九話
いつも通り早起きして、部屋で身支度をしてると、一階から何やら怒鳴り声が聞こえた。言葉まではわからないけど、この声はよく聞き慣れたお母さんの声だ。近頃はちょくちょく食卓に顔を出すこともあったけど、それでもこんな早い時間、私よりも先に起きて来るのは珍しかった。
「機嫌、悪いのかな……」
朝から溜息が出そうな気分になりながら、支度を終えた私は身構えて一階へ下りた。
「――あなたはそうやって嘘をつき続けるのね!」
「嘘なんかついてない。違うんだ」
居間へ行くと、食卓を挟んでお母さんとお父さんが言い合いをしてた。喧嘩、だろうか。特にお母さんはものすごい形相で怒りを見せて頭に血を上らせてる。少し冷静にさせないと――そんなつもりで私は恐る恐る声をかけた。
「お、おはよう……」
私に気付いた二人がこっちに顔を向ける。
「ヨハンナ……おはよう」
お父さんは困惑顔で返してくれたが、お母さんはまた別の言葉を返してきた。
「ねえ、あなたは知ってたの? この人の浮気」
意表を突かれた言葉に、私は一瞬頭が真っ白になった。
「…………浮気って、どういう……」
「だから私はそんなこと――」
「あなたは黙ってよ! ……この人はね、私を放って別の若い女とコソコソいちゃついてたのよ!」
「違う! そんなことした覚えはない」
「白々しい嘘はやめてよ! 私はこの目で見たんだから。あなたが若い女と仲良く笑いながら歩いてるところを……!」
「誤解だ! 彼女はそういうんじゃなく――」
「彼女? 女の存在は認めるのね。なら浮気も潔く認めなさいよ!」
「だから誤解なんだ! ……ヨハンナ、お父さんはそんなことしてないと信じてくれ」
必死に言うお父さんを見ながら、私はいつかの光景を思い出してた。昼間、お父さんと並んで歩く見知らぬ女性の姿――疑いつつも、その不安を消そうとあまり考えないようにしてきたけど、あれは、やっぱりそうなの……?
「……ヨ、ヨハンナ?」
「私も、前に、知らない女の人と歩いてるお父さんを、見たことが……」
「え……」
お父さんは顔を引きつらせてこっちを見る。
「ちょっとヨハンナ、あなたも知ってたの? じゃあ何でその時に言わなかったのよ」
「遠くから見ただけで、その人がどういう人かなんて、わからなかったから……」
「でも怪しいって思ったんでしょ?」
「少し、思ったけど……」
「だけど言わなかった……自分の父親で、浮気かもしれないのに、何で聞きもしなかったのよ。娘でしょ?」
「確証がなかったし……」
お父さんを信じたかった。それに、もし本当に浮気だったら、確かめるなんてこと、怖くてできなかった。
するとお母さんは怪訝な眼差しでこっちを見てくる。
「……もしかしてあなた、父親の浮気を隠そうとしたの?」
妙な言いがかりに、私は言葉が出ずにお母さんを見返した。
「怪しみながらずっと聞かなかったなんて、おかしいじゃない」
「そ、それは……」
お母さんの目付きが鋭く変わった。
「ルネ本人に聞けなくても、私には知らせるべきじゃない? それもしなかったって、ヨハンナ……あなた、見て見ぬふりして、このまま私が離婚するのを待ってたんでしょ!」
私は唖然としてお母さんを見つめた。何でそんな突拍子もないことになるのか――
「そんなわけない! 考え過ぎだよ!」
「あなた時々、私のことを冷めた目で見てるのよ。母親だなんて思ってないんでしょ? 気付かれてないと思ったら大間違いよ!」
何も言い返せず、私は黙り込んだ。
「裏切り者の側に付くあなたも、私の敵よ! 二人とも、最低な親子よ!」
「ヨハンナに当たるな。関係ないだろ!」
「関係あるわよ! あなたの浮気を知りながら黙ってたんだから!」
「何度言えばわかる。私は浮気なんかしてないと言ってるだろ!」
「こっちこそ、何度言えばいいのよ! 私はこの目で若い女を見て――」
「彼女は仕事先の相手だ」
「何でも仕事関係って言えば納得すると思ってるの? そんなの信じられるわけないでしょ!」
「本当にそうなんだ。実は今、新事業を進めててな。本土にある会社と協力することになって、彼女はその会社から調整役として来てる。だからやましい関係なんて一切ない」
「新事業? そんなの初めて聞くけど」
「ああ、今初めて言ったからな。この話は軌道に乗ったら伝えようと思ってたんだ。万が一頓挫でもして、ぬか喜びはさせたくなかったから」
私が見た女性は、仕事先の会社の人……あれは、浮気じゃなかった……?
