第3話 なんのために戻ったの?
気付いたら地に足がついていた。浮いていない。
ここは私の家だ。私と、貴志の、家。
いつものリビングダイニング。そこにあるソファで貴志と桃香が……。
ハッとして、ソファを見る。
そこには誰もいない。家の中には誰もいる気配は無い。
「……夢?」
私が死んだのは夢、だったんだろうか。それにしてはリアルすぎた。
何気なく壁に掛かっているカレンダーを見る。
「どういう、こと?」
おかしい。
今年は2023年のはずだ。それなのに、壁に掛かっているカレンダーは2022のものだった。見間違えるはずがない。私が自分で選んだ大好きなキャラクターのカレンダーだ。今年はまた違うデザインのものを選んでいる。
貴志はカレンダーを去年のものに掛け替える悪戯なんてする人じゃない。
私は机に置かれたスマホの画面をのぞく。やはり、そこには2022年と表示されていた。
スマホが鳴った。貴志だ。
その名前を見るだけで吐き気がする。あれが夢ではないのだと、体の反応が教えてくれる。
『新しく大きなプロジェクトを任されたんだ! これからは帰りが遅くなると思う』
「あ……」
思い出した。あの日だ。
去年の私は何も知らずに『よかったね! がんばって!』などという返事をしたのを覚えている。だって、本当に貴志の頑張りが認められたことが嬉しかったから。
だけど、今は知っている。
「プロジェクトなんて、嘘なくせに……」
新しいプロジェクトなんて本当は無い。浮気がバレないようにするための嘘だ。浮気相手の桃香が自ら言っていた。浮気されている本人がいるなんて知りもしないで話していた。
◇ ◇ ◇
「返事なかったけど、大丈夫だった?」
帰ってきて一番に、貴志は私に言った。
「う、うん。スマホ忘れて買い物行っちゃってて」
私は考えていた言い訳を読み上げるみたいに声に出す。変な声になっていないといいけど。
貴志とうまく目が合わせられない。
「そっか、心配したよ。美歩、体弱いからさ。倒れてるんじゃないかって。これ、お土産」
今更心配しても遅い、と思ってしまう。これが本当に一年前なのだとしたら、早いんだか遅いんだかよくわからない。
貴志が私に何かを差し出してくる。
「それ。私の好きなケーキ?」
「新しいプロジェクトに参加できることになったからさ。お祝いというか。って、自分で言うのも変だから、いつも支えてくれてる美歩に」
「あ、ありがと。それと」
あれが本当のことだったら絶対に言いたくない言葉を私は頭の中に思い浮かべる。でも、言わないなんて変だ。愛する夫がせっかく新しいプロジェクトに参加できることになったんだから。ただ、それが本当のことだとしたらの話。
「おめでとう」
「うん。ありがとう」
へへっと貴志が嬉しそうに笑う。
これが本当なら、それでいい。あれは悪い夢だったと思うことにする。
貴志は私のためにケーキを買ってきてくれたり、私の体が弱いからと心配してくれたりする優しい夫だ。
これが嘘だとしたらかなり酷い。
◇ ◇ ◇
貴志の言動に怪しいところはなかった。怪しいところと言えば、一年後よりもずっと優しいということだけだ。考えてみれば一年前は貴志があんなことになるとは思わなかった。
逆にこんなに優しくしてくれていたことが信じられないくらいだ。あれを夢だと思いたくなる。
けれど、やっぱり気になる。貴志に裏切られたと思った、あの感覚が忘れられない。
「貴志、お風呂は?」
夕食を食べ終わってくつろいでいる貴志に私は声を掛けた。貴志は晩ご飯を食べてからずっとスマホをいじっている。こんなにスマホを手放さない人だったっけ? と不審に思った。浮気をしているのではないかと疑っているからそう見えるだけかもしれない。前の私は貴志を疑いもしていなかったから、そこまで気にしていなかった。
どちらにしても、お風呂に入っているときならスマホを手放すに違いない。そのときに怪しいやりとりがないか確認する。
やましいところが無ければ、見ても問題はないはずだ。
「入れてもらっていいかな。これらか忙しくなりそうだから、早く寝られるときには寝たいし」
何も疑いもせず、貴志が答える。
そして、貴志がお風呂に行くとき私は気付いてしまった。
「貴志? スマホ、お風呂にまで持ってくの? 濡れちゃったら大変だよ?」
思わず聞いてしまう。
「あ、えーと、仕事の連絡来るかもしれないからさ」
貴志はそそくさとスマホを持ってお風呂に行ってしまった。去年の私だったら何も思わなかったかもしれないけど、今の私はそんな行動すら不審に思ってしまう。以前はスマホを持って風呂には行かなかったはずだ。
『風呂は落ち着くところじゃなきゃな』
と、貴志自身が以前言っていたので彼の好きな香りの入浴剤やマッサージ用の小物なんかが揃っているくらいだ。それを、仕事の連絡がくるかもしれないからとスマホを持って行くなんて怪しすぎる。
漫画か何かでも急にお風呂にスマホを持っていくようになったら浮気を疑えとか書いてあった気がする。
「怪しいというか、確定、だよね」
私は一人呟く。
「あれが夢とか信じられない、よ……。貴志……」
私はどうやら一年前に戻ってしまったらしい。
どうしてそんなことが? と不思議に思うけれど、思い当たるのは一つだ。
あまりに悔しくて、悲しくて、このまま成仏なんて出来ないと強く思ったこと。
「う……」
だけど、再び貴志が浮気していくところを見なければいけないなんて考えただけで頭が痛くなった。どうせなら、貴志と結婚する前に戻して欲しかった。
せっかく時間が戻ったのに、すでに貴志が浮気をしているところなんて酷すぎる。
辛くてソファに倒れ込む。貴志の匂いがする。
「ぐっ」
前は大好きだったはずなのに、今は吸い込むことが気持ち悪い。気持ち悪くて、涙が出てくる。
今もお風呂の中で桃香とやりとりでもしているに違いない。私に見られなくないようなやりとりを。
「美歩! 大丈夫!?」
貴志がお風呂から出てきて私を見つけるまで、私はそこを動けなかった。
「また具合悪くなった?」
「う、うん。ちょっとね」
貴志が手を差し伸べてこようとするけれど、私はその手をやんわりと押し戻す。笑顔がうまく作れない。今は優しくしてくれているけれど、本当は酷い人間なのだと知ってしまったから。そして、今現在も私のことを裏切って浮気していることを知っているから。
新しいプロジェクトなんて、本当は無いことを知っているから。
「大丈夫だから、先寝てて。いつも迷惑掛けてばっかりだから……。明日からのために少しでも休んで、ね」
我ながらがんばった。
このまま顔を見ていたくない。すぐにでも私の目に入らないところに行って欲しくて出た言葉に自分で吐き気がした。
「そう? じゃあ……」
貴志が行ってくれて心底ほっとした。
体に力が入らない。
こんなときには、また体調を崩してしまいそうな気がする。精神的に参っているときにも、私は体調を崩しやすい。
そんな私でもいいと言ってくれた貴志なのに。
「本当に、どうして……」
どうして、再び私に対して辛く当たるようになっていってしまう時期に時間を戻したのだろう。これから貴志が私のことなんかどうでもよくなって浮気相手の方に行ってしまうのを見せつけるためだろうか。
「そんなの、ひどい……」
それに、私は一年後に風邪をこじらせて死んでしまう。
それならせめてもっと昔に戻りたかった。一年で何が出来るというのだろう。
しかも、風邪なんかこじらせたくらいですぐ死んでしまうようなこの体で。
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