第12話 これが浮気なら
「あの、この前から張り紙してありますよね。受付の求人の、それって応募できますか?」
スポーツクラブに行ったとき、私は思いきって聞いてみた。
貴志に当てはあるのかと聞かれて一番に思い浮かんだ場所だ。それに、張り紙を見てずっと悩んでいた。
もちろん、条件もすごくよかったからだ。
『勤務時間外にマシンなどの施設が無料で利用できます』
張り紙には、そう書かれていた。岸本コーチがマシンを利用していたのも、そういうことだったんだと納得する。
二ヶ月のパーソナルトレーニングが終わった後も、これなら自分のペースで続けられる。
それに、もしかしたら……。
「小澤さん、応募していただけるんですか!?」
いつもの受付の鈴木さんが、嬉しそうに言う。
「この時間、あまりスタッフがいなかったので助かりますっ!」
「あ、いえ、私なんか受かるかどうか、わからないんですが……」
思わず持ち前の弱気が頭をかすめてしまう。
でも、
「働けるなら、働いてみたいです。私、ここが好きですし」
「それ、私じゃなくてオーナーに言ったらすぐ採用ですよ」
鈴木さんが笑った。
そして、面接の日はトントン拍子に決まって、その場でいつから来られるか聞かれて、すぐにでも採用ということになってしまった。鈴木さんの言ったとおりだった。
バイトではあるけれど、働くのが久しぶりすぎて不安だった。けれど、周りは知っている人だらけだ。
パーソナルトレーニングを受けながらバイトをするのは大変だった。
でも、そこはさすが同じ施設の中だ。ちゃんと重ならないようには配慮してくれた。
大変だったけど、すごく充実していた。もう、体調を崩して仕事を休むことも無い。
それなのに、
「最近、バイトなんかしてるからか家事がおろそかじゃない?」
貴志は文句を言ってくる。
「夜に勤務のときだってあるし、帰ってきて夕飯ないのつらいんだけど」
勝手に遅く帰ってくるときもあるくせに、そんなことを言われても知ったことじゃない。
「作り置きのおかずもあるから食べてもいいんだよ」
「あったかいのがいいんだけど。夜の勤務って変わってもらえないの?」
「他の人にも都合あるから、私だけってのは無理だよ」
実は夜に勤務がない日も結構ある。だけど、そういう日は夜にトレーニングをすることに決めている。
それに、作り置きのおかずだって私が栄養のバランスを考えて作ったものばかりだ。それを、食べもせずに文句を言われても困る。
作りのおかずだって、温めれば美味しく食べられる。なんなら、冷凍ご飯だって置いてある。私はそれを美味しく食べている。
「ねえ、やっぱり最近太ってない? 時間が不規則になってるからじゃないのか?」
「そうかな」
だから、私は太っていない。
そう見えるのは貴志にバレたくなくて、前よりもだぼっとした服を着ているからだ。
わかっていても、貴志の言い方に苛つく。
「あ、そうだ。今度の土日、出張でいないから」
「そうなんだ。わかったよ」
私はにっこりと笑う。
送り出すときにも満面の笑みで送ってあげよう。
◇ ◇ ◇
貴志の出張がわかった日の次の朝、私は電話を掛けていた。
「今週末なんですが、お願いできますか?」
『わかりました』
電話の向こうから頼もしい返事が聞こえる。
◇ ◇ ◇
「まさか、本当にこんな日が来るなんて思ってませんでした。あ、いえ、小澤さんのやる気がなかったとかではなくて、夢みたいで」
「なに言ってるんですか、岸本コーチ。それを言うのは私の方です」
「もう私が教えることもありませんね」
「そんなわけないですよ! 当日まで教わっておくことは沢山あります」
「お二人とも仲がいいですね」
私と岸本コーチが話していると、そこに鈴木さんが通りかかった。
「全く、最初にここに小澤さんが来た日、こんなことになるとは思いませんでしたよ」
「こんなこと、ですか?」
私は鈴木さんに聞き返す。
「だって、小澤さんすごくおどおどして現れて、運動なんかしたことないって言ってて。そりゃ、私だってこのクラブの人間ですから、向いてなさそうな人にも大丈夫だって安心させるお仕事なわけですが」
はぁ、と鈴木さんがため息をつく。だけど、その顔は笑っている。
「私、そんなに向いてなさそうでしたか?」
わかっていて聞く。最初は私だってそう思っていた。すぐにやめても仕方ないと思っていた。
「だって、顔は青白くて、すごく自信がなさそうで、でも……」
「でも?」
私は首をかしげる。
「ね、岸本コーチ?」
「うん。私はわかってました。だって、なにかを始めたいって、その気持ちだけはすごくあふれていたように見えましたから」
「小澤さんが帰った後、テレビで自分を見て来てくれるなんてすごく嬉しいって言ってましたもんね」
岸本コーチが笑う。
「それにしても……」
と、鈴木さんが再び嬉しそうにため息を吐く。
「岸本コーチと変わらないくらい筋肉馬鹿になるとは思ってませんでしたよ! なんで、二人して勤務時間外に筋トレしてるんですかー!」
鈴木さんの言葉に、私は岸本コーチと顔を見合わせて笑う。
「んー、もちろん必要ってのもあるけど。ねぇ」
岸本コーチが私に向かって微笑む。
そう、必要なのもあるけれど、一番の理由は。
「楽しいから、ですよね」
「そう!」
岸本コーチが嬉しそうに頷く。
「はー、どうぞ心置きなくやってください」
そう言いながら、鈴木さんも笑っている。
これが浮気だと言われるなら、それは否定できないかもしれない。
だって、ここで筋トレをしている方が貴志といるよりずっと楽しい。
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