十話

 部屋と庭の掃除を終えて、私は額に滲む汗を拭った。今日は普段より少し暑いから、動いてると汗が出てくる。でも今日の掃除はこれで一段落した。あとは夕食作りを残すだけだ――掃除道具を片付けて居間につながる廊下を進むと、その途中にビクトールの姿を見つけて私は足を止めた。窓際に立って、何やら外の様子を険しい表情で見てる。この時間は二階の部屋にいることが多いのに、何をしてるんだろうか――


「何を、見てるんですか?」


 声をかけると、ビクトールはすぐにこっちへ顔を向けた。険しい表情は瞬時に消えて、代わりに穏やかな笑みがあった。


「ああ、ヨハンナ。掃除は終わったみたいだね。ありがとう」


「いえ……そこから、何か見えるんですか?」


「まあね。見慣れないやからがうろついているみたいでね……」


「え? やからって……」


 まさか泥棒? 私は窓際に近付いて外を眺めた。でも前庭と塀、そこに沿った道が見えるだけで怪しい人影は見当たらない。


「もう行ってしまったからいないよ」


「泥棒は、こっちを見てましたか?」


「泥棒? いや、彼らは盗みに来たんじゃないと思う」


「でも、やからって……賊とかじゃないんですか?」


「おそらくね。また別の目的があって来たんだと思う。何か、嫌な感じだ……」


 顔は曇り、また険しい表情が浮かぶ。その様子に私は首をかしげた。見慣れないやからと言いながら、泥棒じゃないと言ったり、別の目的があると言ったり、ある程度見当がついてるような口ぶりだ。何か心当たりでもあるのか……?


「知り合いじゃ、ないんですよね?」


「ああ。初めて見るやつらだ。ここの住人には見えなかったし、多分、本土の人間だろ」


「盗みが目的じゃないなら、本土からわざわざ何しに……?」


「まだ断言はできないが……この家の周りをうろついている様子からして、私に何かしらの用があるんだろうさ」


 罪人のビクトールに、今さら何の用があるっていうの?


「用って、一体どんな……?」


 これにビクトールは長い間を置いてから言った。


「……私も、君と同じように嫌がらせを受ける身でね。流刑にされても、それは続いているようだ」


「嫌がらせ? それが目的なんですか?」


 ビクトールはフッと笑う。


「違うと思いたいがね。だが、その可能性は大きい」


「何なんですか、嫌がらせをしに来るって。まるで子供みたいな目的……」


「実行するのは大人だ。子供がやることとは違う。……この先、予期せぬ危険が起こるかもしれない。だからヨハンナ、君はこれから日が暮れ出す前に帰ったほうがいい」


 真剣な顔で言うビクトールを見て、私は胸のざわめきを覚えた。


「そんな危険なこと、されるんですか? そんなに危ない人達なんですか?」


「用心のためだ。何もしないかもしれないし、数日後には本土へ帰っているかもしれない。だが万が一ヨハンナを巻き込むようなことになったら、私は自分を許せない。だから頼む。安全のために早く帰るようにしてくれ」


 私の身を心配するほど危険なことをする人達なんだろうか。


「外には毎日、門番がいてくれますから、きっと追い払ってくれます。大丈夫ですよ」


 ざわめく胸を押さえながらそう言うと、ビクトールはゆるゆると首を横に振った。


「私が見る限り、悪いが彼らじゃ力にならないと思う」


「どうしてですか? 島の自警団員ですよ?」


「自警団と言っても、有志を集めた素人集団に過ぎない。まあ、他の住人よりは腕っ節に自信はあるんだろうが……それでも、事が起こったら対処は難しいだろ」


「……誰なのか、本当は知ってるんですか?」


 聞くと苦笑した顔がこっちを見る。


「先ほどのやからはまったく知らないが、やつらの影にあるものは何となく感じてる程度だ。だがそれは君には関係のないことだ。……とにかく、私の言う通りにしてほしい。そうすれば少しは安心できる」


 そう言われたら断ることもできず、私は頷くしかなかった。彼に迷惑や心配はかけられない。一緒にいられる時間は少し短くなるけど、気遣ってくれる気持ちを無視することはできない。残念、だけどしょうがない……。


