十一話

「……終わった」


 私は膝の上で本を静かに閉じた。爽やかな風が流れる空を見上げて、しばし本の主人公に思いを馳せる。純粋な気持ちは相手に伝わらなかったけど、でもこれも、ある意味よかったのかもしれない。おかげで新たな道を行く決心ができたんだから。ということは、続編はそれが描かれるわけか……はあ、読むのが楽しみ過ぎる。


 まだ余韻に浸りたい私は、一度閉じた本をペラペラとめくって印象的な場面を軽く読み直す。ここが運命の分かれ道だったんだよね……この出会いは劇的だったな……ああ、最初はこんな人もいたっけ――物語を巻き戻すようにページをめくっていくと、その指先に茶色い染みが現れた。それはめくるたびに色を濃くして、やがて文字のインクを滲ませ、文章が読めないほど汚れを広げていった。あの時の嫌な記憶がよみがえって、私は本を閉じる。物語の始まりの部分はもう読めそうにない。でも頭にそれは残ってるから無理に読む必要はないけど。それにしても濡れたのが最初のほうだけで本当によかった。結末のページだったらずっとモヤモヤしたままでいたかも――そんなことを思ってたら、ハッと思い出した。


「……これ、読み終わったら、貸す約束してたんだ」


 私はベンチ越しに部屋の中の様子を見た。裏庭からは居間が見えるけど、そこにビクトールの姿はない。膝の上の本に目を戻して私は考える。こんなに汚れて、しかも読めないページがある本を貸すわけにはいかないだろう。せっかく興味を持ってくれたのに、大事な導入部が読めないんじゃ上手く物語に入り込めない。そんな残念な思いはさせたくない。面白い本だからこそ、完全な状態で読んでほしい。そうなるとやっぱり、新しいものを買うしかないか……。


 ビクトールは本がこんな状態になってることをまだ知らない。私が見つからないよう汚れを隠してたんだけど、他人を気遣える彼のことだから、もしこれを知ってたら、このままでもいいって言い出しかねない。と言うか、必ずそう言うに違いない。ちゃんと読める本を用意してくれなんて絶対に言わないだろう。だから汚れた本の存在はなかったように、代わりに新しく買った本を貸す……それしか方法はない。


 夕暮れが近付いて帰った私は、自分の部屋に置いてある四角いブリキの箱を開けて中身を確かめた。そこにはこれまで私が貯めた全財産が入ってる。無駄遣いしないよう必要な物だけ買うって心がけてたから、箱の中にはまあまあな量が貯まってた。大小の硬貨をベッドに並べて数えてみる。本は高いからな。買えそうな額があればいいけど――


「……どうにか、買える、かな」


 本の相場はちゃんとわかってないけど、前に本屋をのぞいて見た値段分よりは多くあった。あとは本屋に目当てのものがあるかどうかだ。発売されたのは大分前だから、今も置いてあるか心配なところだ。売れ残りでもあればいいんだけど……。


 次の日曜、私は早速本屋へ向かった。片手には続編の二巻がある。これを読む楽しみの前に一巻を買って、それで罪人の家へ行くつもりだ。懐には念のため、貯めたお金の半分以上を入れて持って来た。これだけあれば、予想より高くても買えるはず、と思うけど……。


 普段はあんまり通らない道を行くと、小さな店構えの本屋が見えてきた。日曜でも開店してるのを確認して私は中へ入った。


「いらっしゃい」


 会計カウンターの向こうでパイプを吹かして座ってる店主が眠そうな声で出迎える。それに一応おはようございますと返してから本の並ぶ棚の前へ行った。


 小さく狭い店だから棚の数は多くない。でもそこには詰め込まれたようにたくさんの本が並んでる。私は『不可思議な彼ら』という文字を探して棚の前を行ったり来たりした。なければ別の棚へ……そうやって目を皿のようにして探し続けたけど、どこにも見つからなかった。もう置いてないのかな。大分前の本だし……でもないと、ビクトールに貸せなくなっちゃう。泥水で汚れた本なんか渡したくないし――諦め切れない私は、店主の元へ行って恐る恐る聞いた。


