第10話 この人と離れたい

 パーソナルトレーニングは週に二回。岸本コーチが一時間つきっきりで指導してくれる。憧れの人が、自分だけのために指導してくれているなんて夢みたいだ。


「まずはストレッチから。最初のストレッチは大事です。パフォーマンスも上がりますし、怪我の予防にもなります」


 最初に岸本コーチが教えてくれた。だから、それも無駄な時間だと思わずにしっかりとやる。

 時間いっぱいがすべて勝負だ。

 それから、ようやくトレーニング。私の場合、腕立て伏せやワイドスクワットなどマシンを使わないものから始めた。最後に体をほぐすためのストレッチもある。

 もちろん、パーソナルトレーニングの後もマシンは使い放題だ。が、パーソナルトレーニングだけで結構くたくたになるので、今はまだ追加で運動するような状態ではない。

 だけど、すごく達成感はあった。


「もう少しだけ頑張ってみましょうか」

「いいですよ!」


 岸本コーチに言われると頑張れる。




 ◇ ◇ ◇




「あれ? 最近太った?」


 貴志の言葉にはテンションが下がる。


「そ、そう?」


 笑いが引きつった。


「結構食べるようになってない?」

「そうかな」


 今日は貴志が帰ってきたので一緒に夕飯を食べている。当日にならないと夕飯がいるかどうかわからない本当に面倒な男だ。


「うん。でも、うまい」


 なにも知らないで、貴志は私の分まで食べている。

 仕方ない。あまり急に量を食べるようになると怪しまれそうだ。


「でもさ、なんか淡泊じゃないか? 鶏肉はムネ肉よりもも肉の方が好きなんだけど、俺」

「そうだったっけ。ごめんね」


 お前のためにムネ肉にしてるんじゃない。私のためだ。

 鶏ムネ肉は高タンパク低脂質。更に鶏ムネ肉にイミダペプチドには疲労回復効果があり、ビタミンB6でタンパク質の代謝も助けてくれる。

 筋トレには欠かせない食材だ。


「皮はついたままの方が好きだな」

「そっか」


 うんうん、皮がついてると一気にカロリーが上がっちゃうけどね。ちゃんと岸本コーチと相談してカロリー計算までしているのに文句を言うんじゃない。

 そして、顔を上げて見たくもない貴志の顔を見てみた。

 あれ? と、思った。

 最近、貴志は外食が多かった。もちろん浮気相手とだと推測される。

 だからだろうか、


『太ったんじゃない?』


 さっき貴志が私に言った言葉を、返してやろうかと思った。


「どうしたの? え、俺がかっこいいとか?」


 じっと見ていたのを勘違いしているのか、貴志がにやにやしている。一体なにを言っているんだろう、この人は。

 確かに、結婚前とか結婚した当時は貴志のことをかっこいいとは思っていた。勘違いしてしまうくらい自信を持ってもいい顔ではある。だから、こんなイケメンと結婚できて嬉しかった。前の私は、だが。

 今はもうこの顔を見てもなんとも思わない。むしろ、ここから更に太っていくんじゃないかと勘ぐってしまう。

 私は太ったんじゃなくて筋肉がついただけだ。それを太ったと勘違いするなんて。


「なんだよ、そんなに見られたら照れるじゃないか」


 私は苦笑いして目を逸らした。冗談でもそんなことを言われるのは気持ち悪い。

 この人と離れたい。

 そう思った。

 だけど、離婚ってどうやったら出来るんだろう。面倒なことになるなら、そんなごたごたで時間を使うのは馬鹿らしい。

 がんばって離婚して、慰謝料をもらったとしてもすぐ死んでしまったら意味が無い。

 それを思うと、この男のことはスルーするくらいでちょうどいい。




 ◇ ◇ ◇




 朝も最近はちゃんと食べている。岸本コーチにきちんと三食食べた方がいいと言われたからだ。

 もちろん、納豆や豆腐など簡単なものではあるけれど、きちんとタンパク質のことを考えた朝食をとっている。

 以前の私は朝食なんかほとんど食べていなかった。朝は苦手だったから。寝起きも悪かった。

 だけど、運動をするようになってから朝がすっきり起きられるようになった。寝付きも悪かったのが、最近気がついたらいつの間にか眠りについている。

 健康ってすごい。

 いつも朝食は貴志の分だけ用意して私はほとんど食べていなかった。さすがにいきなりがっつりと食べるようになると驚かれるといけないので、私の分は貴志が出勤してから食べている。

 ちなみに貴志の分は、前と同じトーストとコーヒーだ。本人がそれでいいと言っているから、問題はない。むしろ、それすら別で用意しなければならないのが今は面倒だ。

 それにしても、


「今日もご飯が美味しい」


 それだけで嬉しくなる。前はよく胃もたれしていて食べられなかったのが嘘みたいだ。

 自分のために作る食事は苦痛じゃない。

 そもそも、まだ貴志のことを好きだと思えていた頃は二人分作るのも遅く帰ってくるのも、帰ってくるかどうかわからなかったのも、苦痛ではなかった。

 貴志が浮気さえしなければ、苦痛なんかじゃなかったのに。

 でも、


「ごちそうさま!」


 私は手を合わせる。

 そして、


「今日もがんばろう!」


 自分で自分に気合いを入れる。

 今日はパーソナルトレーニングの日じゃない。でも、パーソナルトレーニングがない日でも、私はスポーツクラブにできるだけ通っていた。

 一人でトレーニングをする分には毎日通ってもいい。

 体を動かしている方が前向きになれる気がする。




 ◇ ◇ ◇




「早く来すぎちゃった」


 やる気があふれすぎて、思わずスポーツクラブが開く前に着いてしまった。早く体を動かしたかった。


「あれ?」


 スポーツクラブの中はまだ会員はいないはずだ。それなのに、誰かがトレーニングしているのが見えた。ガラス張りなので中はよく見える。


「あ、岸本コーチ?」


 見間違えるはずもない。トレーニングしているのは岸本コーチだった。

 私と接しているときは、いつも笑顔の岸本コーチ。

 だけど今は鬼気迫るという表現が似合う顔だった。

 真剣だ。

 本当に、本気で筋トレをしている顔だった。

 私は、見とれてしまった。

 とても、美しいと思った。

 いつもはスポーツウェアの中に隠されていてわからないその筋肉が。

 あの日、私がボディビルを見て感動した筋肉が。

 そして、そのために努力を続ける岸本コーチが。

 とてもとても、美しいと思った。

 私もああなりたいと思った。

 裏切られない体を持ちたいと。

 あれほどにはなれなくても、少しでも近付きたい。

 どうしてだろう、涙がにじんでしまった。

 しばらくすると岸本コーチはトレーニングをやめて行ってしまった。私には全く気付いていないようだった。それくらい集中していたに違いない

 その姿が見えなくなってから、営業時間が近づいたのだと気付いた。

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