十四話
門番の買収を知ってから数日……今のところビクトールは危険な目に遭ってはおらず、やからも姿を見せることはなかった。私は買収されたふりをして門番に話を聞いてみたりしたけど、彼らは頼まれたこと以外には何も知らないみたいで、やからがどんな計画を立ててるのかはわからなかった。動きがなければないで、それもまた不気味で怖い。ビクトールは冗談交じりに、諦めて本土へ帰ってればいいがなんて言うけど、買収までしてそんなことはあり得ない。私もビクトールも外の様子は常に注意する……そんな毎日を送ってた。
そして、今日も何も異変がないまま、私は仕事を終えて家路についた。でも帰り道は決まって不安になる。暗くなった時間帯こそビクトールが襲われる可能性が高い。明日行ったら、部屋に彼が倒れてるんじゃないか……毎回そんな想像がよぎるけど、あの家に泊まり込むわけにはいかない。世間的に彼は罪人なんだ。私がそう願っても、お父さんは許してくれないだろう。ただ助けになりたいだけなのに……この世は、ままならない……。
明日も無事なビクトールに会えることを願ってるうちに我が家が見えてきた。夕食は何を作ろうか――
「最低な男ね!」
女性の怒る大声に、私は道の先を凝視した。見慣れた我が家の玄関前……よく見れば三人の人影がある。あれは、お父さんと……その後ろにいる女性は誰だろう。知らない人だ。そしてお父さんと対峙してる、大声を上げた女性――お母さんだ。その姿を見ただけで、私の足は歩く気をなくした。あの人にはなるべく近付きたくない。特に荒れた波と化してる時は……。
「久しぶりに帰って来てみれば、若い女を家に連れ込むようになってたなんて!」
「そうじゃない。彼女は前に言った、仕事先の会社の――」
「仕事先の従業員と浮気だなんて、本当に最低ね! あなたの部下が知ったらどう思うかしらね!」
お母さんはろれつの怪しい口調で怒鳴り続ける。そのうるさい声で近所の人達が何事かと顔を出したり、足を止めて様子をうかがってる。近所迷惑の上に、いい恥さらしだ……。
「エルサ、酒を飲んでるのか?」
「飲んでたら何よ。問題があるっていうの?」
「私の言うことをちゃんと聞いてくれ。彼女は、私達のために来てくれたんだ」
「私達? あなたのためでしょ! あなたがいちゃつきたいから――」
「だからちゃんと聞くんだ。君が、私の浮気を疑い、その浮気相手と誤解されてると言ったら、彼女は申し訳ないと誤解を解こうとしてくれたんだ。でも君はなかなか帰って来ないから、打ち合わせの仕事をここでやりながら話をする機会を待ってたんだよ」
「そ、そうなんです。グレーベルさんに、そう頼まれまして、私も、誤解を与えていたなら、それは本当に申し訳ないと思いまして……」
仕事相手の女性は恐縮しながら前に出ると、平謝りの姿勢で言う。……あの雰囲気や困惑した表情からは、本当に浮気じゃなかった感じがする。これは単なる誤解。お父さんは浮気なんてしてない――
「何が申し訳ないよ! そんなことこれっぽっちも思ってないくせに! 嘘しか言えないなら黙ってなさいよ!」
「ひっ……」
お母さんに怒鳴られた女性は怯えて身を縮める。
「やめないかエルサ、彼女は誤解を解きに来てくれたんだぞ」
「誤解って何よ。あなたの浮気は本当のことじゃない!」
「浮気なんてしてないと、何で信じてくれないんだ? 私はエルサ、君を大事に思ってる」
「白々しい……あなた、この女といちゃつき過ぎて、嘘つきがうつったみたいね」
「嘘じゃないんです! グレーベルさんはご家族のお話になると、いつも笑顔で奥様のことを――」
「ごちゃごちゃとうるさい女ね! 邪魔よ! どっかに消えて!」
お母さんは手を伸ばすと、女性の胸ぐらをつかもうとする。喧嘩でもするつもり……?
