第7話 出来ることからコツコツと
最初に見学に来たときに、みんながにこにこと笑顔だった意味はすぐにわかった。
「お疲れ様でした~」
「おつかれさまでした!」
「先生、今日もありがとうございました」
私は今、ヨガの初心者向けレッスンに参加していてそれが終わったところだ。
みんなに混ざって、ヨガの先生にぺこりと頭を下げる。
初心者向けだから、難しいポーズは無いし先生も優しいので私でもなんとか出来る。私がポーズがよくわからずに困っていると、こうすると楽だとか色々教えてくれる。
なんというか、みんなと一緒にやっているはずなのに自分のペースで出来る。そんな、緩い感じが私に合っていた。
そして、この心地よい疲労感。私が今まで感じたことのないものだった。
「小澤さん、今日はどうでしたか?」
先生が話しかけてくれる。
「なんとか出来ました」
「よかったら、また来週も来てくださいね」
「はい!」
もちろん、来週も受けるつもりだ。だって、すごく気持ちがいい。知らなかった。本当に体育なんて苦痛でしかなかったのに、ここでの運動は全然違う。
私は少し悩んでから、トレーニングマシンがあるエリアへと足を向けた。
まだいけそうだ。
「よし」
気合いを入れて、ウォーキングマシンにトライすることにする。無理のない速さに設定して、ゆっくりと歩き出す。
入会したときに色々とマシンの説明はされた。よく見る胸筋を鍛えるやつとか、重りがついているやつとか、ここには沢山のマシンがある。だけど、ランニングすらハードルが高そうな私が使えそうなマシンはこれくらいかな、と思った。
せっかく入会したのにもったいないとも思うけれど、まずは出来そうなものから初めていいとコーチにも言われた。
他の人からすればすごくゆっくりなスピードにしているのに、息が上がってくるし汗も出てくる。
やっぱりヨガの後にこれはやりすぎだったかもしれない。
「小澤さん」
「わととっ」
急に横から声を掛けられて、ウォーキングマシンに足がついていけなくなって私はつんのめってしまった。
なんとかバランスをとったまま歩き続けて、手すりにつかまる。そして、マシンを止めた。
「大丈夫ですか? 私が急に声、掛けちゃったから。せっかくウォーキングしていたのを止めさせてしまってごめんなさい。コーチなのに」
「全然っ」
私は声を掛けてくれた人を見る。もちろん、この声を間違えるはずが無い。
「こんにちは、岸本コーチ」
私がこのスポーツクラブに入るきっかけを作ってくれた岸本コーチだ。でも、今のところ直接指導してもらっているわけではなく、こうして時々話すくらいだ。
「どうですか? 少しは慣れましたか?」
「そうですね。ちょっとは、慣れてきた感じです。今もヨガのレッスンを受けてきたところです」
「ヨガですか。いいですね。少しずつ慣れていくのが大事ですから。あ、ちゃんと水分補給はしてますか?」
「あ、忘れてました」
「水分も大事ですよ。そこに自販機もありますからね」
岸本コーチが指さして教えてくれる。
「他のマシンはも使われてますか?」
「いえ、まだ。私、本当に運動してこなかったので、まずは出来そうなところから、と思って」
「いいですね」
にこりと岸本コーチが笑顔になる。
「まずは続けていくことが大事ですから! 最初に一気に強い運動をしようとして、自分には出来ないからとすぐにやめてしまう方もいるんですよ。小澤さんは素晴らしいですね」
「そうでしょうか? 私、こんなことしか出来なくて」
「なに言ってるんですか、前よりも顔色も良くなってきていますよ。すごくいいです。もし、他の運動にもチャレンジしたくなったらおっしゃってくださいね。パーソナルトレーニングなんかもありますから」
「わ、私なんかが出来るかわかりませんが」
パーソナルトレーニング。
コーチにトレーニングメニューを考えてもらったり、食事メニューまで指導してもらったり出来るというやつだ。入会のときにもそういうコースがあることは説明された。
だけど、私にはそこまでは必要ないというか、そこまで出来る気がしなくて普通のコースにした。
岸本コーチについてもらえるなら、それもいいかと一瞬思ってしまったんだけど思いとどまった。
私の弱気な心を吹き飛ばすように、岸本コーチが笑って言う。
「ダイエットなんかでパーソナルトレーニングを選択される方もいらっしゃるくらいですから。そんなに身構えなくても大丈夫ですよ。って、あんまり勧めると営業みたいになっちゃいますね。すみません」
「そんな、営業だなんて」
「じゃあ、がんばってくださいね」
そう言って、岸本コーチは行ってしまう。
ダイエットなんか考えたこともなかった。元々、細くってむしろ肉を付けた方がいいとか言われるような人生だったから。
でも、岸本コーチに言われた一言はすごく嬉しかった。
前より顔色が良くなった。
その一言が嬉しい。
顔色が悪いとよくいわれていて、顔色がいいなんて言われたことがほぼ無かったから。
思わず一人でガッツポーズしてしまう。
力を入れたその瞬間、少しふらついた。
急に運動を始めたからといって、すぐに健康になったわけじゃない。
気をつけなきゃ。
◇ ◇ ◇
出会ってからそこまで経っていない人が気付いたくらいだ。もしかして貴志だって気付くかも知れない。もうどうでもいいと思っていても、顔色が良くなったとか言ってくれるんじゃないかと、少し期待した。
それなのに、
「ただいま」
また遅く帰ってきた貴志は私の横を素通りした。スポーツウェアのときは気付いたのに、私自身の変化には全く気付かないらしい。それとも、私のことなんて目に入っていないんだろうか。
それとも、コーチがお世辞で言ってくれただけで本当はそれほど変わっていないのだろうか。
「風呂、いい?」
「うん」
気付いてくれるどころか最低限の会話しか無い。
がっかりした。こんな人だったっけ、と。こんな人のために風呂を用意しなければいけないことが嫌だった。
が、
「ん?」
貴志が風呂に行ってしまった後、私は見つけてしまった。
最近にしては珍しく、リビングの机の上にスマホが置きっぱなしになっていた。うっかり忘れていったに違いない。
着信音が鳴る。私は貴志のスマホに走り寄った。
もしかして……!
やっぱりだった。
『今日も楽しかったね。でも、仕事帰りだけじゃ足りないよ。今度はお泊まりもしたいな~』
ロック画面にメッセージが表示されている。
送信相手は、もちろん桃香。
「そっか……。やっぱり夢じゃ、ないよね……」
ああ、また目眩がする。
少しだけ、まだ貴志のことを信じていた。私が死んで一年前に戻ってきたのは夢で、貴志は浮気なんかしていなくて、本当に大きなプロジェクトに参加しているだけなんだって。
だけど、違った。
こんなの絶対に浮気メールに決まっている。
なんなの、お泊まりって!
貴志のスマホの画面はもう消えている。思わずがしっと掴んで画面を開いてみようと試みるけれど、パスワードの設定がされている。私の誕生日を入れてみても開かなかった。
そうこうしていると、風呂場の方から貴志が出てくるような音がした。慌ててスマホを机の上に戻す。
どうして私がこんなにも慌てないといけないんだろう。浮気しているのは貴志の方なのに。
「スマホ、鳴ってなかった? もしかして仕事の連絡かも」
貴志は早口で言って、さっとスマホを手に取る。そして、メッセージを確認したらしく、
「今度、出張が入りそうなんだ。まだいつになるかわからないけど」
私の顔を見もしないで言った。さすがに目が合わせられないんだと思う。罪悪感が少しでもあるならやめてくれればいいのに。
「そうなんだ。忙しいんだね」
浮気が。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます