五話
自然と開いた目でぼやけた天井を眺める。そしてのそのそと起き上がって身支度を始める。済んだら一階へ下り、まだ誰もいない居間を通って台所に向かい、朝食の準備を始める。
「おはよう、ヨハンナ」
食卓に作った朝食が並ぶ頃にお父さんが起きて来て、私は台所の片付けを終えて一緒に食べ始める。視界の隅には、今日も相変わらず一人分の朝食がポツンと置かれてる――お母さんの機嫌は未だに直ってない。あれから数週間は経ってると思うけど、今回は随分と長引いてる。そのせいで私は一時間早く起きて朝食を作ることになった。お父さんに負担をかけないためだ。そのお父さんは夕食作りをすることになってる。でもたまに帰りが遅くなって私が作る時もあるけど。とにかく、お母さんは自分の役目を放棄したままだ。
「じゃあ行って来る。……行って来るよ!」
食べ終えた食器を片付けようとして、私はお父さんの声に気付いて顔を上げた。
「ああ、うん、行ってらっしゃい」
笑った私をお父さんは不憫な目で見てくる。
「早起きさせてすまないな。お前も疲れてるのに」
「大丈夫だよ。時間が経てば眠気はなくなるから。お父さんも、無理しないで頑張って」
「ありがとう……行って来る」
出かけたお父さんを見送って、私は食器を洗い、次に洗濯、掃除とやっていく。時計を確認して家を出たら、商店通りで食材を買って罪人の家へ向かう。そしてそこでも朝食を作って家事をこなす――最近はこれが私の毎日だ。家に帰って夕食を食べ、部屋のベッドに寝転ぶと、本を開いて文字を追ってるうちに、いつの間にか寝てしまう。今じゃ本は子守唄代わりになってしまってる。我ながら、こんなに疲れてる自分が大丈夫なのかと思えてくる。だけど、任されたからにはやらないと。お父さんのために、私が頑張らないと……。
ある日、罪人の家で掃除をしてると、窓際に立つビクトールが深刻な面持ちで手元の何かを見つめてた。ほうきを片手に私が気にしつつ横切ろうとすると、気配に気付いたのか、ビクトールはこっちに振り向いた。
「あ、ごめんなさい。邪魔したみたいで……」
「いや、手紙を読んでいただけだよ。これ、今朝君が届けてくれたものだ」
言ってビクトールは薄茶色の便箋を振って見せる。今朝は初めてビクトール宛ての郵便物があると知らせを受けて、朝食を作った後に郵便会社まで取りに行ったのだ。それが彼の持つ一通の手紙だ。
「本土から、ですか?」
「ああ。向こうに住む友人からだ。……こんな私に手紙を出すなんて、まったく、怖いもの知らずなやつだ」
「いいお話でしたか?」
これにビクトールは目を伏せる。
「いいや……以前、私が世話になった方が、亡くなったという知らせだ」
訃報と知って私は一気に気まずくなった。
「そ、そうだったんですか……知らずに、ごめんなさい……」
「いいんだ。……こうなるという予感は、どこかでしていたんだ。だが実際に知らされると、胸が詰まってしまうな……」
便箋を見つめるビクトールは眉間にしわを寄せて、悲しみとも苛立ちとも取れる表情を浮かべた。
「あんまり気を、落とさないように……」
そう言うとビクトールはパッと笑みを見せた。
「ああ、わかっている。君は優しいんだな」
「辛いことは、長く抱えても滅入るだけですから……気晴らしに出か――」
言いかけてすぐに気付く。そうだった。彼はこの家から出ちゃ駄目だったんだ……。
「……そ、そうだ。この後の昼食は、いつもは作らないデザートを出しますから、それで元気出してください」
「ほお、それは楽しみだ。じゃあ期待しているよ」
微笑むビクトールに私も笑みを返して掃除の続きへ戻った。
そして昼食、私は時間のかかるオレンジケーキを出し、それを食べた彼に感想を聞いた。本土の菓子店の味と遜色ないと言ってくれて、疲れも忘れるぐらい喜んだ。でもビクトールが笑顔で食べられたことが何よりだろう。
それから時間が経った昼下がり、庭掃除から戻った私を待つようにビクトールは呼び止めてきた。
「ヨハンナ、一つ頼まれてくれるか」
「あ、はい。何ですか?」
「これを出してきてほしい」
差し出したのは一枚の封筒だった。