 その後、私はいつもより早く夕食作りに取りかかり、まだ青空が見える夕方、ビクトールに見送られて家路についた。早めに帰って、もしお母さんがいたら、また何か言われるかもしれないな。言い訳でも考えておいたほうがいいかな。それともどこかで時間を潰すべきか。でも特に用事もないし、ふらふらしてるとアンジェリカに見つかりそう――あれこれ考えてるうちに、目の前にはもう我が家が見えてきてた。お母さんがいないことを祈るしかないか――歩幅を狭くしながら、恐る恐る進んでた時だった。


 家の玄関扉がバンと大きな音を立てて開いたかと思うと、苛立ったような早足でお母さんが家を出て行く姿があった。また何かあったんだろうかと心配になるのと同時に、どこかへ行く後ろ姿に安堵する気持ちも湧いた。これで聞かれずに済んだ――元の歩幅に戻した私は、開けっ放しにされた玄関をくぐる。


「おお、ヨハンナ、お帰り。今日は早いんだな」


 中へ入ると、ちょうどお父さんとかち合わせて、お互いに驚いた顔になった。


「お父さんこそ、もう仕事終わったの?」


「今日は部下に無理言って、早めに帰らせてもらったんだ。エルサと、話す時間を作ろうと思ってな……」


 そう言った顔が暗くうつむく。……それが、お母さんが出て行った原因らしい。


「出て行く姿が見えたけど……お母さん、どこ行ったの?」


「外で食べると……一緒に夕食を食べるつもりだったんだが、嫌だと言われてな」


 お父さんは大きな溜息を吐く。


「話、できなかったの?」


「まあな……さあ、とりあえず入れ」


 私を部屋に入れ、玄関を閉めたお父さんは、困り切った様子で椅子に座り込む。


「浮気なんて誤解だと、丁寧に説明したんだが、まったく聞く耳を持ってくれなくて……これ以上、どう言えばいいのかわからないよ」


「お母さん、相当怒ってるんだね」


「誤解をさせたことは悪いと思ってるが、エルサも少しは心を開いてくれないと、こっちはきっかけも何もつかめないままだ。こんな状態、いつまでも続けたくないんだが……」


「無理に話しても、もっと不機嫌にさせるだけだよ。お母さんが話す気になるまで待つしかないんじゃないかな」


「しかし、ヨハンナもこのままじゃ嫌だろ?」


「私は……別に大丈夫。お母さんがいてもいなくても、どっちでもいい」


 眉をひそめたお父さんがこっちを見た。


「やっぱり、エルサが嫌いか」


「あの人は、私を娘なんかじゃないって言った」


「それは、ただ勢いで出た言葉だ」


「だとしても、心の底にはそういう気持ちがあったってことでしょ? じゃないと言えない言葉だよ。そう思うなら、私もあの人をお母さんなんて思いたくない……」


 本音がこぼれて、私はお父さんを見た。その顔はひどく悲しそうに沈んでた。


「ごめんなさい、お父さん。お父さんのためにも好きになりたかったけど、頑張っても、駄目みたい……あの人は、好きになれない」


「そうか……」


 吐息混じりの声が空気に溶ける。気まずい静寂が居間に広がっていく。お父さんが愛した人を悪くは言いたくないけど、私はあの人を家族にはできそうにない……。


「エルサはきっと、私のせいで変わってしまったんだ。優しかった頃の彼女を取り戻したい……それが、本当のエルサなんだ。わかってくれ」


 光を残した目が私を見つめながら言う。


「優しかった頃のお母さんは私も知ってる。でもあれが本当のお母さんだったのか、私にはわからない。感情のままに怒鳴る今こそが本当の姿なんじゃないかって、私は思う」


「そうじゃない。今のエルサは、本当のエルサじゃない」


「じゃあ、お父さんがどうにかして。私はお母さんに何もできないけど、お父さんのことは助けられるから……お母さんを、元に戻して」


「ああ。また話してみるよ。根気強くな」


 私の腕をポンポンと叩いてお父さんは微笑んだ。正直に言えば、私はこのままでもいいと思ってる。お母さんの機嫌を毎日うかがうぐらいなら、父親と娘の二人だけで過ごすほうがましだと思う。だけどお父さんはそうはいかないんだ。お母さんを愛してしまったから。そして私はお父さんを愛してる。仲直りしようと頑張ってるのに、それを止めることはできない。だから後ろから助けてあげるしかない。どんな助けができるかわからないけど……。