「……あの、本を探してるんですけど」


「ん? どんな本?」


 くわえてたパイプを手で持つと、店主はこっちに向き直る。


「大分前に発売された『不可思議な彼ら』っていう本で……」


「ふむ、聞いたことあるな……結構売れてた本だったか?」


「多分。本土では、人気だったって……」


 しばらく天井を睨んでた店主は、あっと小さな声を出した。


「思い出した。裏の倉庫で見た気がするな……」


 そう呟いて歩き出した店主は、店の奥にある扉を開けて中に入った。何やらしばらくゴソゴソと物音を立ててたけど、扉から出て来るとその手には一冊の本が握られてた。


「欲しいのは、これか?」


 見せてくれた表紙には、綺麗に印刷された文字で『不可思議な彼ら』と書かれてた。どこも汚れてない、まさに新品……!


「はい! これです! よかった。まだあって」


「前にたくさん仕入れてな。その時の売れ残りだ。……欲しいのはこれだけか?」


「これだけです。……いくらですか?」


「売り出した当時は三十二クフラぐらいだったが、まあ、売れ残りだ。二十八クフラでいい」


「二十八……」


 店主は負けてくれたつもりなんだろうけど、この値段でも私にとってはまだ高い。懐の財布にある多めに持って来たお金で、ギリギリ買えるには買えるけど、私の全財産がほとんどなくなる出費だ……。


「あの……もうちょっとだけ、安くなりませんか……?」


「ええ? これでも大分安いと思うが……」


 顔をしかめた店主に、私は怯まず続けた。


「ずっと、売れ残ってた物なんですよね? 四クフラしか安くならないっていうのは、何て言うか……切りが悪いっていうか……」


 私は機嫌をうかがいつつ、笑みを見せて控え目に頼んだ。そんな私に店主は難しい顔で考え込んだけど、そこに諦めが浮かぶと仕方なさそうに言った。


「……しょうがないね。じゃあ、切りよく五クフラ安い、二十七クフラだ。これ以上はもう聞けないぞ」


 一クフラ安くなっただけ……切りが悪いって言ったのは、値引き額じゃなくて、二十八クフラのほうだったんだけど。二十五になるのを期待したのに……でもこの口調じゃ、もう安くはしてくれなさそう。機嫌を悪くするよりは手を打ったほうがいいか――私は承諾して、懐からお金を払い、新しい本を手に入れて店を後にした。軽くなってしまった財布にかなりの心細さを感じる……でもこれはビクトールのためなんだ。彼に本をちゃんと読んでもらって楽しんでもらうため。その笑顔が見られるなら、こんな心細さなんてすぐ消えるだろう。


 二冊の本を抱えて、私は本屋から罪人の家へ向かう。普段とは違う道だから、行く方向を間違えないように確認しながら進んでた時だった。


「はっ……」


 視線の先に絶対に会いたくない姿が見えてしまった。揺れる長い赤髪に、すらりとした体形を包む派手な服装――そう言えば今日は日曜だった。彼女と遭遇しやすい日……にしても、アンジェリカは私が何か持ってる時に、どうしてこうも現れるの?


 引き返そうか迷ってるうちに、向こうが私に気付いた。一瞬足を止めてこっちを見つめてきたと思うと、再び歩き始める。気付かれたらもう引き返せなかった。慌てて逃げでもすれば、彼女ならすぐ追いかけて来るに違いない。捕まったら何をされるか……。そうなるよりは、このまま目を合わさずすれ違ったほうがいい。絡まれても短時間で済む場合もあるし――災難に見舞われないのを祈りながら、緊張した足で一歩ずつ進む。


 アンジェリカとの距離が近くなった時、恐怖に耐えられなかった私は、彼女の顔をちらと見てしまった。どんな表情でいるのか、向こうもこっちを見てるのか……そんなことを気にして見た彼女の様子に、私は瞠目した。