「……もしかして、返信の手紙ですか?」
「ああ。友人にはいろいろ伝えたいことがあってね。急いで書き上げてしまった。……いいか?」
「もちろん。すぐに行ってきます」
「ありがとう。頼むよ」
私は掃除用具を片付けてから家を出た。門番に精が出るねと見送られ、一路郵便会社へ向かう。が、道を曲がった直後に私の心臓は跳びはねた。
「……あら、こんにちは。また会ったわね」
嫌らしい笑いを浮かべながら派手な服装のアンジェリカが立ってた。いかにも偶然を装った感じだけど、そうじゃないと私は思ってる。実は最初に再会した後も彼女とは何度か遭遇してて、それは大体が罪人の家の近所でだった。多分、私を捜してるか、待ち伏せでもしてるんだと思う。あの頃のようにいじめるために……。
「今日も罪人の世話をしてるの?」
「……うん。そうだけど」
「大変ね。皆は休日だっていうのに」
「あ、あなたは、何してるの……?」
「私? 私は特に予定がなかったから、ブラブラ散歩してただけ。そうしたらヨハンナがいて声をかけたのよ。……その顔、もしかして邪魔だった? どっかに急いでたりする?」
「まあ、うん……」
「本当? それは悪かったわね。あなたにぴったりな仕事の邪魔したら良くないわね」
大げさな謝り方には誠意も何も感じられず、ただあざけって楽しんでるだけにしか見えない。きっと、何かたくらんでる……。
「急いでるなら私に構わず行って。引き止めてごめんなさいね」
そう言うとアンジェリカは私に道を譲り、手を軽く振って行くよう促した。……いつもは皮肉とか苛立つ悪口をネチネチ言ってくるのに、今回は気持ち悪いほど簡単に解放してくれた。もういい加減、私をいじめるのに飽きたのかな――いぶかしみながらも道を急ごうと歩き出した時だった。
左手に持ってたビクトールの手紙を、アンジェリカはすれ違いざま泥棒のように素早く私からひったくった。
「……あっ、何するの、返して!」
突然のことに驚き、慌てた私は、恐怖も忘れてアンジェリカの持つ手紙を奪い返そうと手を伸ばした。でも私より背の高い彼女は、手紙を頭の上に掲げて届かない位置に持っていく。
「ちょっと、怒らないでよ。私は――」
「返して! それは頼まれた手紙なの!」
「え? まさか罪人の書いた手紙? へえ、じゃあ仕事なのね」
「早く、返して……」
精一杯手を伸ばしても手紙に手は届かない。そんな私をアンジェリカは胸を押して遠ざける。
「ちょっと落ち着いて……それなら、私が手伝ってあげるわ」
「え……?」
「郵便会社まで届ければいいんでしょ? 時間はあるし、手伝ってあげるわよ」
ニタリと口の端をつり上げながら言ってくる――こんな彼女の何を信用しろっていうの? 手伝いを頼んだってろくなことにならないのは目に見えてる。
「だ、大丈夫だから……私の仕事だから……」
「ヨハンナ、疲れてるでしょ? 顔がそう言ってるもの」
その原因の一つはあなただと言ってやりたい……。
「私、力になりたいのよ。大したことない仕事だけど、ちょっとの間だけでも休んで――」
「疲れてなんか、ないから……手伝いはいらない。早く返して」
直後、アンジェリカの黄色い目が鋭く私を睨み付けてきた。
「ねえ、私は親切心で言ってるのよ? それなのにあなたは返して返してばっかり……まったく、ヨハンナってひどいのね。人の気持ちも思い遣れないなんて」
強く言われて、私は思わず手を引っ込めてしまった。
「わ、私は、そういうつもりじゃ……」
「人の優しさを無下にする気? 最低ね」
見下した眼差しが突き刺してくる――私は理不尽な非難に対する怒りと困惑を抑えることしかできなかった。言い返せば、彼女をじょう舌にさせるだけだ……。
「そんなだから学校でいつも独りだったのよ。人の気持ちを無視するから」
「それは! ――」
「何よ」
再び睨まれて、私はそれ以上言えなかった。
「手紙は私に任せて、あなたはここで待ってればいいのよ」
そう言ってアンジェリカは歩き出す。ど、どうしよう――迷った挙句、私はその後を追った。彼女が真面目に手紙を届けるなんて、どうしても思えない。ビクトールの大事な手紙なんだ。絶対に取り返さないと!
