第6話 裏切らないものが欲しい
「お疲れ様でした」
案内してくれたお姉さんが、一通りジムの中を見終わって入り口に戻ってきたところで私に言った。特に疲れることはしていないけれど何か、ショックではあった。
「どうでしたか?」
「はい。ええと……」
だけど、やっぱりブレーキは掛かる。楽しそうに見えたって私に出来るかと言われれば、それはまた別だ。
そんな私の心を察したのか、
「入会は今日決めていただかなくても大丈夫ですよ。決心されたら、後日お電話でもいいですし」
お姉さんが言ってくれる。
ただ、一度帰ってしまったら逆に決心が鈍る気もする。
悩んでいる私の前に、
「あ、見学終わられたんですね」
再び私の目の前に岸本さんが現れた。
「き、岸本さん!」
私は思わず名前を呼んでしまった。
「あれ? 私の名前、覚えていただいてたんですね」
「さっき私が呼んでましたっけ?」
岸本さんが言って、お姉さんが首をひねる。
違う、そうじゃない。
「あ、あの……!」
私は岸本さんへと向き直った。
「実は昨日テレビで岸本さんのこと見ました!」
「あ、まさかボディビルの大会ですか? ニュースで少し取り上げられたんやつですよね。ありがとうございます」
「は、はい! あの姿がすごくかっこよくて、それで、この前ぶつかった方だなってびっくりして……。それで、岸本さんのことを調べていたらここのトレーナーをされていることがわかって。近所だとわかって思わず、その、いてもたってもいられなくて来てしまって……。その、こんなの迷惑じゃ……」
「そうだったんですか。それは、光栄です。迷惑なんてこと、あるわけないじゃないですか!」
岸本さんの顔がぱっと輝く。
ああ、昨日テレビで見た顔と同じだ。
「私の姿を見て筋肉に興味を持っていただけたなんて、もう最高ですよ!」
筋肉単体に興味を持ったというわけではないのだけど……。
だけど……。
「あの、私。すごく運動苦手なんです。子どもの頃から体が弱くて、運動してみたいと思ったことも無くて……。体育もすごく嫌いで……。それでも、出来ますか? こんな私でも出来ますか?」
私は岸本さんをじっと見つめた。
岸本さんは、
「出来ます!」
きっぱりと言った。
「だって、今も自分の足でここに来たんですよね。やりたくないと思った運動をやってみたいと思ったんですよね。だったら出来るに決まってます。それに、運動が苦手でも結構筋トレは出来たりするんですよ。体育って大体、球技とか団体競技だったりしますよね。筋トレは個人! 自分との戦いですから!」
本当に筋トレが好きなんだな、と思うような語りだった。キラキラと輝いているように見えた。
「それに、筋肉は裏切りません!」
それだ!
それだった。
私がここに来た理由。
『筋肉は裏切りませんから!』
昨日テレビでコメントを求められた岸本さんが言っていた。
その言葉に、私は心が痺れるような気持ちになった。元は他の誰かも言っていた言葉らしいけれど、輝くような笑顔で言った岸本さんの言葉が私には刺さった。
だって……、私は、裏切らないものが欲しい!
「……入会、します」
「え?」
震えて小さい声しか出なくて、聞き返されてしまった。
「入会します!」
だから、今度は私にしたらすごく大きな声を出した。周りの人に笑われないかと心配になったけれど、
「ありがとうございますっ!」
岸本さんが私よりも大きな声で、しかもすごく嬉しそうに言ったので私は思わず笑ってしまった。
「コーチ、嬉しいからって声大きいですよ~」
「えー、本当に嬉しいからしょうがないよ」
岸本さんは自分のことでもないのに、なぜだか本当に喜んでいるように見える。
「これから一緒にがんばりましょうね!」
「は、はい!」
がしっと手を取られて、私はこくこくと頷いた。
なんだろう。
運動なんて嫌いで、自分には出来ないと思っていて、どうせ一年後には死ぬとわかっていて、貴志は他の女のところに行ってしまって……。
絶望しかなかった私なのに。
今、少しワクワクしてる。
◇ ◇ ◇
「ふふふ」
鏡の前の自分の姿を見て思わず笑ってしまう。相変わらず青白くて不健康そうな顔はしていて、それは気になる。ただ、それなら顔を見ないようにすればいいだけだ。
形から入るって、本当に結構効くかもしれない。
スポーツクラブに入会したその足で、スポーツウェアも購入してきてしまったのだ。こんな格好をしたのは、学生時代の体育の時間以来だ。それに、あのときよりもずっと格好いいデザインになっている。
今はまだ着られている感の方が強いけれど、きっとこれからだ。
うんうん、と頷いていると。
「ただいまー」
貴志が帰ってきた。
「え、ちょ、早っ」
まだ帰ってくるとは思わなかった。帰ってくるなら帰ってくるで、会社を出るときに連絡はして欲しい。せめて早く帰ってくるとか遅くなるとか食べてくるとか言って欲しい。が、仕方ない。
このままで出るしか、間に合わない。
「なに? その服」
思ったとおり、貴志は私の姿を見て目を丸くした。ごもっともな反応だと思う。
「いつも体調崩して貴志に迷惑掛けちゃってるから、少しでも体力付けようかなって」
私は笑ってみせる。
「で、なにを始めるんだよ」
「うん。少し家の周りでも歩いてみようかなと思って」
嘘だ。
私は今日、スポーツクラブに通うことを決めた。だけど、きっと貴志に言ったら反対されるに決まっている。体が弱い私に出来るわけがないとか、それなのにお金がもったいないとか。きっと言われてしまう。
それなら、言わない方がいい。
「それでそんな服買ったの? どうせまた体調崩してすぐやめるに決まってるんだからもったいなくない?」
ほら、歩くだけだと言ったのにそれすら反対した。前はあまり気にならなかったけれど貴志はそういうところがある。私が始めようとすることをまず否定する。心配しているから言ってくれているのならいい。だけど、全てを反対されていたら私は何も出来なくなる。
「でも、もうタグも切っちゃったし」
「え-。なんだよそれ、返品できないじゃないか。もったいない」
「ごめんね。でも、部屋着にも出来るから。それにね、セールになっててちょっと安くなってたんだよ」
「それなら、まぁ。でも、稼いでるのは俺なんだから無駄遣いするなよ」
「わかった」
「じゃ、着替えてくるわ。今日は晩飯あるんだろ?」
「もう出来てるよ」
私は頷く。
貴志が部屋へと行ってしまってから、私はほっと息を吐いた。
やっぱりスポーツクラブに行くことは言わなくてよかった。この姿を見られてめちゃくちゃ焦った。
スポーツクラブの会費は私が働いていたときの貯金から出すことにした。まだ残っていてよかった。もちろん限りはあるから、平日の昼間だけの少し値段の安い会員になった。これは主婦の特権だ。
今夜は、なにか感づかれると嫌だなと思って今日はしっかり夕飯も作っておいた。貴志の好物のハンバーグだからきっと上機嫌になるだろう。帰ってくるかこないかわからない人のために作るのは結構大変だということを貴志は知っているのだろうか。きっと知らない。私は小食だしこってりしたものは苦手だから、ほぼ貴志のために作っているようなものなのに。
だけど、
「うん」
私は再び鏡を見て頷く。
今の私にはコレがある。
運動なんて嫌いなはずなのに、スポーツクラブに通えるということが心の支えみたいになっているのが不思議だ。
せっかく買ったこのスポーツウェアを初めて行く前に汚したら大変だ。ハンバーグはちゃんと着替えて焼かなければ。
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