する愛は、もうないんだと。その証拠に、エルサは私を、信用する気がない……信じ合えない夫婦など、夫婦でいる意味もない。だから、この罪を、しっかり償わせないといけない」
お父さんは断固とした口調で、でもどこか悲しそうな表情で言った。
「お父さん……大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ……エルサを、連れ戻してくれ。顔を冷やすぐらい、自分でできるから……さあ、早く」
お父さんは力の入らない手で私の背中を押す。
「うん……じゃあ、捜してくる」
小走りで家を出て、私はお母さんが消えた方向へ向かった。民家の並ぶ辺りには、明るい時間なのにほとんど人影がない。多分、港の事故で皆行ったままなんだろう。周囲を見渡しながら進んでると、道の先にビクトールを見つけて、私はすぐに駆け寄った。
「どうですか? お母さんは……」
「ヨハンナ、来てくれたのか。狭い路地に入ったところで見失ってしまった。建物が多い場所は道が入り組んでいる上に、私には土地勘がないからね。先回りをするにもどこを行けばいいのか……」
「私も全部の道を知ってるわけじゃないですけど、この近所の道ぐらいなら……最後にお母さんを見たのは?」
聞くとビクトールは一本の路地を指差す。
「あの道だ。入った先の分かれ道で見失った」
「それじゃあ……手前の右の道から行きましょう。向こうの海沿いまで通じてるから、お母さんが先まで行ったなら近道になります」
「わかった。行ってみよう」
私達は並んで道を進んだ。周りは古めかしい建物が囲み、日が傾いてくると影を作って薄暗く、少しだけ気味の悪さを感じるところだ。早く抜けてお母さんを見つけよう――足を速めようと思った時、私は視線の先にあるものを見て、思わず動きを止めた。
「……あれって……」
道の曲がり角、その地面に人の両足が横たわってた。ズボンと靴から男性のようだけど、上半身は角の壁に隠れて見えない。
「誰か、倒れているのか……?」
ビクトールは警戒しながらゆっくり近付く。私もその後に続こうとすると、片手で制してここで待てと言われてしまい、仕方なく言う通りにした。
道の角に着いて男性を見下ろしたビクトールは、見た瞬間に驚きの表情になった。
「こいつは……さっきの男だ」
「え? さっきって……」
「君の父親を襲った、二人組の一人だよ」
それを聞いて私も驚いた。あいつらは叩きのめして追い出したのに――
「な、何で倒れて……仲間割れでもしたの?」
「わからない……理由をたずねるにしても、もう息がないようだ」
ヒッと悲鳴が漏れるのをどうにかこらえた――死んでるって、一体……。
「ど、どうして……何が、起きたの?」
ビクトールは難しい顔で考え込んでたけど、ふと視線を上げると、何かに気付いたように道の先へ歩き出した。
「あっ、待って。どこへ……」
角を曲がった彼を追って私は進んだ。その途中にうつ伏せで横たわってたのは刺青の男だった。ビクトールが切り付けた傷口の血とは別に、胸の下には真っ赤な血だまりができてて、カッと見開いた男の両目は、何もない空間をただ見つめ続けてた。その姿を見ただけで、私の足はどうしようもなくすくんだ。ついさっきまでひどいことをしてた人間が、今は目の前で動かなくなってる……。訳のわからない状況過ぎて、これが現実だと思えない気持ちだった。
「仲間も、同じ目に遭ったようだな」
ビクトールの声に顔を向ければ、道の先にいたもう一人の男の様子を確かめてた。地面に座り込み、壁に寄りかかってうなだれた長髪の男も、胸の辺りを赤に染めてる……。
「……そっちも、死んで……?」
「ああ……胸を刃物で一突きされている」
刃物で……じゃあ、やっぱり仲間割れかもしれない。二人ともナイフを持ってたから、それで――
「しかし、二人は刃物など持っていなかったはずだ。一本は私が持っているし、もう一本は捨てさせたし……」
……そう言えばそうだった。男達は戦意を失って武器も失ってた。それなのに刃物の傷って……仲間割れじゃないの?
「実は隠し持っていたんだろうか。それならどこかに刃物が落ちて――」
ビクトールが死因の凶器を探して周囲をきょろきょろ見回した時だった。彼の背後の壁の隙間から、まるで影が生を受けて出て来たように、物音も立てず、全身黒尽くめの人物が現れたかと思うと、わずかな間も置かずにビクトールに両手を伸ばした。その瞬間、私はその右手に握られた銀色の刃に気付いた。
「逃げてっ!」
咄嗟の叫びにビクトールは振り向く。けれど黒尽くめの人物は彼をがっちりつかみ、刃を振り下ろそうとする――これは、何が、起きてるの?