「エルサ、やめろ!」
すぐに割って入ったお父さんが、つかみかかるのを寸前で防いだ。
「……どういうつもり? その女をかばうわけ?」
「君が彼女をつかみに行ったから、それを止めただけだろ。何言ってるんだ」
「それが、かばったって言ってるんでしょ!」
「君の暴力を止めて、どっちも傷付かないようにしただけだ」
「暴力? 私は暴力なんて振るってないわよ!」
「彼女をつかもうと……はあ、もういい。酔ってる君に言っても無駄みたいだ」
「酔ってないわよ! ほら、ちゃんと立ってるし、話もできてるじゃない」
「駄目だ。酒のせいで冷静な考えができてない。少し休んでから、またこの話をしよう。さあ、家に入るんだ」
背中を押そうとしたお父さんの手を、お母さんはわずらわしそうに払い除けた。
「触らないで! 一人で入れるわよ!」
「わかった。……本当に申し訳ないが、もう少しだけ、付き合ってくれますか?」
「は、はい……」
身を小さくしながら女性も家に入ろうとした時だった。
「ちょっと、何でその女を入れるのよ」
振り返ったお母さんが二人を睨んだ。
「何でって、誤解を解くためには話を――」
「やめてよ! そんな嘘つき女、家に入れないでよ! 部屋が汚されるわ!」
お母さんは戻って女性に詰め寄った。
「図々しいわね。近付かないでよ!」
次の瞬間、お母さんは女性の胸を強く押した。お父さんが止める間もなく――
「きゃっ――」
小さな悲鳴を上げた女性はよろめいて、危うく尻もちをつきそうになった。
「エルサ! 何をするんだ!」
珍しく怒鳴り声を上げたお父さんは、怯える女性に近付く。
「……大丈夫でしたか? どこか痛めたりは――」
「へ、平気ですから……私、もう帰ったほうが、よさそうですね……」
「こちらが頼んだというのに、本当に申し訳ない……エルサ、謝るんだ。せっかく来てくれた方を突き飛ばすなんて、失礼にもほどがあるぞ!」
「何で? 謝るのはその女のほうでしょ? 浮気なんかしといて――」
「違うと言ってるだろ! それは君の思い込みで、彼女は関係ない!」
「私が違うっていうの? 頭が変だっていうの?」
「そんなことは言ってないだろ」
「言ってるも同じことよ! 私の言ったことは間違ってて、どうかしてるってことなんでしょ! だからっ、だからっ、私を捨てて、その女と一緒になるつもりなんでしょ! わかってるんだから!」
遠目から見てても、お母さんの様子はいつもと違った。たまにああして興奮したように怒鳴りはしてたけど、今回はその興奮や怒り度合いが増してる。まるで感情が一線を越えたみたいに、受け止めきれなくなった心の器から、それが一気に溢れ出してるみたいに……。
「何馬鹿なことを言ってるんだ。何度も言ってるように、彼女は仕事の――」
「うるさい、うるさいっ! ルネ、あなたも嘘つきよ。私と幸せを誓いながら、結局その女を選んだんだから……」
「勝手な話をするな。私は君しか――」
「あ、あの、私がいると迷惑がかかりそうですから、これで、し、失礼します……仕事のお話は、また、後日に……」
後ずさりし出すと、女性はそう言ってその場から逃げるように走り去って行った。
「……追いたいんでしょ? 追えばいいじゃない!」
「エルサ、少し休むんだ。酔いが醒めたらまた――」
「気遣うふりなんかいいわよ! 絶対に許さないんだから……私を裏切って、私を孤独にさせた報いは、必ず受けてもらうわ! 必ず!」
お母さんはお父さんを乱暴に押し退けて立ち去る。
「待つんだ! どこへ行く……」
呼んでもお母さんは立ち止まらず、そのまま道の先へ消えて行った。あれじゃ耳なんか貸してくれそうにない。お父さんもそう思ったんだろう。姿の消えたほうを見つめたまま、肩を落として立ち尽くしてた。隣人の痴話喧嘩が終わって、遠巻きに眺めてた人達もバラバラと散って行く。辺りに静けさが戻り、家の立ち並ぶ通りは普段の光景を取り戻す。でもお父さんは家の前に立ったまま動けずにいた。私はようやく動いた足で近付いて、その背中に声をかけた。
「お父さん」
