六話

 お父さんが作った夕食が食卓に並び、私とお父さんが椅子に座る。お母さんは相変わらずいない。今日はどこかへ出かけてまだ帰って来てない。最近はこれが普通の光景になってしまってる。親子二人だけの食事。ランプの灯りに照らされる中で、黙々と蒸し魚を口へ運ぶ。でも、お母さんがいないほうが話はしやすい。特にお母さんに関する話は――水を飲んで口の中のものを飲み込んでから私は早速話しかけた。


「ねえ、お父さん」


「ん? 何だ」


 フォークを握る手を止めてお父さんはこっちを見やる。


「お母さんのことで、心配な話を聞いたんだけど……」


「どんな?」


「酒場で、男の人達と飲んで、酔っ払ってたって……しかも昼間に」


 これにお父さんの眉間に深いしわが寄った。


「……本当か?」


「多分……」


 食卓に沈黙が流れる。お父さんも初めて知ったのか、机の一点を見つめたまま動かなかった。重くなった空気の中、私は続けた。


「……お母さん、このままじゃお酒で身体を悪くしちゃうよ。どうにか止めないと……」


 お父さんは深刻な表情で大きな溜息を吐いた。


「困ったもんだな……どうしてやればいいのか……」


「私のこと、まだ怒ってるから、だから帰って来ないでお酒を――」


「ヨハンナのせいじゃない」


「でも私のせいで一緒に食事しなくなっちゃって――」


「それは些細なきっかけに過ぎない。原因は他にある」


「お父さん、知ってるの? お母さんがお酒飲むようになった理由を」


「何となくはな……」


 フォークを皿に置くと、お父さんは水を一口飲む。


「……私の仕事が上手く行ってないからだろう。そのせいでエルサには満足に金も渡してやれてない。その中で家計をやりくりしてもらってたが、自由に使える金もわずかで、かなりストレスを溜めてたはずだ」


「お金が、原因だっていうの? 家計が苦しくて、自由なお金がないから、だからストレス発散でお酒を飲んで……?」


 そんな身勝手でわがままな理由があるのか。一番辛い上に頑張って、家族の長として責任を果たそうとしてるのはお父さんなのに、それを妻として支えたり助けもしないでお酒に逃げるなんて……やりたくないことは何だって人任せにしてるくせに、あの人は、どこまで子供染みてるの――隠してた感情の蓋がずれてしまったのか、その隙間から漏れ出た怒りに流されるまま、私は言った。


「お父さんは、何であんな人と結婚したの? 私には、全然いい人とは思えない!」


「……エルサが、嫌いか?」


 お父さんは優しく、でも悲しそうにそう聞いてきた。その瞬間、私は我に返った。そしてこんなことを聞いてしまったのを後悔した。聞けばお父さんは悲しむってわかってたから、だから今まで聞かなかったのに……。


「……嫌いには、なりたくないけど……いいお母さんとは、思えないから……」


「そうか……そうだな。確かにエルサは料理しか得意なことはないし、ヨハンナにも口うるさい。だがあんなでも優しいところがあるんだ。出会った頃は今ほど口うるさくもなかったしな」


 怒鳴らないお母さんなんて、もう想像できないけど――


「そう言えば、お母さんとはどこで出会ったの?」


「言ってなかったか? 仕事で本土に行った時だ。関係者との宴会で出会った。エルサは都会生まれの都会育ちで、田舎のことは何にもわからない。だから私がレタン島で一緒に暮らそうと言ったら、最初は渋ったよ。でも私がエルサのために不自由ない暮らしを約束すると言ったら、決心して来てくれた。たかが田舎の島に引っ越すだけのことでも、彼女にしてみれば未知の場所に飛び込むような勇気と覚悟が必要だっただろう。知らない街並み、景色、住人……すべてが初めてで慣れないものばかりだ。酒を飲むのは、そのストレスもあると思ってる。気軽に話せる友人や、頼れる隣人がいないことで、心が内に閉じこもってしまってるのかもしれない。夫の私が助けるべきだとわかってるが、仕事が忙しくてなかなか時間が作れなくてな……まあ、こんな言い訳は甘えだな。何とか話せる時間を作ってみるから、ヨハンナも、エルサを毛嫌いしないで、助けになれることは助けてやってほしい」


