第5話 スポーツクラブ

 ごくりと私は唾を飲み込んだ。こんなところに来るのは初めてだ。私の人生で今まで一度も来たことのなかった場所だ。来ようと考えたこともなかった。

 でも、と私は拳を握る。

 私は一年後、死ぬ。

 夫の貴志に裏切られたままで。

 だったら、せめて前の一年と違うことをしたい。


(たのもう!)


 心の中で叫びながら、私はそこへと一歩踏み出した。

 これって、道場破りの言葉だっけ? なにかのアニメかドラマなんかで聞いたことがある気がした。とにかく、気合いを入れようと思った結果の言葉だ。


「こんにちはー」


 受付にいるポロシャツを着たお姉さんがぱっと明るい笑顔で私に挨拶してくれた。なんというか、スポーティーな感じの女性だ。こんなところにいるから当たり前なのかもしれない。

 なにしろここはスポーツクラブだ。

 これまでの私に全く縁の無かった場所と言ってもいい。


「あ、そっ、その、こ、こんにちは」


 私はおどおどと言ってから頭を下げる。多分、挙動不審だ。

 こういうところに慣れていないから仕方ない。結婚してから働いていないから、貴志以外の人と直接話すことすらあまりない。

 何を言えばいいのかわからなくなる。


「もしかして初めての方ですか?」


 屈託の無い笑顔で言われて少しほっとした。

 私みたいなどう見てもひ弱そうな人間が、こんなところに何しに来たとか言われるかと思った。


「は、はい!」


 それでも緊張から返事に無駄に力が入ってしまう。


「初めてなら見学も出来ますよ。もちろん、体験もお気軽に出来ますので」


 私の緊張をほぐすかのように受付のお姉さんが再びにっこりと笑う。きっといつも人と接していて慣れているんだろうなと思う。

 昨日の夜のテレビを見てからいてもたってもいられなくて、ここに来てしまった。私になんか絶対無理とか、出来るはずないとか、否定的なことがいっぱい頭に浮かんだ。

 貴志に話したら絶対に止められてしまう。なにしろ、いつもより遠くまで歩いただけでへばってしまう私だ。昨日は正直絶望した。でも、ここに来たらなんとかなるんじゃないかと、そう思ってしまった。