 アンジェリカは、泣いてた。うつむいて、両目を赤くして、涙こそ流れてはなかったけど、今にも流れ落ちて来そうなほど、黄色い瞳は潤んでた。こんな姿、初めて見た。学校でも見たことない。彼女はいつだって自信ありげに笑いを浮かべて威張ってたのに……それが泣き顔をさらしてるなんて。しかも人目のある道なんかで……。


「……何よ」


 赤くなった両目がじろりと向いた。……しまった。あんまり驚いて見過ぎてしまった。


「な、何も……」


 私はすぐに顔をそらしてすれ違おうとした。泣き顔をはっきり見ながら、気遣う言葉もかけないのは自分でも不自然だと思ったけど、でも今は絡まれるわけには行かない。無事に本を貸さないと――


「ちょっと。無視する気?」


 アンジェリカが私の肩をつかんで止めてきた。振り払って逃げることもできたけど、そんなことすれば怒りを買って追われるだけだ。私は怯えながら立ち止まるしかなかった。


「無視なんて、してない……」


「通り過ぎようとしたじゃない。……それ、何?」


 潤んだ目が私の手元で留まった。まずい――


「これは、ほ、本で……」


「そんなの見ればわかるわよ。どういう本なの? 見せて――」


 アンジェリカの手が本に伸びたのを見て、私は咄嗟に身体の向きを変えて本を隠した。


「……何? どういうつもり?」


 悲しげだった目に苛立ちの色が浮かんだ。


「その、これは大事な本、だから……」


 あなたなんかに触れさせるわけには絶対にいかない。何せ全財産の大半を払って買った本なんだから……。


「どういう本か見ようとしただけじゃない。見せてもくれないっていうの?」


「人に、貸す本なの。今日……も、もう行かないと。それじゃ……」


 このまま相手してたら、きっと本がひどいことになる――そんな悪い予感を避けるため、私はさっさと切り上げて立ち去ろうとしたけど、肩をつかんでくる手に力が入ると、アンジェリカは私が逃げるのを引き止めて阻止した。


「貸すって誰に? ヨハンナにそういう友達がいるなんて知らなかったわ。よかったら紹介してよ」


 涙が乾き始めた目には不穏な笑みが見える。


「貸すのは、友達じゃなくて、その、仕事の……」


「仕事? もしかして、世話してる罪人に貸すの?」


 私が小さく頷くと、彼女は笑った。


「あなた、罪人と物の貸し借りなんてしてるの? 大変ね」


「別に、大変じゃないわ……」


「でも相手は罪人でしょ? 一度貸したら返ってこないんじゃないの?」


「そんなこと、ないから……」


「罪人が読みたがってる本なんて想像できないけど、興味はあるわね……それ、見せてよ」


 アンジェリカはまた本に手を伸ばしてくる。


「む、無理よ。早く行かないと……彼を、待たせられないから……」


 私は身をよじって本を遠ざける。


「罪人を彼って呼んでるの? まるで恋人みたいな呼び方ね。でもあなたにはぴったりかも。罪人が彼氏なんて。希望も未来もない、暗い感じとかね」


「彼は、暗くなんてないわ」


 思わずアンジェリカを睨んでしまった自分に、私はすぐ後悔した。こんなことすれば反発されるだけだってわかってるのに……。


「罪人には優しくできるけど、私には本すら見せる優しさも与えないっていうの?」


「そんな、つもりは……」


「じゃあその本、見せなさいよ。……そうだ。罪人に貸す前に私に貸してよ。あなたが買った本、私も読んでみたいわ」


「で、できない……貸すって約束、しちゃってるし……」


「罪人との約束なんか後回しでもいいでしょ? 私が読みたいって言ってるの。早く貸して――」


 アンジェリカは私の腕をつかんで本を奪おうとしてきた。


「やっ、やめて……!」


 私は本を胸に抱いて、奪おうとする彼女に背を向けた。


「友達より、罪人のほうが大事だっていうの?」


 本を隠す私の腕を彼女は強引に引き剥がそうとしてくる――友達だなんて、お互い思ったことないくせに!


