第8話 ありがとう筋肉
「大丈夫?」
「う、うん……」
「昨日なにか無理したりした?」
「ええっと……」
お前のせいだとは言えずに、私は口ごもった。絶対にスポーツクラブのせいではない。最初はそれでぐったりしていたときもあったけど、最近は運動した後も少し体が楽になってきていた。
どう考えても昨日の夜、貴志の浮気メールを見たせいだ。しかも、出張と偽って浮気相手とお泊まりに行こうとしているなんて熱が出て倒れてもおかしくない。
「今日は大人しく寝てるんだぞ。食べるものは……、あったかな。俺、わからなくて。帰りには食べられそうなもの買ってくるよ。後でなにがいるか連絡してくれる? って、そろそろ時間だ。会社行かないと」
「大丈夫、レトルトの雑炊とかあるから。……行ってらっしゃい」
「そっか、行ってきます! 愛してるよ」
取って付けたように愛の言葉を呟いて、ばたばたと貴志は出ていった。
私はもちろん、その言葉にはなにも応えなかった。答える言葉なんてあるわけがない。
まだ私に対する愛があったのかと、他人事みたいに思う。口からでまかせなんじゃないの?
一応私のことを心配していたようだった。だけど、一年後のあの態度を知っている今では、貴志のなにも信じられない。
「はぁ」
私はため息を吐いた。
ショックだった。知ってはいたけど、一年前に戻ってきて再びしっかりとした証拠を突きつけられたのは今回が初めてだ。
更に、この状況は私が死んだときを思い出す。
「……まさか」
死ぬ日が早まる、なんてことはあるんだろうか。
だとしたら、おちおち目なんか閉じていられない。ここで死んだらまた更に一年前に戻る?
そうすれば貴志と結婚する前に戻れる。
だけど、また戻れるかどうかなんてわからない。今度こそ本当に死んでしまって目が覚めないかもしれない。
「……そんなの、嫌だ」
この体調で死んでしまうことはないとは思う。あのときよりはマシだ。それでも不安になる。
だけど、眠い。
「……嫌、だ」
涙が、出てくる。
悔しい。
それでも、私はいつの間にか眠っていたらしい。昨日は桃香のメールを見てしまったせいでよく眠れなかったんだった。
目覚めたときにはもう夕方だった。それはあのときと同じではあるけれど、熱は少し下がっているようだった。
「大丈夫。私、……まだ生きてる」
それに、立ち上がれる。
あのときとは違う。
カレンダーを確認する。なにも変わっていない。
スマホの日付も念のために見る。今日のままだ。
貴志と結婚する前に戻っているのではないかと、少しだけ期待した。
だけど、
「生きてて、よかった……」
そっちの方がずっと大事だ。
浮気のショックなんかで死にたくない。
あのときと同じようにスマホが鳴った。
「まさか……?」
私はスマホをのぞく。
そして、
「あは、あははは」
思わず笑ってしまった。
『ごめん 急な仕事が入って帰れそうにない 無理しないで休んでて』
本当に仕事だったら笑って申し訳ない。
だけど、あの日に見たメッセージとあまりにも似ていて笑わずにはいられなかった。笑いすぎて涙が出た。
「あーあ、いいや。朝も言ったけど買い置きあるし、なんかちょっと元気になったし」
不思議だった。
前なら体調を崩したら数日から一週間くらい引きずっていた。起き上がることすら難しかった。でも今日は一日寝ていただけで回復しているような感じだ。
思い当たることは……。
「やっぱり、筋肉……」
それしかなかった。
そんなに激しい運動をしていないから筋肉がそれほどついた実感は無い。ただ、運動をしたことで免疫力が上がったというのは考えられる。
さっき眠る前は本当にもう一度死ぬかと思った。
「ありがとう筋肉」
自分の体にお礼を言わずにはいられない。
やはり、あれだ。
筋肉は裏切らない。
夫が私を裏切ったとしても、筋肉だけは。
◇ ◇ ◇
大事をとって数日は休むことにした。本当に死んだら困る。ヨガのレッスンも、もったいないけれど一日休んだ。一応、貴志は遅くなったことを謝ってはくれたが、信じる気にはならなかった。まず、どうやって信じろというのだ。
そして、スポーツクラブに再び行ったその日、私は受付で開口一番、言った。
「パーソナルトレーニング、やりたいんですが! 出来れば、岸本コーチでお願いしたいです!」
言った。言ってしまった。
こんなにお腹の底から声を出したのは初めてだった。
受付のお姉さん(通い始めてからはちゃんと
自分で言うのもなんだけど、すごい勢いだったと思う。それくらいすごい意気込みだったと思ってほしい。
そんな周りから見るとちょっとおかしい態度でも、鈴木さんはいつもと同じように笑顔で頷いてくれた。ほっとする。ここは本当に笑っている人たちばかりでほっとする。
「そうですね。小澤さんは平日フリー会員一ヶ月の契約でしたっけ」
「はい」
もしかして続かないかと思って安くはならなくても一ヶ月で契約していた。
「では、そろそろ一ヶ月なのでそちらが終わってから移行されますか?」
「いえ」
私は首を横に振った。
「すぐ、お願いします」
でないと決心が鈍ってしまったら困る。それに、始めるなら今すぐやりたい。私には時間が無い。パーソナルトレーニングにするとフリー会員よりも会費も高いが、死ぬまでくらいなら足りなくなることはない。
鈴木さんに促されるまま、私はパーソナルトレーニングの申込書を書いた。
今日すぐ出来るわけではないらしい。カウンセリングなども行わなくてはいけないため、時間が掛かるから予約を取らなければならないそうだ。それでもいい。私は一歩を踏み出した。
「今日も運動はされていかれるんですよね」
「もちろんです」
鈴木さんに聞かれて、私はこくりと頷いた。
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