 でもその後、私がお父さんを助けられる機会はなかった。なぜなら、お母さんが家にまったく帰って来なくなったからだ。


 家を出て行った姿を最後に、お母さんを見かけることがなくなってしまった。これまでは一日中出かけてても夜には部屋に戻ってたのに、今は朝起きてもいない、仕事から帰ってもいない……そんな状況が何日も続いてた。お父さんは家出をされたと落ち込んでる。そして自分のせいだとも思い込んでる。私は慰めの言葉をかけたけど、あんまり意味はなさそうだった。お母さんがいてくれないと、何も解決しそうにない。


 そんな日々が続いても私は私のやるべきことをするしかなくて、今日も罪人の家へ行く前に食材の買い出しで商店通りへ行った。


「ねえ、あなた、グレーベルさんとこの娘さんよね」


 通り過ぎようとした小物屋の店主に話しかけられて、私は振り向いた。


「え? あ、はい。そうですけど……」


「お母さんの……エルサさん? だっけ。大丈夫なの?」


「何の、ことですか……?」


 意味がわからず聞き返すと、店主は私に顔を近付けて小声で言った。


「昨日の夜、用事で出かけてたんだけど、帰り道でエルサさんを見かけてね。今にも転びそうなぐらいの千鳥足でフラフラ歩いてたわよ。一目で相当飲んでるってわかったわ」


 嫌気が差すお節介な報告に、私はそれが顔に出ないよう懸命にこらえた。やっぱりお酒に逃げてるのか。


「お、お母さんは、お酒が大好きで、量を減らすようには言ってるんですけど――」


「それと何日か前にも、向こうの酒場で夕方頃だったかしら。柄の悪い男達と酔っ払ってドンチャン騒ぎしてるのを見かけたわ。酒場のご主人、迷惑そうにしてたわよ。お母さんに言っておいたほうがいいと思うけど」


 酒場か――大きな溜息を呑み込んで、私は笑みを作って言った。


「今度、お母さんに言っておきます……」


 その場を離れようとしたけど、店主はなおも話しかけてくる。


「酒場で見かけたのはそれ一回だけじゃないのよ。何週間か前にも見たし、知り合いも見たって言ってるの。お母さん、グレーベルさんと喧嘩でもしてるの? まあでも歳の差があるから、そういうこともあるわよね。十歳ぐらいの差だった? もともとは本土の方だし、島民のグレーベルさんとは合わない部分も――」


「あの、すみません。私、仕事に行かないといけないんで、これで……」


「あら、ごめんなさい、引き止めちゃって。……お母さんのこと、グレーベルさんにも言ったほうがいいわよ」


 私は軽く会釈して離れた。そして歩きながら呑み込んでた溜息を一気に吐き出す。お母さんは酒場にまた入り浸ってるらしい……いや、私が知らないだけで、家にいた時からずっと通ってたのかもしれない。裏切られたという誤解をお酒で癒すために……。でも、私は何もできない。娘じゃないって思ってる娘に言われて、大人しく家に帰るとも思えない。だけど、このまま放っておけば、お父さんや店の人達に迷惑が――


「グレーベルさんの娘さん、だよな?」


 不意に呼び止められて顔を向けると、そこには酒屋の店主が立ってた。……今度は何だっていうの?


「お母さん、今、家にいるかい?」


「今は、出かけてて……」


 これに店主は残念そうに息を吐く。


「そうか……実はさ、お母さん、よくここで酒を買ってくれるんだけど、ツケが大分溜まってるんだ。こっちの生活もあるから、そろそろ払ってもらいたくて……」


 私の脳裏に何本もの空き瓶が転がるお母さんの部屋の光景が浮かんだ――あれは全部、この店でツケたお酒……。


「そ、そうだったんですか。ごめんなさい、迷惑をかけてしまって……あの、明日、お金を持って来ますから、それでいいですか……?」


「払ってくれるっていうなら一週間後でもいいけど……結構額が行ってるから」


 私は金額を教えてもらい、明日持って来る約束をして酒屋を去った。呆れて、もう溜息も出ない。すでにお母さんは周りに迷惑をかけてる。関わりたくないけど、書類上は私の母親だし、無視するわけにはいかない。でも、私はあの人に何もできない。できないのに、どうしろっていうの……。


 食材を買い込んで、私は一路罪人の家へ向かう。到着して台所に入り、料理をしてる最中も、私の頭はお母さんという頭痛の種で重かった。出来上がった料理をビクトールが美味しそうに食べてくれるのをぼんやりと眺めて、その食べ終えた皿を片付ける。そして洗濯に取りかかろうと移動しようとすると、居間から出て来たビクトールが話しかけてきた。