「待って。お願いだから、その手紙を……」
自分の肩越しにアンジェリカはこっちを見る。
「何で付いて来るのよ。ただ待つこともできないなんて、犬以下ね」
さげすむ目でいちべつして、そのまま歩いて行ってしまう。私はなおも追った。
「手紙を返して。私が、届けるから……」
後ろから彼女の腕を引いて止めようとすると、急に振り返ったアンジェリカは怖い顔を浮かべて私の手を振り払った。
「もう、しつこいわね! 何なのよ、人が親切にしてあげてるっていうのに!」
「ご、ごめん……でも、これは、私の仕事だから……」
こっちを睨んでたアンジェリカは、赤く長い髪をかき上げて大きな溜息を吐くと言った。
「あっそ。じゃあいいわよ。自分の仕事だって言うなら、自分でやれば?」
やっと返してくれる、と思ったら、手紙を持ったままフラフラ歩き始めたアンジェリカは、側にあった民家の庭先に入ると、そこに置いてある雨水を溜めた大きな桶に、あろうことか手紙をポイっと放り投げた。
「なっ、何を……!」
ヒラリと桶の中に舞い落ちる手紙に、私の心臓は止まりそうだった。それでも無意識に駆け出して、水面に浮かぶ手紙を急いで取り上げた。宛先の書かれた面は水が滴り、インクで書かれた文字は滲み始めてる。これじゃ、中の便箋にも水が染み込んでるだろう。このまま届いたって、きっと滲んだ文字で読めない……。
「何てこと……するの……」
私は呆然としながら言った。
「あら、ごめんなさいね。ヨハンナに渡したつもりが、桶に入っちゃった」
ニヤニヤ顔でアンジェリカは謝る。……白々しい嘘を。何が渡したつもりだ。初めから返す気なんてなかったくせに!
「どうしてくれるの……これじゃ、手紙は……」
「だからごめんってば。でも私はただヨハンナを手伝ってあげたかっただけなのよ? すごく疲れてる感じだったから。あなたも、あんな母親がいて大変よね」
その言葉に、私はアンジェリカを見た。……お母さんは一年前に来たばかりで、彼女はよく知らないはずだし、紹介もしたことないけど。
「どうして、お母さんのこと……」
「どうしてかって? 昼間から酒場であんなに騒いで飲んでれば、そりゃ目に付いちゃうし近所で話題にもなるわよ」
「酒場で、騒いで……?」
初耳だった。酔って帰って来る日もあったけど、まさか昼間から酒場で飲んでたなんて……。
「私の家、酒場の近くだから、通りかかると最近よく見るのよ。暇そうな男達と楽しそうに騒いでる女の人を。それがヨハンナの母親って知った時は驚いたのと同時に同情したわ。人前で恥も外聞もなく酔っ払ってるのが親だなんて、本当、可哀想。娘として、あれじゃ疲れるのも当然よね」
アンジェリカは同情する顔をしながら楽しそうな口調で聞いてくる。
「家でもあんなに飲んで酔っ払ってたりするの?」
私は答えたくなかった。家のことを彼女に教えるのは弱点をさらすのと同じだ。その弱点を突くことを、彼女はためらいもしないだろう。
「言えないってことは、家でも大変なのね。可哀想……。あなたは嫌がるかもしれないけど、私はそんなヨハンナの力になってあげたいのよ。だから暇を見てこれからも手伝ってあげるから。……その手紙、悪かったわね。あなたも早く戻って謝ったほうがいいんじゃない?」
くすりと笑ってアンジェリカは立ち去って行く。私は濡れてヘナヘナになった手紙をしばらく見つめてた。頼まれた物をこんな状態にしてしまったことと、思いがけず聞かされたお母さんの酒場での様子……一度に二つのことを頭でまだ処理できず、私はいろいろな気持ちがうごめくのを感じながら突っ立ってた。でも民家の住人が出て来て、人の庭で何してると睨まれたことで、ようやく足が動いた私は、仕事が果たせてないままビクトールの元へ戻り着いた。
