夫には裏切られても、筋肉は絶対に私を裏切らない

青樹空良

第1話 幸せだと思っていた

 幸せだと思っていた。だって私には優しい夫がいる。

 そう、優しい。

 私はリビングのソファに座りながら、時計を見てため息をつく。


「もう10時だよ……」


 もちろん朝じゃなくて夜の。

 冷蔵庫の中には夫・貴志たかしの大好きなハンバーグが入っている。すでに材料と一緒にこねてあるので、後は貴志が帰ってきたら焼くだけでいい。本当は焼いておいた方が楽だけれど、できれば貴志には焼きたての美味しい状態で食べて欲しい。

 それとシャキシャキの新鮮な野菜のサラダと、たっぷりとトマトを入れて煮込んだミネストローネ。

 帰ってきてこのメニューを見たら、きっと喜んでくれるに違いない。

 もちろん、私も食べないで待っている。

 だって、貴志が一生懸命残業してくれているのに、先に食べてしまうなんて出来るわけがない。

 お腹は、かなり空いているけれどがんばっている貴志のことを思えば我慢できる。

 我慢、出来る。とは、思っているんだけれど……。

 いい加減、そろそろ帰ってくるはずだ。

 ソファから立ち上がろうとすると、


「……っ」


 なんだか目眩がして、慌ててソファにつかまった。

 嫌になってしまう。私は子どもの頃から体が弱い。体育もみんなが運動しているところを、見学していることが多かった。

 今はお腹が空いているから余計に力が入らない気がする。


「貴志、早く帰ってこないかな……」


 私の顔を見て、大丈夫? って声を掛けて欲しい。それだけで、体力が回復するような気がするから。

 そんなことを思っていると、玄関の方からガチャガチャと鍵を回す音がした。


「貴志!」


 私は玄関へと急ぐ。やっと帰ってきてくれた。

 玄関のドアが開いて、貴志の姿が見えた。

 同じ会社に勤務していた時から思っているけど、スーツ姿の貴志はやっぱりかっこいい。

 貴志が顔を上げる。そして、嬉しそうな顔で私の名前を……、


「……美歩みほ


 違った。

 なんだか疲れたような顔で、私の名前を呼んでため息をついた。きっと、仕事が忙しかったに違いない。


「おかえり。残業大変だったでしょ? すぐご飯にするね」

「……はぁ」


 貴志が再びため息をつく。


「いいよ、もう食べてきたから」

「……そっか。ええと、コンビニのおにぎりとか?」


 私は職場で仕事をしながら片手でおにぎりを食べている貴志を想像する。


「でも、それならあったかいミネストローネだけでも食べる? あっためるだけで出来るから」

「いい」

「じゃあ、すぐにお風呂入れようか」

「疲れてるからもういいよ」

「え、そんなのダメだよ」

「いいって言ってるだろ、面倒くさいな」


 靴を脱いだ貴志が私の横を通り過ぎていこうとして、


「あ」


 肩がぶつかっただけで私はよろけて尻餅をついてしまった。

 貴志が私を見下ろしている。心配させまいと私は無理に笑ってみせる。

 そんな私を見て貴志は、


「大丈夫かよ」


 手を貸してくれ、ることもなく私を一瞥して行ってしまった。

 私は一人玄関に取り残される。

 立ち上がれない。なんだか、涙が奥からやってきそうだ。

 私が少し体調を崩しかけていることなんて気付いてくれさえしなかった。

 だけど、しょうがない。最近、貴志は仕事でとても疲れている。

 今日だって、それでイライラしているに違いない。それで、私のことを気遣う余裕がなくなっているんだと思う。

 仕事が一段落すれば、元の優しい貴志に戻ってくれる。

 絶対そうに決まっている。




 ◇ ◇ ◇




 次の日、とても体が熱くて立ち上がれなかった。


「朝飯は?」


 そんな私を見て、貴志の言った言葉がそれだった。頭がぼんやりして、怒りも沸いてこなかった。

 ベッドの脇から、貴志が私のことを見下ろしていた。私はいつも貴志から見下ろされてばかりだ。


「ごめん、ね。ちょっと起き上がれなくて」

「なんだよ。じゃ、コンビニでなんか買って食ってくか」

「……そう、して、くれるかな」