ハッとした顔が振り向くと、それはすぐに笑顔を浮かべた。
「ああ、ヨハンナ……お帰り」
「ただいま……また話、できなかったね」
一瞬丸い目がこっちを見たけど、次には小さな溜息が漏れた。
「……誤解された彼女と話をすれば解決するかと思ったんだが、逆効果だったみたいだ。あんなに怒らせるとはな」
「でも、あの女の人を連れて来るしか誤解を解く方法はないんだから……悪いのは、浮気を信じ込んでるお母さんのほうだよ」
「そう信じ込ませてしまったのは私のせいだ。満足に構ってやれず、エルサを独りにさせてたんだ」
「だからって、勝手に裏切られたって決め付けて、一方的に非難するのはひどいよ。お父さんだって仕事で大変だったのに、その話すら聞かないなんて……」
胸に溜まる苛立ちが、私にこんな質問をさせた。
「ねえお父さん、お父さんはあの人を、まだお母さんでいさせるの……?」
案の定、お父さんは私に寂しい眼差しを向けた。見るとこっちまで寂しくなるような目……だけど、聞かずにはいられなかった。
「ヨハンナには迷惑をかけてると思ってる。だがこれは単なる誤解で、お互いの心のすれ違いなんだ。エルサに話を聞く余裕さえできれば、時間はかかっても誤解は解けるはずだ」
「お母さんに、そんな余裕なんてないように見えた……」
あの怒りに駆られた様子、怒鳴り声……余裕のかけらもなかった。
「もう、いいと思う。あの人に甘くするのも、期待するのも……皆、疲れるだけだよ」
「すまない……」
お父さんは私の肩にそっと触れて、それだけ言った。別れるとか、終わりにするとか、私の望む言葉は言ってくれない。つまりまだ続くんだろう。形だけの家族は……。私はもう、とやかく言う気はない。お父さんの気持ちがそこまで強いなら、それを見守るだけだ。でもあの人に優しさが戻るなんて淡い期待はしない。さっきの怒り……あれは尋常じゃなかった。
『――私を孤独にさせた報いは、必ず受けてもらうわ! 必ず!』
復讐を宣言するような言葉……怒りに任せて言っただけだと思いたいけど、まさか本当に何かやるわけ、ないよね……でもそう思わされるぐらい、お母さんの怒りは頂点を越えてた。妙な不安を覚えてしまう。大丈夫だと、思いたいけど――そんな不安はベッドに入っても、しつこく胸に残り続けた。
夜が明けた朝、いつも通り朝食作りをしながらも、昨日の不安はまだ消えずにくすぶってた。もぬけの殻のお母さんの部屋を横目に、私はお父さんと二人で朝食を食べる。そのお父さんを仕事へ見送った後、洗濯、掃除を済ませて家を出る。商店通りで食材を買い込み、真っすぐ罪人の家へ向かう――普段と同じようにしてれば気も紛れるかと思ったけど、昨日から続く不安感はどうにも消えてくれない。それだけあの時のお母さんの怒り方は強かった。お酒の力を借りた人間が怒りを見せたら、一体どんなことをするのか……嫌な想像ばかりが浮かんでしまう。
「……おはようございます」
到着して居間に入るけど、ビクトールの姿は見えない。まだ二階だろうか。私はとりあえず台所へ行って、買った食材を買い物かごから取り出す。
「おはよう、ヨハンナ」
しばらくすると後ろから朗らかな挨拶が聞こえて、私は手を止めて振り返った。
「おはようございます。……何も、ありませんでしたか?」
彼が狙われてると知ってから、私は毎日こうして異変がなかったかを聞くのが日課になってしまった。こう聞いて、無事な姿を確認して、安心してから家事にとりかかるのだ。
「何もない。静かな夜だったよ。……毎度私の心配ばかりさせて、何だか申し訳ないな」
ビクトールは苦笑いを見せると、金色の頭をポリポリとかく。
「そんなことありません。これを聞かないと、私も安心できないんで」
「だが、他人の心配なんてしていると疲れるだろ? 君の顔、心なしか暗く見える」
指摘されて私はすぐに否定した。
「こ、これは違うんです。別にあなたの心配で疲れたわけじゃ……」
「では他に理由でも?」
「えっと……」
彼になら、この不安を聞いてもらってもいいだろう――私はビクトールと向き合い、言った。