「……戻り、ました」
居間に入るけど姿はない。二階だろうか。怖いけど、正直に言って謝らないと――姿を捜しに階段へ向かうと、そこへちょうど下りて来るビクトールが見えた。
「ん、戻ったか。思ったより早かったな」
ゆっくり階段を下りて来ると、ビクトールは微笑んで話しかけてくる。
「出してくれたか?」
「それ、なんですけど……」
怒られると思うと声が出ない……。そんな私の様子を察してか、ビクトールの顔からすぐに微笑みが消えた。
「……何か問題でも?」
「問題、というか……その……」
緊張で速まる胸の音を聞きながら、私はおずおずと変わり果てた手紙を差し出した。
「ご、ごめんなさい……手紙を、濡らしてしまって……出すことが、できなくなって……」
ビクトールはぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、濡れた手紙をそっと受け取った。
「……なぜ、こんなことに?」
理由を何も用意してなかった私は、咄嗟に考えて浮かんだことを言葉にした。
「……か、風が、強く吹いて、それで、手紙が飛ばされてしまって……」
「風? 今日は物が飛ばされるような強風は吹いていないと思うが……」
言ってビクトールは窓の外を見やる。そこから見える枝葉は静かに太陽の光を受け止めていて、強い風が吹いてる様子は微塵もない。そんなことはわかってるけど、言ってしまった以上、風が原因だと言い張るしかない。
「海に、近いほうは、この辺りより強く、吹いてて……」
ちらと視線を上げると、ビクトールが怪訝な目をこっちに向けてた。
「本当に、風だったのか?」
「は、はい。不意のことで……大事な手紙を、台無しにしてしまって……心から謝ります。ごめんなさい……」
私はできる限りの気持ちを表して謝った。彼の怒りができる限り小さくなるように……。
「そうか……不意のことなら仕方ないな」
濡れた手紙を指でピンと弾き、ビクトールは笑った。怒られるとばかり思ってた私は、そんな彼を驚いて見つめた。
「……何? まだ何か言うことが?」
「どうして、怒らないんですか? こんな、ひどい失敗をしたのに……」
「ヨハンナはわざと濡らしたわけじゃないんだ。風が吹いて手紙が飛ばされた……それは運が悪かっただけだ。怒ることじゃない。それと、ひどい失敗と言うほどでもない。手紙など、また書き直せばいいんだから」
「それは、そうですけど……そのための、余計な時間を……」
「前にも言ったと思うが、私には持て余すほどの退屈な時間があるんだ。手紙を書き直す手間など、どうということはないよ」
フッと笑うビクトールを見て、私は安堵するのと同時に胸がじんわり温かくなるのを感じた。貴族って皆こんなに優しいんだろうか。それとも彼の人柄なんだろうか。失望してもおかしくない状況なのに、一庶民の私に気を遣ってくれるなんて。失敗しても、怒らない人っているんだな。そんなの思ってもなかったし初めてだから、何かそわそわするような不思議な感覚が湧いてしまう。私はお母さんに怒られ慣れ過ぎてるのかも――怒鳴るお母さんが脳裏に浮かんで、私はふとアンジェリカの話を思い出す。お母さん……昼間から飲んでるなんて知らなかった。部屋に何本も酒瓶が転がってて、たくさん飲んでることは感じてたけど……もう本気で止めないと、身体を壊すところまで行っちゃいそうだ。帰ったらお父さんに話してみよう。お母さんを、どうにかしないとって……。
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