 お父さんの頼みに嫌だなんて言えない。私は素直に頷いた。嫌いになりたくないっていうのは本当の気持ちだ。家族として、お母さんとして、仲良く暮らしたい。そうできるなら私は努力を惜しまない。だけどお母さんが歩み寄ってくれないとどうしようもない。都会からここに来て、何もかも違う環境に馴染めなくて辛いのもわかるけど、お母さんにもちょっとは努力してほしい。私達の家族だって言うなら……。


「……わかった。でも、私じゃ話を聞いてくれないと思うから、それはお父さんがちゃんと話してね。お酒、飲み過ぎないようにって」


「ああ。来週辺り、エルサの機嫌が許せば話すよ。今週はずらせない予定が詰まっててな……」


「そんなに忙しいの? 仕事」


「まあな。事務の他に、仕事先の人と会う約束もあってな。帰りが遅くなる日もあるかもしれない。その時は――」


「わかってる。夕食は作っておくから」


「言われなくても、もうわかってるか。ありがとうヨハンナ。助かるよ」


 お父さんは私の手を軽く叩いて感謝の笑みを見せる。それに私はどういたしましてと、少しおどけて返した。でも脳裏には、いつかの見知らぬ女性と並んで歩くお父さんの姿が浮かんでた。それが遅くなる理由じゃないよねと聞きたい衝動を、私は強く押し止めた。さっきみたいな悲しい顔は、何度も見たくない。でも、もし疑いが本当だったら、私はお父さんのことを――その先を考えるのが怖い。だから、信じ続けるんだ。お父さんはそんな人じゃないって。今は聞かなくていい。聞くことなんて、ない。


 それから数日後、私は家事と世話係をせわしなく繰り返す変わらない日々を送り、今日も罪人の家に通う。食事を作り、洗濯をし、部屋と庭を掃除する。その間ビクトールは部屋で休んだり、裏庭で物思いにふけったり、机で手帳に何やら書いてたりと思うように過ごしてた。そんな姿を見て、私はふと思い出す。そう言えば、濡れて出せなかった手紙、書き直すって言ってたけど、あれから時間が経っても何も頼んでこない。まだ書いてないのか、書き途中なのか……もしかして、私じゃ頼りにならないから、書くのをやめたとか? いやでも、友人に宛てた返信の手紙だし、出さないなんてあるんだろうか。何か、気になる。私のせいだったら申し訳ないし――掃除が一段落したところで、私は居間を通りかかったビクトールに意を決して聞いてみた。


「……あ、あの」


「ん? どうした?」


 立ち止まってビクトールはこっちを見る。


「聞きたいことがあって……書き直すって言ってた手紙のこと、なんですけど……」


「ああ、それが?」


「まだ、書いてないんですか? もしあるなら、今度は濡らさないように――」


「もしかして、ずっと気にしていてくれたのか?」


「えっと、あの時、書き直すって言ってたから……いつでも言ってください。私じゃ心配かもしれないけど、すぐに行って来ますから」


 するとビクトールは申し訳なさそうに笑みを浮かべた。


「悪い。気にしてくれていたのなら早く言うべきだったな。友人へ手紙を書くのは、やっぱりやめることにしたんだ」


「え? 何で……一度は書いたのに……わ、私の、せいですか……?」


「そうじゃない。あの手紙を書いた時、私は知り合いを失ったことで少し感情的になっていたんだ。気持ちのおもむくままペンを走らせ、君に渡してしまった。だが冷静になってみると、手紙を送ったら相手の迷惑になるかもしれないと思い直してね」


「どうしてですか? 友人なら迷惑なんてことは……」


 ビクトールは苦笑いする。


「まあ、あいつはいいやつだ。迷惑とは思わないだろうが、私は流刑にされた罪人だ。そんな男から手紙が届いたと知れば、友人の周りの者がどう思うかわからない。妙な疑いを持たれても良くないだろ」


 私は納得してしまった。罪人と手紙のやり取りをして関係があると思われれば、確かに周りは怪しんだり疑ったりするだろう。あいつは罪人の仲間だと陰で言われかねない。ビクトールはそんな友人の立場をおもんぱかって、返信するのを控えた……この人は本当に優しい。他人を思い遣れる優しい人なんだ。


「だから、君が濡れた手紙を持って帰って来た時は、少し安心したんだよ。そして何も考えず急いてしまった自分を反省した。……これも、ヨハンナが失敗してくれたおかげだな」


 言ってビクトールはいたずらな笑いを見せた。


「それじゃあ、あの時、私に怒らなかったのは、そういう理由があったから……?」


「違う、とは言い切れないが、だとしても私は怒る気はなかったよ。手紙など書き直せば済むものだからね。それともう一つ……」


 顔から笑みを消したビクトールは私を見つめて言う。


「君が、あまりに疲れた様子だったから、怒るというより心配が先に立ってしまったんだ」


「え……」


 尽きない家事で疲れはあるけど、顔に出るほどじゃ――あ、そうか。あの時はアンジェリカに振り回されて、手紙を台無しにされて……私、ひどい顔になってたのかもしれない。


「今だって疲れが取れた顔とは言えない。前より随分と疲弊しているようにも見える。……しっかり休めているか?」


「だ、大丈夫です。すぐ、眠れてるし……」


 夜は本を開けばあっという間に眠りにつける。でも早起きする朝は取れない疲れでひどいものだけど。


「その割に元気そうには見えない。働き詰めじゃ身体を悪くしてしまうぞ……日曜だけでも休日にしたらどうだ?」


「私の仕事は、毎日するよう言われてるんで、休むことは……」


「世話をされる私が言っているんだ。一日ぐらい構わないだろ」


「で、でも、私が来ない日があると、あなたが困るんじゃ……? 料理を作ったり、買いに行く人がいないから、食べる物が……」


「そんなものは、君が前日に買っておいてくれれば問題ない。あとは私が適当に手を加えて食べるよ」


「料理、できるんですか?」


「経験はない。だが切ったり焼いたりするだけだ。どうにかなるだろ」


 妙な自信を見せるビクトールに、私は逆に不安になる。こういうことを言う人は、大体無残な結果にしかならない。世話係として任せるのは心配だ。それに――


「だけど、やっぱり、怪我や病気でもないのに、休むっていうのは、気が引けます……」


 私がしっかり仕事をしないと、お父さんに迷惑がかかっちゃうんだ。サボるようなことはできない。


 これにビクトールは微笑みを浮かべて言う。


「君は仕事に対して誠実なんだな。けれど一日休むだけだ。働く者なら誰にも休日は与えられている。日曜に休めば、あの娘にも会わずに済むし、ちょうどいいと思うが?」


「……え?」


 私は一瞬、何のことを言われてるのかわからず、ビクトールを見た。でも〝あの娘〟の心当たりは一人しかいない――私は恐る恐る聞いた。


「も、もしかして、彼女のことを、知って……?」


「ああ。もちろん、ここから眺めていただけだが」


 見られてた――そう思うと動揺が治まらなかった。


「きっと君は触れてほしくないことだろうと思ったから、私はあえて口にしてこなかったんだが、最近の表情を見ていると、どうにかしてやるべきだろうと思えてね」


「……いつ、気付いたんですか?」


「赤髪の彼女の存在は最近だが、君の異変ならもっと前から気付いていた。出かけて帰って来ると、やけに暗い表情だったり、無理して笑っている時があった。聞いても君は何もないと言うし、何か隠している雰囲気もあって、私は君が出かけた後、二階の窓から姿を眺めていたんだよ」


「それで、アンジェリカを……」


「あの娘はアンジェリカというのか……彼女は君の前に立つと、何やら一方的に話しかけて、時には笑ったり、肩を小突いたりする様子を見た。当然ここからじゃ話し声は聞こえないから、二人がどんな関係で何を話しているのかはわからない。しかし当の君は、遠目から見ても萎縮していて、とても会話を楽しんでいる様子じゃなかった。そして帰って来ると、明らかに気持ちが沈んだ顔をしていた。時々こうなるのは彼女が原因かとわかった。……私が頼んだ手紙も、彼女の仕業だったんだろ?」


 私は息を呑み、動揺する胸を押さえた。


「あれは……」


「かばうような真似はしなくていい。仕事の妨害など、ひどいことをするもんだ。だが結果、私が考え直す時間を作ってくれたわけだが。その点を考慮して、妨害行為に関しては許してやろう」


 ニコリと笑うビクトールだったが、すぐに真顔になってこっちを見た。


「だが、ヨハンナはそうも行かないだろ。道で会うたび、心を傷付けられている。……私は一つ気付いてね。彼女が君の前に現れるのは、ほとんどが日曜なんだよ。おそらく予定のない休日に会いに来ているんだ」


 思い返すと、そう言えば日曜にばかり顔を合わせてた気が――


「だから、日曜に、休めと……?」


 ビクトールは頷く。


「私が直接、彼女に注意しに行ければいいが、残念ながらこの身じゃ叶わない。君を彼女から遠ざけるには、彼女が現れる日に、ここへ来なければいい……つまり休日にしてしまえばいいんだよ。それが一番簡単で手っ取り早い。しかも君は身体を休めることができる。一石二鳥ってやつだ」


 名案だろ? と言うようにビクトールは笑顔を見せる。私のために、こんなことを考えてくれるなんて――喜ぶ気持ちの反面、どうしてここまで優しくしてくれるのか疑問も感じて、私は聞いてみた。


「すごく、ありがたいですけど……でも、何で私を守るようなことをしてくれるんですか? 私は、あなたとは無関係の、赤の他人なのに……」


「赤の他人だから守らないという理由などない。それにヨハンナはもう私とは無関係じゃないだろ。今や大事な世話係なんだ。君がいなければ、ここでの私の暮らしはままならない。そんな大事な者を守るのは当然のことだと思うが?」


 大事な、者……私が――そんなことを言われるのは、家族以外じゃ初めてかもしれない。もちろん、世話係として必要で、頼りにしてるってことなんだろうけど……彼に言われると、どうしてか胸の奥がチリチリしてくすぐったい気分になる。


「自分を傷付ける相手に無理に付き合うことなんてない。立ち向かう勇気があればそれに越したことはないが、皆が持ち合わせているわけじゃないんだ。だから逃げるのも身を守る方法の一つだ。それ以上傷付けられ疲弊しないように、日曜は家でゆっくり過ごしてほしい。そして翌日からまた、私に付き合ってほしい」


 思いやってくれる優しい言葉に対して、私はそれでも休めないなんて言えなかった。彼の気持ちはありがたく受け取るべきだと思った。アンジェリカに会いたくないのも、疲れがあるのも事実だし、それが少しでも解消できるなら……この先も世話係として頑張りたいなら、週一回ぐらい休んでも、誰も叱りはしないはず……。


「……わかりました。それじゃあ、日曜は私、休むことにします」


「それがいい。思い切り羽を伸ばすも休めるも、自由に過ごしてくれ」


 ビクトールは微笑む。その何気ない笑顔が綺麗で、光ってるように見えて、私は目が離せず、何も言葉にできなかった。だから心の声でありがとうと伝える。急にうるさくなった自分の鼓動を聞きながら。

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