第13話 私のステージ

「これ、来てくれるかな」

「え?」


 今日も連絡無しで遅く帰ってきた貴志にチラシを突きつける。


「はい」

「なんだよ、これ?」


 私の勢いに負けてか、貴志が思わずという感じでチラシを受け取る。

 もちろんそのチラシは、ボディビルの大会のものだ。


「え、だから、俺こういうの苦手だって言ってるだろ?」

「もう、チケットあるから」

「はぁ?」

「もったいないから一緒に行こうよ」

「嫌だよ」


 貴志がすごく嫌そうな顔してる。

 だけど、そんなときこそ。


「最近、全然夕飯も一緒に食べてないし、休日も出勤が多いでしょ? たまには一緒にいたいんだけど、ダメかな」


 押してダメなら引いてみる。私は上目遣いに貴志を見て、さみしそうに言ってみた。本当は貴志に対してそんな態度を取るのはめちゃくちゃ嫌だけど。


「な、なんだよ……」


 最近忘れていた。

 そういえば、貴志はこういう態度に弱いんだった。前の私は元々弱々しかったから、貴志の好みだった、ということか。


「美歩がどうしてもって言うなら、うーん。その日も休日出勤の予定だったけど、平日頑張ってみるよ」

「本当!? 嬉しい!」


 私は大げさに喜んでみせた。




 ◇ ◇ ◇




 岸本コーチがステージに上がっているとき、私は遠いところにいる人を見ている気持ちだった。

 誇らしげにポーズを取りながら声援を受けているその姿。ライトに照らされて輝いているその筋肉。きらきらと輝く笑顔。

 楽しげに流れる音楽。盛り上がる会場。

 そんな中で何者にも裏切られない、そんな自信に満ちた姿。

 遠く遠く、届かない場所だと思った。

 だけど、今。


「美しいよー!」

「ナイスマッスル!」


 声援の飛び交う中、私はここにいる。

 岸本コーチと同じ場所にいる。

 嘘みたいだ。

 ヒールを履いてポーズを取る練習を何度もした。

 体もがんばって作った。

 一年でこんなところまで来れるとは思わなかった。

 今日は、私が死んでしまう日だ。それが大会の当日に重なった。嘘みたいだ。

 あの日は、貴志に置いて行かれて一人で熱にうなされていた。そして、さみしく死んでしまった。

 それなのに同じ、いや、全く違う一年を過ごした私は、今ステージで歓声を浴びている。

 嘘みたいに、幸せだ。

 そして、私は取ってあった席の方を見る。もったいないけれど怪しまれないように私の分も合わせて二席取った。

 いた。貴志だ。

 来る前に嘘を吐いて、出場する知り合いに先に会いたいからと席で待ち合わせすることにした。前の大会のときに知り合いが出るとは言ってあったから、すぐに信じてくれたのがありがたかった。

 貴志は、馬鹿みたいに口を開けて私のことを見ている。それを私はステージの上から見下ろしている。

 気持ち悪いとか言っていたのに、貴志は私のことを目を離さずに見ている。今でも気持ち悪いと思ってる?