「あなたは……友達じゃない!」


 私はアンジェリカの胸を突き飛ばし、そのまま道を駆けた。


「くっ……逃がさないわよ!」


 背後から怒りの声が追って来た。通りすがる人達の目が、全力で走る私に注がれるけど、今は周囲を気にしてる場合じゃない。この本が、私の身が、無事ビクトールの元にたどり着けるかの瀬戸際なんだ。捕まればただじゃ済まない。


 私より背が高いアンジェリカは足も速く、真っすぐ逃げてるだけじゃ距離もすぐに縮められそうな気がした。そこで私は目に入った細い路地に逃げ込むことにした。こういうところなら見晴らしも悪いし、一度姿を見失えばまくことができるんじゃないかと考えた。でもそれは失敗だった。


「はあ、はあ……ここも、行き止まり……」


 普段まったく通らない路地は、私にとっては迷路も同然だった。行っては引き返しを何度も繰り返して無駄な時間と体力を消耗する。これなら捕まる危険はあっても、真っすぐ罪人の家へ向かったほうが早かったかも――そうして何度目かの道の引き返しをした時だった。


「見つけた!」


 背後からの声に振り返ると、赤髪をなびかせて走って来るアンジェリカの姿があった。その恐怖に私の頭は真っ白になって、目の前の道へ逃げてしまった。でもそこは今さっき、行き止まりで引き返して来た道――逃げながら気付いたけど、もう遅かった。


「はあ、はあ、はあ……友達じゃない、なんて、ひどいじゃない」


 肩で息をしながら、アンジェリカは乱れた髪を背中へ流す。


「はあ、はあ……あなただって、同じ、はず……」


 行き止まりの壁に追い詰められた私は、本を胸で握り締めながらそう返した。


「私は、ヨハンナを友達だって、思ってるわ。だから本も読んでみたいって――」


「嘘、言わないで……じゃあ、あなたは、友達だと思ってる人に、足を引っかけたり、手紙を水桶に入れたり、するっていうの……?」


 これにアンジェリカは苦笑を浮かべた。


「あれは、ちょっとした冗談で、お遊びじゃない」


「遊び? 私はそれで迷惑を受けた……遊びだなんて、思えない」


「あなたはどうであれ、私は遊びのつもりで――」


「友達って言うなら、私の気持ちを考えるべき、じゃない……?」


 半分怯みながらそう言うと、アンジェリカは表情をしかめてこっちをねめつけた。


「もう面倒くさいわね……そんな話、どうだっていいでしょ。私はその本が読みたいって言ってるだけなの。さっさと渡しなさいよ!」


 詰め寄って来たアンジェリカは私がひしと握る本を力尽くで奪おうとしてくる。その手に私は必死に抵抗した。


「あなたには……貸せない……」


「罪を犯した悪人なんかに、わざわざ貸すことなんてないわよ!」


「彼は、悪人じゃない……少なくとも、あなたより、よっぽどいい人よ……!」


「!」


 本を奪おうとする手が急に止まったかと思うと、アンジェリカは呆然とした表情で赤い唇をわずかに震えさせながら言った。


「……私は、罪人よりも、悪い人間だっていうの?」


 か細い口調の中に煮えたぎる怒りを感じてしまい、私は何も答えられず彼女を見つめた。


「立派な人間になれるようにって……毎日、頑張ってるのに、それでも……私は駄目な人間だっていうの? ねえ、答えなさいよ!」


 唾のかかる距離で怒鳴られて、私はその迫力に気圧されて口が開けなかった。


「何で……無視するのよ!」


 その直後だった。アンジェリカは右手を上げると、私の顔目がけて勢いよく振った。パシンと乾いた音が鳴ると同時に、鈍い痛みと脳が揺れる感覚に襲われて私は少しよろめいた。平手打ち、された――その事実を理解するのに数秒かかった。何せこれまで彼女からは、たちの悪いいたずらやいじめは受けても、暴力だけは受けなかった。なのに今、初めてそれを受けた。なぜ、どうしてという疑問ばかりが浮かんできて、どういうわけか暴力を受けた恐怖は湧いてこなかった。それどころか、理不尽な平手打ちに心がムカムカした。私は本を奪われまいと守って、言われたことに言い返しただけだ。それなのに何でこんな仕打ちを受けなきゃならないの――気付いたら私の右手は上がって、次にはアンジェリカの頬を思い切り引っ叩いてた。こうするまでに数秒もかからなかった。まさに反射的に動いてた。