「これから洗濯か?」


「はい。そうですけど……何か用事ですか?」


「そうじゃないが……食事中、ずっと気になってね。何だか浮かない顔をしてたから」


「あ……すみません……」


「謝ることじゃない。……何か、心配事でもあるのか?」


 彼に話して、どうにかなるだろうか……。


「遠慮は要らない。話を聞くよ。まあ、話したくないことなら仕方ないが」


 お母さんのことを話すのは恥ずかしい気もするけど……でも、この頭の重さもどうにかしたい。話せば、少しは軽くなるかな――


「今お母さんと、いろいろ問題があって……どうすべきか、わからないんです」


「以前、母親とは仲直りしたんじゃなかったか? また険悪になったのか?」


 そう言えば、前にビクトールにはそういう嘘を言ったっけ……。


「えっと、また別の問題が起きて……お母さん、酒場に入り浸って、そこのご主人に迷惑をかけてるみたいなんです……」


「ほお……酒が好きな母親なのか?」


「まあ、そうですね……数ヶ月前から飲む量が増えて……」


「それはなぜ? 何か原因やきっかけでも?」


「あ、その……」


 お父さんの浮気を疑ってるから、なんて、さすがにそこまでの事情は恥ずかしくて言えない……。


「……言いたくないのなら言わなくてもいい。他人に知られたくないこともあるだろ。……それでヨハンナ、君は母親をどうしたいんだ? 飲酒をやめさせたいのか?」


「それもそうなんですけど、まずは酒場に入り浸るのをやめさせないと……周りの人達に、迷惑がかかってるみたいですから」


「つまり酒場通いをやめさせて連れ帰りたいのか。……父親は、これについては?」


「お父さんは、話をしようとしてるんですけど、お母さんがそれを拒んでて……」


「話す余地を与えてくれないのか。それは難しいね……。そうなると、頼みの綱は娘の君だけになるね」


「私……?」


「ああ。以前仲直りできたのなら、今回も上手く話して説得できるんじゃないか? 母親がひどく酔っていなければだが」


「は、はあ……」


 彼は私の嘘も、今家族内がどうなってるかも知らない。知らない上でのこの助言は……。


「不安な気持ちになるのもわかるが、だが傍観していても解決はしない。時間が経てば経つほど悪くなる一方だろ。それなら早めに君が話をして連れ戻すしかない。母親も、酔いが醒めれば娘の君に感謝するはずだ」


 娘――連れ戻したいからって娘に戻るなんてこと、私はできない……。


「心を伝えるように話せば、きっと母親にもその思いは伝わるよ。親子とはそういうものだ」


 励ますように肩を叩かれた私は、笑顔を作って言った。


「……わかりました。話して、説得してみます」


「それがいい。上手く行くのを祈っているよ。だが焦りは禁物だ。いい機会を見つけて話したほうがいいぞ」


 ビクトールは笑みを残して立ち去った。それを見送って私は洗濯室へ向かう――あの人に、私の心なんて伝わらない。というか、伝えたい心なんてものはない。もう親子と思えなくなったから。でも、ビクトールが言うように、見てるだけじゃ何も解決しないし、状況は悪くなるだけだろう。お父さんを拒むなら、代わりに私がどうにかするしかない。嫌だけど、他人に頼めることでもないし、私が連れ戻すしかないんだ……こう思えただけでも、彼に話してみた甲斐はあったのかもしれない。


 夕食を作り終えて仕事を済ませた私は、いつもの家路から外れて酒場へ続く道を進んだ。まだ太陽も青空も見える日暮れ前、辺りに人影も多い。こんな明るい時間にお母さんが酒場にいるかわからないけど、とりあえず確認してみないことには始まらない。いなければ夜にまた来ればいいだけだ。


 でも酒場のある通りに近付くにつれ、私の足は緊張で重くなり始めた。小物屋の店主の話じゃ、ドンチャン騒ぎをして飲んでたとか。想像しただけで悪夢のようだった。世間的にはその人の娘が私なんだから。きっと周りは白い目で見てくるだろう。母親失格だとか、あの家はどうなってるとか……確認したくない。前へ進みたくない。だけど行かなきゃ。これも、お父さんを助けるためと思って……。


