第9話 私は変われる
「まずは食事から見直しましょうね」
パーソナルトレーニングのカウンセリングの日。私とスポーツクラブのロビーにある机を挟んで向かい合っている岸本コーチがにっこりと微笑む。
「というか、これだけしか食べてなかったんですか?」
「うう、はい。夫には作っていたんですけど、私、子どもの頃からあまり食べられなくて……」
申し訳ない気分になって思わず肩をすぼめてしまう。
「これでよく運動してて倒れませんでしたね」
「そういえば……、よく運動の後にふらつくな、とは思ってました」
「ダメじゃないですか、ちゃんと食べないとエネルギーが全然足りませんよ。これじゃ、いくら運動しても筋肉がつきませんよ」
岸本コーチがため息を吐く。
そうだったのか、と妙に納得する。今まではそれほど動かなかったから、お腹が空くなんてことがあまりなかった。あのふらつきはエネルギー不足だったらしい。いつもと同じじゃダメだったのかと今更思う。これまでの自分の生活が普通になりすぎていてよくわからなかった。
「ダイエットの方なら糖質制限とかおすすめしたりもするんですが、小澤さんの場合はちゃんとバランス良く食べることから始めた方が良さそうですね」
「それは、あれですか? プロテインを飲んだりとか……」
「あはは。って、どこまで本気で筋肉付ける気ですかっ!」
突然、ツッコミ入った。
「だから、小澤さんにはまず普通の食事が大切ですってば。それから、必要だったらまたそれも考えましょう」
うんうん、と岸本コーチが頷く。
確かに、私の今までの食生活はダメダメだったみたいだ。
だけど、
「本気だと、変、ですかね……」
ぽつりと、私は呟いた。思わず口に出てしまった。
「小澤さん……」
小さな声だったと思う。それでも岸本コーチは聞き逃さないでくれた。
「本気、なんですね」
こくり、真剣な顔で岸本コーチが再び頷く。
「じゃあ、まずタンパク質とりましょう! 鶏胸肉がすごくいいですよ! でもちゃんとビタミンミネラル、バランス良く取ってください! 野菜も食べましょう。私が食べてるものとかお教えしますね!」
「はい!」
「それと、筋力をつけたいということですが、どれくらいを想定してます? ダイエットではないんですよね。本気、なんですもんね」
「むしろ、太りたいくらい細いのでダイエットは全然考えてなかったです」
ダイエットをしたい人には怒られるかもしれない。だけど、私には私の悩みがある。これは私の本気だ。
「いいと思います。まず二ヶ月の契約ですが、ダイエットじゃないならどこを目指しますか。ちゃんと目標は決めておかないとですよ。せっかくのパーソナルトレーニングですからね!」
「目標……、私……、強くなりたいんです」
「強く、ですか」
「テレビで岸本コーチを見たとき、すごく感動して……。筋肉は裏切らないって、それがすごく印象的で」
話しながら思い出すだけで、涙が出そうになる。
「それはネットでもすごく使われてて、私の言葉じゃないので恥ずかしいんですが」
岸本コーチが照れたように笑う。でも、なんだか嬉しそうだ。
「私、もう裏切られたくないんです」
私は一体誰に向かって、なにに向かって言っているのだろう。
どうせ死ぬのなら、満足して死にたい。あんな気持ちはもう嫌だ。
貴志のことも見返してやりたい。弱くてなにも出来ない女のままなんて嫌だ。
私はなににも裏切られないものが欲しい。
「わかりました!」
岸本コーチが、がしっと私の手を握る。
「強くなりましょう! 私もボディビルが大好きでこの仕事もその延長でやっているんですが……、そこまで言ってくれる人はなかなかいなくて。私の言葉でそんなにも運動がしたいと思ってくれる人がいるなんて、すごく、すごく嬉しいです」
その目には涙がにじんでいる。
スポ根なんて今は流行らないとか思いつつ、こっちまでちょっと泣けそうになる。
「一緒にがんばりましょう!」
「はい! コーチ!」
私も強く、岸本コーチの手を握り返した。
コーチの手があたたかかった。人に触れるのって、いつぶりだっただろう。
一年後から戻ってきてから、貴志は私に触れていない。本当の一年前ってどうだったっけ。
もう忘れた。
そういうのが無くなっていくのも結婚してから一年も経てば仕方ないのかなと思っていた。
そもそも、子どものことに関しては私の体が弱いから無理しなくてもいいと貴志が言ってくれた。それも優しさだと思っていた。けれど、きっと違った。浮気相手の方がよくて、私なんてどうでもよかったんだ。
でも、私はもう大丈夫。
「トレーニングの計画も立てていきましょう! 小澤さんはウォーキングマシンしかまだ使われてなかったんですよね」
「なんとなく敷居が高くて」
「これからは他のマシンも使ってみましょうか。あ、でも安心してくださいね。無理はしないように、ちゃんと弱めの負荷から始めますから。最初から飛ばして体に負担になるのはよくありませんからね」
「わかりました」
私のこの気合いの入り方からすると、本当は最初から飛ばしてやりたかった。それでも、岸本コーチの言うこともわかる。
ここに通うようになってから、少し体が動くようになったのは間違いない。それでも、油断はしてはいけない。無理して倒れたら意味がない。
「大丈夫ですよ。せっかく私に任せてもらえたんだから、物足りないようだったらちゃんとプログラムの見直しもします!」
私があまり納得していないことに気付いてくれたのだろうか。岸本コーチは胸を叩いて言った。
頼もしい。
この人に惹かれてここに入ったのはきっと間違っていない。
家にこもって、貴志だけを待って、そのまま死んでしまうよりずっといい。
正直、貴志と別れることに力を注ぐことと、私が強くなること。どうせ時間が無いならどっちに力を注ぐべきかも悩んだ。
そして、自分のことに力を注ぐべきだと思った。
これは、私が決めた。
仕事を辞めるときも、結婚するときも、幸せだねってみんなが言ってくれた。いい人に出会えてよかったねって。
でも、それは私の意思だった?
「大丈夫ですか?」
黙り込んでしまった私の顔を、いつの間にか岸本コーチが心配そうにのぞき込んでいた。
「小澤さん、子どもの頃から体が弱いってお話しされてましたもんね。不安、ですよね?」
岸本コーチは私の話を覚えていて、そんなことまで心配してくれた。
「はい。確かに私は子どもの頃から体が弱くて、それがずっと嫌でした。それで、……大切な人にも裏切られて……」
「小澤さん?」
「い、いえ、なんでもないです」
思わず言わなくてもいいことまで口にしてしまっていた。
「大丈夫です。本当に無理はさせませんから。それに、この一ヶ月で小澤さんの顔色は本当によくなってきているともいます。時々お見かけしているだけの私でもそう思ったんです。きっと出来ますよ。小澤さんは強くなれます」
「……ありがとう、ございます」
今まで誰もそんなことは言ってくれなかった。
体が弱いんだから、無理してはいけない。その言葉を真に受けて、努力しようともしなかった私も悪い。
だけど、これからきっと変われる。
「小澤さんが頑張れば、きっと体も答えてくれます。筋肉は裏切らないんですから」
「……筋肉は、裏切らない」
口に出せば本当になる気がした。
貴志に裏切られても、筋肉だけは裏切らない。
それは、私の努力の証だから。
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