 思いもしなかっただろうアンジェリカは、予期しない反撃を受けて固まってた。私の一撃で、まるで魂が抜けてしまったかのように、驚いたままの瞳がこっちを見てた。瞬間的にカッとなった頭が冷めると、私の中にはようやく恐怖が湧き始めた。顔を叩き返すなんて、まずいことをしてしまった――慌てふためきそうな心をグッと抑えて、この後の報復を覚悟して彼女の様子をうかがう。


 でもアンジェリカがやり返すことはなかった。しばらくこっちを見つめてたと思うと、その瞳は次第に潤み始め、溜めきれないほど湛えた涙は、やがて堤防が決壊するように、無数の雫になって両頬を流れ落ちていった。


「うう……うああ!」


 子供みたいに歪んだ顔を両手で隠して、アンジェリカはその場に泣き崩れた。それを見ながら私はどうしたらいいのかわからなかった。泣きたいのはこっちのほうだったのに、一度叩き返しただけで、まさかこんなに泣かれるとは思わなかった……。謝るのは癪だけど、でも泣かせたのは私だし……やっぱり謝るべきか……。


「……あの、アンジェリカ……ごめん……そんなに、泣かないで」


 落ち着かせようと私は隣にしゃがんで背中を撫でた。すると嗚咽混じりにアンジェリカは口を開いた。


「私は、頑張ってる……うう、なのに、どうして誰も、認めてくれないのよ……」


「頑張ってるって、何を……?」


「勉強だって……裁縫や、踊りの習い事だって、毎日頑張ってる……やりたいことを、我慢して……うう」


 彼女の家はお金持ちだ。確か学生時代も、ピアノとかバイオリンを習ってたとか聞いたような気がする。


「だけど、父さんも母さんも、誰も……褒めてくれたことなんてない。刺繍が出来上がっても、新しい踊りを覚えても、誰も、何も……うう……ただ、立派な人間に、なるために必要だから、続けろと言うだけ……」


「もしかして、さっき泣いてたのは、それが理由で……?」


「皆、私を見てるのに見てない……私を通して、結局自分しか見てないのよ。こんなに、努力して、いい子になろうとしてるのに……」


 顔を隠してた両手を下ろすと、アンジェリカは涙にまみれた赤い目をこっちに向けた。


「でも、ヨハンナから見れば、私は、罪人よりも悪い人間、なんでしょ……?」


 私は言い淀んだけど、勇気を振り絞って言った。


「……あなたは、ずっと私をいじめてきた……いえ、私をいじめる前から同級生をいじめてた。それは、間違いなく悪よ……」


「あの頃は、それこそ遊びのつもりだった……同級生をからかって、その反応を楽しんでた。もうその頃から、私は親に言われて習い事をいくつもしてたわ。友達と遊べるのは学校か、月に一、二度、家に呼んだ時だけ……」


「あの娘達は、本当に友達だったの? あなたを恐れて従ってるだけに見えたけど……」


「そうね……その彼女達も、今は島を出てそれぞれやってるみたいだけど、私に手紙の一枚も送ってくれない……私も、送ったことないけどね。それが、真実よ」


 アンジェリカは自嘲を見せる。


「習い事で、満足に遊べないから……だから、その鬱積した感情のはけ口として、私や同級生をいじめてたの?」


「昔はそんな深く考えたことなかった……でも、今思えば、周りの皆が楽しそうで、羨ましかったのかもしれない。私はこんなに大変で、自由に遊ぶことも許されないのにって……だから、憎かったのよ。どうしようもなく……能天気に、のほほんと笑ってる人達が」