「そんなの、口ではいくらでも言えるわよ。じゃあその女をここに連れて来て、仕事相手だって証明してみなさいよ!」
「わざわざ本土から来てもらってるんだ。連れて来るなんてできるわけないだろ。たかが夫婦の問題に……」
「たかが? あなたにとって私は、たかがっていう程度の存在なの?」
「そうじゃない。エルサのことを言ったんじゃなく――」
「私を信じさせる気もないっていうのね。わかったわ。もういい! 浮気で嘘をつかれた時点で気付くべきだった!」
「おい、少し落ち着いて話し――」
お父さんが触れようと伸ばした手を、お母さんはハエでも叩くかのように打ち払った。
「触らないでよ! あなたの言葉は何もかも嘘よ! 不自由ない暮らしができるって言われたから、こんな遠い田舎の島に移り住んで、子連れでも我慢して結婚したっていうのに、仕事の稼ぎはすぐ悪くなるし、気晴らしに遊ぼうにも退屈な海しかないし、挙句の果てには愛を誓った相手に裏切られるなんて……こんな最悪なことってある? これのどこが幸せなのよ。孤独しかないじゃない! 私は幸せのためにここへ来たのに……無駄に使わされた時間を返してよ!」
側の棚に置かれた飾り皿をおもむろにつかむと、お母さんはそれをお父さん目がけて投げ付けた。ヒヤッとしたけど、力み過ぎたのか、皿はお父さんには届かずに、手前の床に叩き付けられて派手に割れた。
「や、やめないかエルサ! 危ないだろ」
「うるさい! 悪いのは全部あなたよ!」
悲鳴のような叫びを上げると、お母さんは側にある目に付いた物を次から次へと投げ付け始めた。コップや瓶、木彫りの置き物なんかが机や壁にぶつかってゴンと音を立てる。お父さんはそれらをどうにか避けながらお母さんに近付いた。
「やめろ! こんなことしても解決しない!」
お父さんはお母さんの腕をつかんで動きを押さえようとする。
「何が解決よ! そんな気もないくせに! 触らないで!」
お母さんはつかんでる小さな花瓶を振り回そうとしてるけど、お父さんに必死に押さえられて身動きが取れないでいる。
「ヨハンナ、頼む……その花瓶を、取り上げてくれ」
押さえるので精一杯なのか、そうお父さんに言われて、呆然と眺めてた私は我に返った――そうだ。見てる場合じゃなかった。私も止めなきゃ。
暴れようともがくお母さんに駆け寄って、私は右手につかまれた花瓶に手を伸ばした。
「来ないでよ! あなたなんか娘でも何でもない!」
私も必死に花瓶をつかみ、取り上げようと力を入れる。でもお母さんも負けじと花瓶をなかなか離してくれない。それに加勢するように、お父さんの押さえる力が増す。
「いやっ……もういやよ!」
お母さんが叫ぶ中、私は花瓶を思い切り引っ張って取った。やっと手から離れた――と思った直後、勢いが余った右手が私の頬を叩くように当たった。その衝撃に力が抜けて、取った花瓶を床に落としてしまった。足下でカシャンと甲高い音が響いた。
私は反射的にお母さんを見た。わざとじゃないってわかってる。だから何か一言ぐらい言ってくれるはずと期待したけど、お母さんは歯を食い縛りながらこっちを睨むと、お父さんを押し退けて後ずさる。
「あなた達にはもう、構ってられないわよ!」
そう言い捨てて踵を返し、自分の部屋へ入ってしまった。一瞬の静寂の後、お父さんは部屋の前まで駆け寄って声をかけた。
「エルサ、ちゃんと話をしよう。誤解をと――」
「早くあの女のところへ行きなさいよ!」
怒鳴り声にお父さんは溜息を吐いて首を振る。そしてとぼとぼとこっちへ戻って来た。
「……ヨハンナ、すまないな。朝からこんなで……」
げっそりした表情でお父さんは居間を見回す。お母さんが投げた物やその破片が机と床に散らばって、まるで泥棒に荒らされたみたいなひどい状態になってる。
「一緒に、片付けてくれ」
床にしゃがんだお父さんは、そこに転がる置き物や陶器の破片を拾い始めた。その姿を見つめながら私は胸のモヤモヤをぶつけてみた。
「……ねえお父さん、本当に浮気、してないの?」
聞くと驚いたような顔が見上げた。
「お前までそんなこと……私はしてない。彼女は仕事相手で一緒にいただけだ。そんな関係じゃない。……お父さんが、信じられないか?」
