第11話 どうでもいい男

「すごいですね」


 岸本コーチに話し掛けたら、きょとんとされた。


「トレーニングのことです。さっき早く来すぎてしまって、コーチがトレーニングしてるの見て」

「見られちゃいましたか」


 少し恥ずかしそうに岸本コーチが答える。


「すごく真剣そうで、なんか感動しました」

「そんな。ええとですね。今度ボディビルの大会がまたあるんです。そのために調整してて、あ、無断でマシンを使ったりなんかはしてませんよ。ちゃんと許可は取ってます」


 そんなことは気にしていないのに、言い訳みたいに岸本コーチが言うのがおかしい。


「もしよかったら、見に来ますか?」

「行く行く! 行きます! 行きたいです! それなら、アレ、かけ声とかもやってみたいですし」

「あはは、楽しいですよね。かけ声」

「最初びっくりしましたけど」


 そう、ボディビルの大会はかけ声が楽しい。実際にその場であれを体験するのも面白そうだ。

 それよりなにより、岸本コーチの勇姿を生で見られるのが一番楽しみだ。


「よろしければ、後でチラシお渡ししましょうか。私の写真も載ってるんですよ」

「ください! 出来れば二枚!」


 前のめり気味に食いついてしまう。保存用も欲しいとか思って口に出してしまった。


「誰かと来られます? あ、旦那さんといらっしゃいますか? 結婚、されてるんですよね」

「……あ」


 一瞬で、気分が落ち込んだ。やっぱり、貴志のことを考えるのはよくない。

 そういえば、結婚指輪をつけっぱなしだ。外そうかな、と思った。


「ごめんなさい。なにか、事情があるんでしょうか」

「いえいえ、大丈夫です」


 私は笑ってみせる。どうやら目に見えてわかるほど酷い顔をしていたようだ。


「そういうの、興味ない人ですから。それに……」


 いや、岸本コーチに言っても仕方ない。


「どうされました?」

「なんでもないです。それより、がんばってください! 応援しに行きます!」

「ありがとうございます! がんばります!」


 岸本コーチがぐっと体の前で拳を握りしめる。


「それにしても、小澤さんすごいですね。毎日トレーニングに来られてて。今日もパーソナルトレーニングの日じゃないですよね」

「そう、ですけど。なんだか運動してないと落ち着かなくて」

「いいことです。続けているのは素晴らしいことですよ」


 うんうん、と岸本コーチが頷く。

 褒められているようでくすぐったくなる。

 こんな私がこんなに夢中になれることがあるなんて知らなかった。

 そうだ。

 貴志のことなんてどうでもいい。

 今度の大会もとても楽しみだ。

 そう他人事のように思っていたのだけれど……。

 帰りにチラシをもらうとき岸本コーチが言った。


「小澤さん、ボディビルに興味があるんですよね」

「あ、はい」


 私は大会を見に行くことを言われているのだと思って答えた。


「よかったら、やってみませんか?」

「へ?」


 なにを言われているのか、わからなかった。


「素質はあると思います。こんなにストイックにトレーニングが出来るなんてすごいことです。それに、強くなりたいと言っていましたよね。目標があるといいと思うんです」

「え」


 考えてもいなかった。


「もちろん、次の大会はさすがに間に合いませんけど、もし興味があるのならどうですか」

「どどど、どうって」


 あまりのことに、うまく言葉が出ない。


「面白がってはくれても、小澤さんみたいに真剣にいいって言ってくれる人、少ないですから」


 えへへ、と岸本コーチが笑う。


「だから、私。すごく嬉しかったんです。小澤さんによかったって言われて、私を見てここに来てくれて。それで舞い上がっちゃってますね。あ、でも無理はしなくていいんですよ。ただ、大会は見に来てもらえたら嬉しいです」


 はい、と岸本コーチが私にチラシを渡してくれる。

 そこにはあのときテレビで見た堂々した岸本コーチが写っていた。




 ◇ ◇ ◇




「わ、なにそれ、気持ちわる」


 家で岸本コーチにもらったチラシを見ていたら、後ろから貴志の声がした。

 しまった。貴志が帰ってきたことに気がつかなかった。

 なにを言っているんだと思った。


「どっかで配ってたやつでももらったの? 捨てなよ」


 貴志がチラシを私の手から奪おうとする。


「ちょっと!」


 私は貴志の手から、チラシを守った。守ろうとした。それなのに。

 チラシは、真っ二つに破れてしまった。


「なんだよ、危ないな」

「……それ」

「?」


 怒りがこみ上げてくる。もう一枚、予備でもらってあったことはすっかり忘れていた。目の前の大切なチラシが酷い状態にされてしまったことがショックだった。


「それ、私の知り合いが出るの! 大事なチラシだったの!」

「うわ、お前、そんな知り合いいたの?」


 貴志があからさまに嫌そうな顔をする。

 どうして私はこんな男と結婚していたのか、わからなくなる。


「え、もしかして、美歩ってそういう男が好きだとか? まさか、浮気してるわけじゃないよな……?」

「は?」


 私は貴志をにらむ。

 自分が浮気しているくせに、よくそんなことが言える。


「な、なんだよその顔。本当に浮気してるのか?」


 呆れすぎて言葉が出ない。

 その顔とか言われても自分がどんな顔をしてるんだか……、今までこんな顔を貴志に見せたことはなかったかもしれない。

 貴志にも誰にも、きっとなかった。

 誰かをにらみ付けるなんて、したことがなかったかもしれない。

 自分を強く出すのが、私はずっと苦手だった。


「浮気なんか、してないよ」

「本当かよ」

「だって、私の知り合いって女性なんだから」

「女性!? それでボディビルとかしてんの!?」


 ああ、もう。

 いちいち反応がうっとうしい。

 言ってしまおうか。今ここで、お前の方が浮気しているんじゃないかと。


「そう、すごくかっこいいんだよ」

「はぁ、美歩にそんな趣味があったなんて知らなかったな」

「私は、見に行くつもりだよ」


 ぶちまけたい。

 色々と。

 だけど、それなら……。

 ちゃんと、こんなところでケンカをしても仕方ない。

 運動をすることで頭までスッキリするようになった気がする。

 泣き寝入りなんて、絶対にしない。

 一年後に、なにも知らないで死んでしまう私と今の私はもう違う。


「えー、行くのかよ。俺は行かないからな。てか、美歩、そんなもん見に行く金あるのかよ。俺の稼いだ金で気持ち悪いもの見に行くなよ」

「……」


 確かに、パーソナルトレーニングで結構使ってしまっている。それに、他にも使いたいことがある。お金が大事であることは間違いない。そして、今現在貴志の収入に頼っているのも確かだ。

 この人に、もしスポーツクラブにいっているなんて言ったらめちゃくちゃに否定されそうだ。

 そういえば、この人も運動はそこまで好きではなかったんだっけ?


「わかった。私、働くね」

「は? 当てなんかあるのかよ。それに、ほら、専業主婦しててもよく体調崩したりするくらいだろ? 大丈夫なのかよ」

「ちょっとずつやるから。それに、家にいるだけじゃ貴志に迷惑掛けちゃうでしょ?」

「家事とかどうすんだよ。俺の夕飯とか」

「それもなんとかする、つもり」


 正直、前より体は軽い。家にいるとなまってしまうような感じだ。

 多分、今の私なら出来る。というか、いつも夕飯のときに帰ってくるかどうかわからないくせに、なにを慌てているんだろう。

 もしかして、私が外に出て行くのが嫌なんだろうか。

 なんて小さな男なんだろう。

 ああ、こんな男、本当にどうでもいい。

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