 言葉が途切れ途切れになる。話すだけで結構苦しい。これは、風邪を引いてしまったかもしれない。


「大丈夫か?」


 貴志の手が、私の額に伸びる。貴志の手は冷たくて気持ちがよかった。思わず目を閉じてしまう。

 よかった。

 ちゃんと、私のことを心配してくれている。

 そう、思ったのに。


「うわっ。結構熱いな」


 貴志は、嫌なものでも触ったように慌てて手を引っ込めた。

 そして、言った。


「うつさないでくれよ。大事な仕事があるんだから。美歩みたいに、家で寝てられればいいんだけどな」

「う、うん」


 私は答えるだけで精一杯だった。


「じゃあ、行ってくるな」

「……いって、らっしゃい」


 本当は近くにペットボトルを置いていって欲しいとか、帰りに食べやすいものを買ってきて欲しいとか。

 こんなことを言ったら絶対に困らせてしまうだろうけど、出来れば今日は休んで一緒にいてほしいとか。

 私の中では言えない言葉がぐるぐると回っていた。

 だけど、私は無理矢理にでも笑顔を作って貴志を見送った。もちろん立ち上がれなくてベッドの上からだけど。

 私は、貴志の背中が見えなくなるまで見送っていた。でも、貴志は一度も振り返らずに寝室を出て行ってしまった。

 いつからだろう。貴志が私に対してそっけなくなってしまったのは。

 前はもっと優しかった。

 結婚したばかりの頃に私が体調を崩すと、もっと心配してくれた。一人になんかしておけないからと、仕事を休んでくれたこともあった。料理は出来ないけれど、レトルトのおかゆなんかを買い込んできてくれた。それも、食べきれないくらい。

 そして、そばにいてくれた。

 思い出すと涙が出てくる。熱のせいなのか、悲しいからなのか、わからないくらい視界が滲んでくる。

 でも仕方ない。

 貴志は今、大きなプロジェクトに参加しているらしくて、仕事が忙しい。私なんかにかまけている時間は無い。


『美歩のためにも仕事、がんばるよ』


 忙しくなって帰りが遅くなりそうだと言ったときに、貴志は私に笑顔で付け足した。だから、私は貴志の帰りがどれだけ遅くなっても待っていようと思った。多少の体調不良だって、私一人で大丈夫だ。

 だけど、


「……うう」


 熱がさっきよりも上がってきたようで、天井が回っているみたいだ。目を閉じても、全く眠れそうにもない。

 一人で体調を崩しているとき、人間って不安になる。出来れば、貴志に一緒にいて欲しい。何もしてくれなくても構わない。ただ、隣にいてくれるだけで安心できるのに……。

 体も心も辛くて、頭がぼんやりしているのにさえてしまっているようで眠れそうにない。

 それでも、私はいつの間にか眠っていたらしい。目を覚ましたらカーテン越しの日差しがすでに傾きはじめていた。

 昨日の夜から何も食べていない。さすがにお腹は空いた気がして、私は体を起こそうとした。昨日のミネストローネがまだあるはずだ。さすがにハンバーグは焼く気力も食べる気力も無い。

 きっと夜には貴志がなにか買ってきてくれるだろう。

 少し食べてまたじっとしていよう。そう思ったのだけれど、


「うあ……」


 思った以上に体調が悪いらしく、体がぐらりと傾いた。熱い。

 無理しないでこのまま眠っていた方がいいかもしれない。でも、さすがにトイレだけでも……。

 こんなとき、貴志がいてくれたら手を貸してもらえるのに、と思ってしまう。だけど、今はいない。早く帰ってきて欲しい。

 私の願いが通じたのか、スマホが鳴った。メッセージの送り主は貴志だ。心配して連絡をくれたに違いない。

 私は期待してスマホをのぞき込む。

 そこにあったのは、


『今日は忙しくて帰れそうにない』


 そっけないメッセージだった。

 私のことを心配している言葉もない。

 仕方ない。貴志だって忙しいのだから。

 わかっているのだけれど、くらりと目眩がした。




◇ ◇ ◇




そして、次に意識がはっきりとしたとき、私は宙に浮いていた。

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