 でも、そんなの関係ない。

 私は、私のことを美しいと思っている。努力して鍛え上げた筋肉。それをまとった私は美しい。


「28番、キレイだよー!」


 歓声が飛ぶ。

 28番。それは私の付けている番号だ。

 知らない選手が出ていて名前がわからなくても声を掛けたい場合、番号を呼ぶ。

 私の知らない誰かが、私の筋肉を見てキレイだと言ってくれた。

 そのことが嬉しい。




 ◇ ◇ ◇




 決勝に残れなかったのは気にしていない。ここまでこられただけで、本当に嬉しい。

 今の私なら、何でも出来る気がする。

 審査に残らなかった私は、客席へと向かっていた。まだ岸本コーチは残っているのでそれを見たいのもある。だけど、もっと大事なことがある。

 この勢いで言ってしまうつもりだ。

 もしも、私が今日の夜死んでしまうとしてもやっぱりやっておきたかった。

 客席に向かうと、まだそこには貴志がいた。

 けれど、私と目が合うと、さっと立ち上がって行ってしまう。


「ちょっと、待って!」


 まだ決勝も見ていたいのに。

 それでも、私は貴志を追いかけた。

 そして、会場のロビーに逃げ出した貴志の腕を掴んだ。


「観客として来たんじゃないのかよ。お前が出るなんて、き、聞いてないんだけど! つか、なに? あの筋肉。お前、体弱いんじゃなかったのかよ。気持ち悪いんだよ!」

「ああ、そう」


 私はそれだけ答えた。


「でもさ、ここでそんなこと言ったら他の人にどう思われると思う?」

「……っ」


 みんなまだ大会を見ているためロビーにほとんど人はいない。それでも、貴志には効いたようだ。完全にアウェーだということを悟ったようだ。


「つーか、離せよ」

「離したら逃げるでしょ?」


 そもそも、貴志は私の手を振りほどけない。その自信が私にはある。それだけ、この一年鍛えてきた。


「それに、貴志に話があるの」

「な、なんだよ」

「私と離婚して欲しい」

「は?」


 貴志の顔が引きつる。


「い、いきなりなんなんだよ」


 突然言われて動揺している。こんなところでそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。


「貴志、浮気してるよね」

「ああ?」


 混乱しているのか反応が幼稚だ。


「私、知ってるよ。探偵も雇った。残業とか、嘘だよね。土日に出張のときも、本当は浮気相手とお泊まりしてたんだもんね」

「お、お前。誰の金で探偵なんて雇って……」

「突っ込むのそこ? やましいところには何も言えないんだね。もちろん私のお金だよ。前に働いてたときの貯金と、バイトして稼いだお金」

「だ、だけど、生活してたのは、俺の金」


 まだ言うか。


「そうだね。でも、これからは慰謝料としてもらうから。あ、もちろん浮気相手からもね」

「だけど、証拠が……」

「探偵雇ったって言ってるでしょ。証拠は十分集まってるから、裁判すれば確実に私が勝てるってわかってるからね」

「こ、このっ!」


 逆上した貴志が殴りかかってこようとする。前なら、ぶつかっただけで私がはじき返される方だったけど、今の私はその拳を受け止めた。私の体はびくともしない。


「なっ」


 貴志が驚いた声を出す。

 私の鍛えられた腕とは違って、脂肪のついた醜い腕。


「貴志が浮気してる間、私は戦ってたから。自分自身と」


 ああ、こんなものだったんだ。いつからこんなだったっけ。

 私は貴志を押し戻す。そんなに強い力で押したわけでもないのに、貴志は力を失ったように膝から崩れ落ちる。


「くっ……」


 そして、歯がみするような声を出してから、うなだれる。

 私のことをずっと弱いものだと下に見ていたに違いない。その貴志が、私よりもずっと体は大きいはずの貴志が、今は小さく見える。


「知ってたのか……。そんな素振り、全然……」

「うん。でも、そんなことで悩んで時間使ってたらもったいないから」


 私はきっぱりと言う。


「どうぞ、桃香さんとお幸せに。慰謝料は払ってもらうけどね」


 もし何をしても私の命が今日までだとしても、そのお金は私の親に行くように考えてある。酷いことをした貴志を許すことは出来ない。


「わ、わかったぞ。そんなにあっさりと言うってことは、お前も浮気してるんだろ?」

「はぁ」


 私はため息を吐く。

 本当にこの人は何もわかっていない。


「そうだね。私も浮気、してたかもね」

「やっぱり! どんな男……」

「私自身の筋肉にってことだよ」


 私は言った。


「はあ?」

「他のどんなものが私のことを裏切ったとしても、筋肉は裏切らない。それは、私自身が努力して身に付けたものだから」

「なに言ってるんだよ」

「だから、ありがとう。貴志」

「は? なんだよ、急に礼なんて」

「貴志に裏切られたから、私はボディビルに出会えた」


 もし、貴志に裏切られた後じゃなかったら岸本コーチの言葉も私には響かなかっただろう。


「あ、決勝そろそろ始まっちゃう。じゃあね。離婚のことはまた話そうか」


 私が生きていたら、だけど。

 私は貴志にくるりと背を向ける。

 私をこの世界に導いてくれた人の勇姿を見ずに死ぬなんて、そんなは嫌だ。


「ちょ、待てよっ」


 口だけで言いながら貴志は追ってこない。もう力でも私に敵わないと、わかっているんだろう。

 私は前を見て歩く。

 私はもう、貴志にぶつかられても何も言えなかった、立ち上がれなかった私じゃない。

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