真っすぐ見つめられて、私は迷った。あの女性が本当に仕事上の相手なのか、確証も何もないけど、一方で浮気相手かどうかの確証もない。お父さんがただ違うって言ってるだけ……。でも私はずっと側にいて、お父さんは気が多かったり、薄情じゃない人だってよく知ってる。お母さんはそういうところをまだ知らなくて、だからあんなに疑って、裏切られたなんて思い込むんだろう。やっぱり娘だからかな……お父さんのことは信じたい。少なくとも、私のことを娘でも何でもないって叫ぶような人よりは何十倍も信じられる。最後まで、信じてたい――
「信じる……お父さんは、私達のために頑張ってるだけだって、そう思ってる……これからはもう、疑わない」
私もしゃがんで、床に散らばる破片を拾い集めた。
「ありがとう。ヨハンナ……頬、赤いが大丈夫か?」
「ちょっとヒリヒリするけど、平気。そのうち腫れは引くよ」
お父さんは薄い笑みを浮かべて片付けを続ける。それを終えてから朝食を作って、二人だけで食べ終えてから、お父さんは仕事へ、私は洗濯をする。いつもなら掃除もするけど、今日は平日で、あんな騒ぎがあったせいで家を出る時間はとうに過ぎてて、あんまり遅れるわけにもいかない。向こうもきっと朝食を待ってるだろう――私は買い出しを済ませてから、小走りで罪人の家へ向かった。
「……珍しいな、遅刻なんて。気を付けろよ」
塀に寄りかかって立つ門番にちくりと言われて、それに苦笑いを返してから家の中に入る。
「おはようございます。遅れちゃってごめんなさい……」
挨拶しながら居間へ行くと、ビクトールは隣の部屋からふらりとやって来た。
「今日は少し遅かったね。寝坊でもしたか?」
「そうじゃないんですけど……あ、すぐに朝食を作りますから」
台所に入って食材を置いた時だった。
「ヨハンナ、ちょっと顔を……」
「え……?」
呼ばれて振り向くと、こっちに近付いてきたビクトールは私の顔をまじまじと見つめ始める。
「な、何ですか……?」
近い距離にどぎまぎしてしまう。耐えられず顔をそらそうとすると、ビクトールは口を開いた。
「左の頬、腫れていないか?」
言われて思わず頬に触れる。ヒリヒリ感は消えたけど、まだ少しだけ熱を持ってる感じはあった。
「これは、だ、大丈夫です。じきに引きますから」
「……何があった?」
「何もないですよ。心配しないでください」
「その腫れ方、誰かに叩かれたものじゃないのか?」
ドキリとしたけど、私は笑顔を作って否定した。
「まさか。これは……高いところに置いた瓶を取ろうとして、それが落ちてきて当たっちゃっただけなんです。だから心配することないですよ」
「……本当に、そうなのか?」
いぶかしむ目がじっと見てくる。
「あ、当たり前じゃないですか。何でそんなに疑うんですか……?」
平静を装って笑って見せるけど、ビクトールの顔はあんまり納得したようには見えない。
「えっと……朝食、作っても……?」
「待って。その前に……」
そう言うと台所を出て行ったビクトールは、タオル片手に戻って来ると、それを水に濡らして絞り、私の腫れた頬に押し当てた。ヒヤッとする冷感と思わぬ行動に、私は一気に緊張した。
「こ、こんなこと、しなくても……」
「冷やせば早く腫れが引く。いつまでもこれじゃ、痛々しくて見ていられない」
「こんな顔、誰も見てませんから、お気遣いなく……」
「そうか? 君は自分で思っているほど、地味な容姿じゃないと思うが。よく見れば華があって美しい……そう思う男性はいるはずだ。だから腫れた顔は早く治さないと」
美しい――それが優しいお世辞で、彼が思って言ったことじゃないってわかってるけど、それでも胸の鼓動は早鐘を打った。恥ずかしい。でも舞い上がりそうなほど嬉しい。横目でちらと見ると、水色の瞳の視線とぶつかって、ビクトールは柔らかい笑顔を浮かべた。息ができなくなりそうなのに、不思議と心は安らぐ。私は、彼といる時間に幸せを感じてるみたい――タオル越しの感触に、私はほんの一時だけ、心を慕わせた。
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