 険しい表情でアンジェリカは私を見つめる。


「ヨハンナ……あなたは学校で、いつも笑ってた。私がなじっても、笑顔でかわそうとしたでしょ……それが気に食わなかった。笑えないぐらい、困らせたかった。それを、私が笑ってやりたかった。久しぶりに会った時、そんな昔の感情が一気によみがえったの。未だに私は苦しくて、自由もないのに、この娘は相変わらず笑顔でいるなんて……許せない気がした。だから……」


 アンジェリカはうつむいて言葉を濁す。これが彼女の動機……苦しさやストレスをぶつけるために、他人に当たって少しでも気持ちを軽くしようと……でもこんな方法で現状を変えられるわけがない。


「……一つ、知ってほしいのは、私は、笑いたくて笑ってるんじゃない。笑わないと、もっと辛いから笑ってるの。あなたにはただ、ヘラヘラしてるようにしか見えないかもしれないけど、私だって苦しいことはあるし、悩みだってある。だけど、私は誰かに当たったりしない。そんなこと、無意味だから」


「あなたは経験してないから……我慢してた心が、限界に達したことがないから……」


「そうかもしれない。私は、まだそこまで追い詰められたことはないかも……じゃあ、アンジェリカは自分のために、何かしようとしたの? いい子になるためじゃなく、自由になるための努力はしたの?」


「親に、逆らえっていうの? そんなことしたら、もっと口うるさく言われるだけよ……」


「言われるから何よ。私だってあなたの嫌がらせに散々やめてって言ったけど、あなたは無視して続けたわ。同じように無視して聞かなきゃいいだけじゃない」


「親とあなたじゃ、全然違うわ……」


「違わない。同じ人間でしょ? しかもご両親はあなたの自由を奪ってる。自分達の勝手な理想のために。このまま、あなたの意思が抜けたまま、人生を進んでもいいの?」


「でも……嫌だなんて、私からは……」


 うじうじしながらアンジェリカは弱い声で言う。私を追ってた時の威勢はどこへ行ったのか……何だか、これまでとは立場が逆転したような様子だった。私も、彼女を励ます筋合いなんてないけど、こんなに思い悩んでる状態で放っておくこともできない。聞いてくれるかわからないけど、少しでも背中を押せれば――


「言えないなら……逃げたっていい」


「……え?」


 見開いた赤い目が私を見る。


「実はこれ、ある人からの受け売りなんだけど……立ち向かう勇気がなければ、逃げたっていいの。これ以上疲弊して、自分が壊されるぐらいなら、そういう方法だってある。私はそうして、あなたから逃げたわ……でも今日は、出会っちゃったけど」


「逃げるって……どこへ……?」


「どこだっていい。自分の部屋でも、道端のベンチでも、自分が落ち着ける場所へ逃げればいいのよ。たとえご両親に連れ戻されても、また逃げればいい。あなたの意思が通じるまで……そのほうが、心にとってずっと健全だし、他人をいじめるよりましよ」


「全部、放って、逃げる……」


 アンジェリカは言葉を噛み締めるように呟く。


「押し付けられた理想に従うことなんてない。あなたは、あなたの理想を追わないと。人生は、あなたのものなんだし……」


「私の、人生……」


 すっかり涙の止まったアンジェリカを私はゆっくり立ち上がらせ、スカートの裾に付いた砂を手で払ってやる。


「もう、大丈夫? その、叩いちゃって、ごめん。よくなかった……私、行かなきゃいけないから、行ってもいいかな? それじゃあ……」


 謝ってそっと路地を出ようとした時だった。


「待って、ヨハンナ」


 呼び止められて私は振り向く。


「な、何……?」


 アンジェリカは気まずそうに視線をそらすと、自分のスカートをギュッと握り締めたまま言った。


「……私も、頬、叩いて……悪かったわ」


 驚いて思わず彼女の顔を凝視してしまった。あの口から謝罪の言葉が出てくるなんて……。


「い、行くんでしょ? 早く行けば?」


「う、うん……じゃあ、また……」


 踵を返して私は路地を出て行った――気持ちがやけに清々しかった。また、と言ってしまったのは、多分彼女の姿勢が変わったからだ。謝れる彼女なら、またどこかで、こんなふうに話せる……そんな気がした。

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