 道の角を左へ曲がる。そこを行けば酒場はもう目の前に見えてくる――緊張で動きの硬い足を動かして、角を曲がった先の建物を見やる。横に長く、平たい木造の建物が酒場だ。通りに面した窓と入り口の扉は開け放たれてて、中に数人の人影があるのが見える。あの中にお母さんがいないのを願いながら、私は遠巻きに酒場内をのぞき見た。


「ギャハハハハ!」


 その直後、中から男性の豪快で楽しそうな笑い声が漏れてきた。それに重なるように別の笑い声も聞こえる。数人の仲間で飲んでるようだ。その様子を確かめようと目を凝らして確認した時、私は見つけてしまった。


「……お母さん……」


 明るい時間からまさか飲んでないだろうという頭があったから、その姿を見つけて呆然となった。お母さんは見知らぬ男性達と丸机を囲んで、実に楽しそうにお酒をあおってた。笑顔で話す声は酔ってるせいで大きく、離れたここまで聞こえてくる。


「――やっぱあんたは、いい女だな」


「まったくだ。俺達なんかに何度もおごってくれるなんて、どんだけ太っ腹なんだ?」


「私は太っ腹なんかじゃないわよ。ほら、触ってみて。細いでしょ?」


 お母さんは隣の男性の手をつかむと、自分のお腹に押し付けた。そういう意味じゃねえよと男性が言うと、皆は揃って笑う。


「いいねえ、金持ちは。旦那はグレーベル海運の社長だっけ? そんないい相手、どうやって物にしたんだ?」


「手練手管で上手いことやったんだろ?」


「失礼ね。私は頭で考える人間じゃないの。あの人がこの美貌に惚れたから、私はちょっと優しくしてあげただけ。そしたらプロポーズされたのよ。簡単な人だったわ」


 そう言いながらお母さんは隣の男性の膝の上に、スカートのはだけた自分の足を乗せた。その白く細い脚線美に誰かがヒューと口笛を鳴らす。


「いけないなあ、人妻が独身男に、こんな綺麗な肌を見せちゃ……」


 足を乗せられた男性がそっと触れようとすると、お母さんはその手をピシャリと叩き、足を下ろす。


「やめて。酒はおごるけど、こっちはおごらないわよ」


「おい、余計なことすんな。酒飲めなくなるだろ」


「単なる冗談だろが。うるせえな……今日も朝まで飲ませてくれるんだろ?」


「いいわよ。あなた達に飲ませるだけのお金は持ってるから、好きなだけ飲んで」


「その金、旦那のだろ? こんな使われ方してるって知ったら怒るんじゃねえの?」


「はんっ、あの人に怒る権利なんてないわよ。私をほったらかして、若い女と浮気してるんだから。その女にお金を使わせるぐらいなら、私が全部使うわ」


「浮気されてんの? ひでえ旦那だな……よし、今日はエルサを慰めてやろうぜ。ジャンジャン飲んで、気分悪いことは忘れよう!」


「いいねえ。……おーい、こっち、酒のおかわりと、つまみの盛り合わせね」


「この前みたいに、また演奏呼んで歌うか?」


「いいわね。あれ、すごく楽しかったわ。呼びましょうよ!」


 お母さんを囲む集団はワイワイ盛り上がってる。周りなんか気にせず、大声で話して、笑って、お酒をあおる。その中心にいるお母さんも満足そうに笑ってる。その様子はまるで女王みたいだ。お酒で言うことを聞かせて、かしずかせる……でも軽薄そうな男性達の目当てはあくまでタダ酒で、この瞬間を楽しむことしか考えてないのは私でもわかる。あんなの、まともな人達じゃない。店内の隅に座る客や、カウンターの奥に立つ従業員の顔は一様にしかめっ面で、言葉に出さなくても迷惑してるのが見て取れる。とてもじゃないけど、あんなところに割って入って行く勇気はなかった。話して説得して、連れ帰るつもりだったけど、あんな人、家に連れ帰りたくない。帰る気がなければ、ずっと帰って来なくてもいい……そんな気持ちだった。周りに迷惑かけるなら勝手にすればいい。私はもうあの人とは関係ないし、近寄ることもない――悲しみなのか怒りなのかわからない。急激に胸に渦巻いた感情が私を家路へ引き返させた。その時にふと見えた建物の窓ガラスには、酒場の客と同じ顔をした自分が映ってた。

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