「お母さんのことで、まだ……」
「以前にも話してくれたが、上手く話せていないのか?」
嘘をついたまま聞いてもらうのはちょっと辛い……ここはもう正直に言おう――
「……実は、私のお母さんは、継母で、血はつながってなくて……ここずっと、関係が上手く行ってないんです。お父さんも同じで……浮気を疑い始めてから家に帰ることもなくなって……昨日も、お父さんが浮気は誤解だと話そうとしたんですけど、聞いてもくれなくて……必ず報いを受けてもらうって捨て台詞を言って、どこかへ行っちゃって……私はもう、あの人には近付きたくないんです。でも、最後の言葉が気になって……お父さんに、何かするんじゃないかと不安で……」
ビクトールを見ると、真面目な顔がこっちを見てた。
「本当に、恥ずかしい話なんですけど……」
「いや……それでも話してくれたのは、悩んでいて辛かったからだろ? 隠さず話すのは勇気のいることだよ。話してくれてありがとう」
優しい笑みを見せると、ビクトールは腕を組んだ。
「それで、あまり深く聞くべきじゃないのはわかってるが、一応聞いておきたい。君の父親は実際、浮気行為をしてしまったのか?」
「してません。仕事で協力してる女性と一緒にいるところを見て、お母さんは浮気だと思い込んでるだけなんです。その女性を連れて来て誤解を解こうとしたんですけど、全然信じなくて……」
「そうか。思い込みの激しい人は、いくら真実を伝えても、自分の信じるもの以外には見向きもしない。そこに怒りが混ざって感情的になれば、より頑なに突き放すだろうね。父親はどういう対処を?」
「どうにか話す機会を見つけようとしてますけど、お母さんは家に戻らないし、その気もなさそうだし、どうしようも……」
「ヨハンナは? 母親をどうしたい?」
「私は、どうするつもりもありません。前にあの人は私を、娘なんかじゃないって言ったんです。だから私も、形だけの母親でしかないと思ってます。そもそも受け入れたのはお父さんのためだし……。もしあの人がお父さんに何かする気なら、私はお父さんを守りたい……ただそれだけです」
「なるほど……私は両親を失って、その喪失感を経験しているからね。この世でたった一人の母親との仲を修復すべきだと考えていたが、そういう事情があるのなら話は別だ。君はまだ若いが、分別がつけられないわけじゃない。新しい母親と言われても、それを認めないことだってできる。父親は不満に感じるだろうが、君は君なんだ。辛く当たって来る相手と無理に一緒にいることはない。いれば君が傷付くだけだ。母親のことは全部、父親に任せるのがいいだろ」
「でも、万が一お父さんに何かあったら、私はどうすれば……」
「母親が本当に意趣返しを考えているのなら、その時は助けを求めるんだ。ヨハンナ一人でどうにかしようとしちゃいけない。私なら助けに――いや、この身じゃできることに限りはあるが、だがそれでも言ってほしい。私なりの助けができるかもしれない。辛い気持ちを抱えていても、その重みに自分が潰されるだけだからね」
「はい。ありがとうございます……やっぱり、あなたに話してみてよかった。気持ちがちょっと、軽くなった気がします」
「だったら何よりだ。……さあ、母親のことはひとまず忘れて、今日を明るく始めよう」
にこりと笑顔を残してビクトールは台所を出て行く――独りで悩むことなんかない。私には話を聞いてくれる存在がいるんだ。こんなに心強い人はいない。だから大丈夫。不安にならなくていい。きっと、何も起こったりしない。ビクトールの言う通り、あとはお父さんに任せておけば大丈夫――私は膨らみかけてた不安をなだめるように胸を撫でてから、再び買ってきた食材と向き合う。
今思えば、このしつこい不安は、何か悪いことが迫ってる証だったのかもしれない。嫌な予感……それを私は確かに感じてた。感じるだけで、この先に何が待ってるかなんて、考えもしてなかった。
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