「くっ……貴様、もしや……!」
逃れようと暴れるビクトールは、持って来たナイフで反撃しようとする。でも相手の力が強いのか、押さえ込まれて思うように動けないでいる――どうしよう、どうにかしないと!
「ヨハンナ、逃げろ!」
まるで私の考えを読んだみたいにビクトールは叫んだ。揉み合って余裕もないのに――
「だ、誰か助けを呼んで……!」
私がそう言った瞬間、黒尽くめの人物の持つ刃が、ビクトールの胸に強引に突き立てられた。
「ぐ、は……」
「ああ……いやああ!」
信じられなかった。ビクトールの顔が苦痛に歪んでく。それを見ながら黒尽くめの人物はさらに刃を押し込む。抵抗してた両腕は相手を押し返す力もなく垂れ下がり、踏ん張ってた足も、もう体重を支えられなくなって折れた。
「そんな、やめて、やめて……!」
ビクトールの身体が傾く。黒尽くめの人物が胸の刃を引き抜くと、流れ出た鮮血と一緒に地面に倒れ込んだ。……こんなの、現実じゃない。いつからか私は、悪い夢でも見てるんじゃないだろうか。だって、こんな惨いことが、目の前で起こるなんてこと――
黒尽くめの人物は刃の血を振り払うと、こっちをじろりと見た。黒いフードに黒いマスク。言葉を発さずとも、ぎらついた鋭い目が、次はお前だと言ってる。威圧してくる恐怖が私を動けない石像に変える……やっぱりこれは現実なのか――意思に関わらず私の全身はガタガタ震え出し、その場で腰が抜けた。ジリ、ジリ、とゆっくり近付いて来る姿を、ただじっと見つめるだけしかできない……。
「この辺で悲鳴みたいな声、聞こえなかったか?」
すぐ近くからそんな話し声が聞こえてきた。私はハッとしたけど、こっちを見る鋭い眼差しが行動をためらわせる。すると黒尽くめの人物は、口元に人差し指を立てて、黙っていろと無言で命令すると、ビクトールの元に戻り、その手からナイフを取って、動かない長髪の男の手に握らせた。あれは一体、何をしてるの? ……そんな疑問を感じてるうちに、黒尽くめの人物は周囲を警戒しながら、道の先へ素早く駆けて消えてしまった。私を殺さなくてよかったんだろうか――変な心配が浮かんだけど、まだ生きてることに深い安堵を覚え、大きく息を吐き出した。
まだ手足が震える。だけど私は行かなきゃいけなかった。倒れたビクトールの元へ――力の入り切らない足を動かし、血の臭いの漂う道を進む。そこには胸から真っ赤な血を流し続ける、青ざめたビクトールがいた。
「起きて……ビクトール……」
両目を閉じた顔に話しかけて、頬にそっと触れてみる。ほんのわずかな温もり……これ以上、冷たくなったら……。
「お願い、起きて……」
懇願するように言った。すると閉じてた目が、うっすらと開いた。それを見て私はすぐに話しかけた。
「ビクトール! た、助けるから! 誰か呼んで来るから、死んじゃ駄目――」
「オクス、には……敵わな、かった、か……」
「オクス……?」
たしか城にいる宰相の名前……急に何で――そこで私は気付いた。
「あの黒い人、あなたを狙ってた、やから……?」
「すまない……危険な、目に……遭わせて……」
ビクトールは浅い呼吸を繰り返して言う。……違う。危険な目に遭わせたのは私だ。私が彼に助けを求めなきゃ……あの家から出さなきゃ、こんなことにはなって……。
「私のせいだ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「これで、よかったんだ……ヨハンナ……君の……ために……」
声がかすれて先が聞き取れない。それでもビクトールは口を動かして何か言おうとしてたけど、それも止まり、瞼をゆっくり閉じ始める。
「……ビクトール? 起きて。どうしたの? 寝ちゃ駄目――」
呼んでも瞼は開かない。私は肩を軽く揺らしてみる。それでも反応はない――胸が苦しい。呼吸ができない。青い顔で眠るビクトールがじわじわと歪んで、滲んだ涙の中に埋もれていく……信じたくない。こんな現実――
「おい! こっちに誰か倒れてるぞ!」
道の奥から大声が聞こえた。誰かが来たらしい。何だこれはとか、死んでるぞとか言いながら、私のほうへ気配が近付いて来る。
「お嬢さん、あんたは無事か?」
心配する男性が声をかけてくる。でも私には答える気力なんてなかった。止まらない涙で息が詰まって、その苦しさで何もかもが真っ暗に感じるだけだった。
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