 でも、やっぱり場違いな気がして逃げ出したくなっている自分がいる。今にも引き返そうかと悩んでいると、


「あれ?」


 どこかから声がした。聞き覚えのある声だ。

 そんなの、この施設の中には一人しかいない。


「えっと、この前の?」


 その女性がこっちに近付いてくる。それはそれはうっとりするような快活な足取りで。

 見間違えるはずがない。


「コーチのお知り合いですか?」

「知り合いというか、私が吹っ飛ばしちゃって。あれから大丈夫でしたか?」

「吹っ飛ばした!? ダメじゃないですか! 岸本きしもとコーチは筋肉の塊なんですから! お怪我はありませんでしたか!?」

「えっ!? そのっ! あ、あのときはすみませんでした!」


 私は床につかんばかりに頭を下げた。よかった。ようやく謝れた。あのときは何も言えなかった。


「いえいえいえ。私も華麗に避ければよかったんですから」


 そう言って、岸本さんは朗らかに笑った。やっぱり、好きだ。この人の笑い方。

 岸本さん。岸本コーチ。岸本翔子しょうこさん。

 この人の名前は昨日テレビで知った。

 昨日はテレビの向こうの人だった。

 そんな岸本さんが私に言った。


「それにしても、こんなところで会うとは思いませんでした。もしかして、会員の方ですか?」

「……いえ」


 どうしよう。これは運命だろうか。

 ここに来てもすぐ会えるわけではないと思っていた。


「初めて来られたみたいなので、見学か体験の説明をさせていただこうかとしていたところだったんですよ」


 受付のお姉さんが岸本さんに説明してくれる。


「そうなんですか。せっかくなので、見学されていきますか?」

「は、はい!」


 思わず私は頷いていた。さっきまでのやっぱり帰ろうか、なんて気持ちは段々と消えかけている。


「ゆっくり見ていってくださいね」


 岸本さんが行ってしまう。

 その後ろ姿にさえ、思わずため息が漏れる。


「岸本コーチ、かっこいいですよね」


 受付のお姉さんの言葉に、私は勢いよく頷いてしまった。

 なんだか自分が自分じゃないみたいだ。ここにいると元気になれそうな気がする。

 お姉さんの案内で、私はスポーツクラブを見て回ることにした。初めての世界だった。どんな人たちが来ているのかもよくわからなかった。


「は~、さっぱりした。やっぱり運動の後のサウナは最高ね」

「あなた、毎日それ言ってるじゃない」

「そう? だって最高なんだから仕方ないじゃない」


 あはははは、と楽しそうに笑って年配のご婦人たちが私の横を通っていく。

 スポーツジムにもサウナなんかあるんだ、となんだか感心してしまう。私はスポーツの後のサウナがどんなものか知らない。


「お疲れ様です」


 受付のお姉さんがぺこりと頭を下げる。


「また明日ね」


 ご婦人たちが手を振る。お姉さんが言った。


「あの方たちは平日ほぼ毎日来られるんですよ」

「毎日!」


 私は思わず驚きの声を上げてしまう。


「ここに来て運動することもですが、みなさんと話したりするのが楽しみなんですよ」

「へぇ~」


 本当に私の知らない世界だ。

 そして、


「わぁ!」


 今度はあまりにもスポーツクラブらしい光景に声を上げた。よくわからないけれど、すごいマシンがずらりと並んでいる。よく見るその場で走るやつとか、胸筋を鍛えるようなやつ。

 けれど、今はマシンを使っている人は少ない。若い人が数人いるくらいだ。


「こういうの使う人はあまりいないんですか?」

「いえ。時間帯やその日によりますね。夜だと結構皆さん使ってらっしゃいますよ。今の時間だと、ご年配の方が多いのでプールが比較的多いです」


 そういえば、ざっと見た案内にプールもあると書かれていた。


「だから余計にサウナがいいってことですかね」

「ですね。暖まって気持ちいいんですよ」

「入ったこと、あるんですか?」

「はい!」


 お姉さんが元気に答えてくれる。


「それと、プールだけじゃなくて他にも色々あるんですよ。こちらへどうぞ」


 奥に連れられていくと、今度は小部屋に続くドアがいくつか現れた。お姉さんがドアをノックする。


「失礼します」


 思っていたより意外と広い部屋の中では、私でも見たことのあるバランスボール(私の実家でも母が買って放置していた)を使って運動をしていた。


「こういったレッスンもあるんですよ。ヨガとかストレッチとか、他にも色々なプログラムをご用意しています。会員の方なら予約を取れば、自由に受けていただくことができます。もちろん、初心者向けのレッスンもありますので無理のない範囲でできますよ」

「そうなんですね……」


 私は運動をしている人たちを眺める。

 時間のせいかやっぱりどの人たちも楽しそうだ。


「おっとっと!」


 バランスボールに座って体をひねっていたおばあちゃんがバランスを崩しそうになる。だけど、すぐに自分で持ち直した。


「あー、危なかった」


 しかも笑っている。


「気をつけてくださいね。無理のない範囲の動きでいいですからねー」


 本人もバランスボールに乗ったまま、コーチがおばあちゃんに話しかけている。あんなポーズをしながら他の人のことを気に掛けることができるなんてすごい。

 むしろ、あのおばあちゃんがすごい。私だったら絶対に転んでいた。私の方がずっと若いのに。

 自分だったらと考えると、あのまま転んでしまって、もう運動なんて止めておこうと思ってしまったと思う。

 教室の中の空気は明るいままレッスンが進んでいく。

 私はその様子に見とれていた。

 みんな、なんて楽しそうなんだろう。私は運動が楽しいなんて思ったことはなかった。体育なんてずっと苦痛だった。見学じゃないときでも、人に自分が運動しているところを見られることが嫌だった。いつだってうまく動けなかったから、みんなに笑われるのではないかとずっとビクビクしていた。

 なのに、あの人は失敗したのに笑っている。

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