第4話 偶然の出会い
新しいプロジェクトが始まって(本当はそんなの嘘だけど)すぐの頃は、遅くならない日もあった。いつ早く帰ってくるか、いつ遅く帰ってくるか、それはわからない。貴志が連絡をしてくるのはほとんど当日になってからだった。
今考えてみれば、仕事の予定がわからないなんておかしいと思う。一年前の私なら疑いもしなかった。
なんて馬鹿だったんだろう。
戻ってきたのだから全部わかっているというのならよかったのだけれど、今日が早く帰ってくる日かなんてさすがに覚えていない。なにしろ一年も前のことだ。しかも、あの頃の私はいつ貴志が帰ってきてもいいように毎日夕飯の用意をしていた。帰ってくるかこないのか、わからない貴志のために。
「はぁ」
私はため息を吐く。
買い物には出てきたものの、貴志のためにと思うと料理をする気力も買い物で食材を選ぶ気力も起きない。
顔を上げる力も出ない。さっきから地面しか見ていない気がする。
気分が悪い。やっぱり帰った方がいいかもしれない。このままでは車にでも轢かれて、今すぐに死んでしまいそうだ。
私はくるりと踵を返そうとした。
そのとき、
「……!?」
誰かにぶつかった。壁にぶつかったような絶望感。なんだかとても強くて、絶対に敵わない。そんなものにぶつかったような……。そして、あのときと同じように私は尻餅をついて転んでしまった。
まさか、また貴志……? こんなところに?
恐る恐る顔を上げると、
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
見知らぬ女性が、私に手を差し伸べていた。
「……あ」
驚いた。てっきり、貴志かと、もしくは大きな男性かと思った。あまりにびくともしなかったから。私があまりにも軽々と転ばされてしまったから。
それなのに、当たった相手は女性だった。それも私とそれほど変わらない小柄な体型だ。でも……、なんだか美しいと思った。どこが、というのはよくわからない。自信、みたいなものだろうか?
年齢は多分、私より少し上くらいだろうか。30過ぎくらい? 健康そうに日に焼けていて、色白を通り越して不健康そうとか言われることのある私とは全然違う。
「あの? お怪我、してませんか?」
女性が心配そうに私のことをのぞき込んでくる。それでようやく我に返った。私は慌てて立ち上がろうとした。だけど、バランスを崩してよろけてしまう。断じて桃香のようにわざとじゃない。でも、わざとじゃないのにふらついてしまうようなこの体が恨めしい。
「危ないっ!」
今度は転ばなかった。私をそっと支えてくれたのは、目の前にいる女性だった。なんだろう。貴志に支えられたときよりも、とても安心感があった。
「大丈夫、ですか?」
再び女性が聞いてくる。
「は、はい!」
私はさっきから何も答えていないことに気付いて、なんとか返事だけした。慌てて女性からも離れる。
「よかった」
女性が笑った。私もつられて、笑う。うまく笑えているかはわからなかったけど。
それから、言った。
「怪我も無いです。大丈夫です」
打ったところが少し痛い。が、お尻から転んだおかげで、特に怪我はなさそうだ。それに、二回目は目の前の人が支えてくれた。
「よかったです。でも打ち身になってるといけないので、後から見た方がいいですよ。あまりひどかったらちゃんと冷やしてくださいね。じゃあ」
爽やかに笑って、女性が去って行く。
あんまりその様子が颯爽としていて、私は声も掛けられずその姿を見送ってしまった。
後ろから見てもすらりと伸びた背筋。歩く姿もかっこいい。私と違って堂々としている。
私は、その背中を見えなくなるまでぼうっと眺めていた。
そして、気付いた。謝るのを忘れていた。
あの女性にぶつかってしまったのは、私が突然後ろに向きを変えたからだ。それなのに、あの人は嫌な顔一つせずに私に手を差し伸べてくれた。気遣ってくれた。
気付いたときにはもう遅かった。女性の姿はすでに消えていた。歩くのも私よりずっと速かった。追いかけてもどっちに行ったのか、もうわからない。
ちゃんとお礼すら言えないような自分が情けない。
◇ ◇ ◇
「うわぁ」
次の日、見てみるとやっぱりお尻に痣が出来ていた。あの人が言ったとおりだ。そういえば、冷やした方がいいとか言っていた。冷蔵庫に入っていた保冷剤を取り出してお尻に当ててみる。
昨日は貴志の帰りが遅かった。結局夕飯は作れなかったが、それでよかった。あまり食欲も無かったので、私の夕食は買い置きしてあったレトルトの雑炊で済ませてしまった。そもそも、いつも私の食べる量は少ない。食事なんてほぼ貴志のために作っているようなものだ。
貴志は眠るためだけに帰ってきて、朝ご飯だけ食べて出て行ってしまった。本当はそれすら作る気力は無い。でも、がんばって用意した。
それから結構お尻が痛いことに気付いて見てみたら、こんなことになっていた。前に、というか一年後に貴志にぶつかられたときは家の中だったから大丈夫だった。でも、さすがにアスファルトの上で転けるとこうなってしまうらしい。
「それにしても……」
私は呟く。
こっちがぶつかっておいてこんなことを思うのは失礼だ。だけど、と私は思う。あの人はびくともしなかった。そんなに勢いをつけて振り向いたつもりはない。私の体重なんてたかが知れている。食が細い私は、他の人よりも痩せている。
それにしても、なのだ。
同じくらいの背丈の女性にぶつかって跳ね飛ばされるなんて。
「私って、なんて弱いんだろ……。だけど……」
あの人にぶつかった感じ。
貴志にぶつかったときよりも、ずっと強いなにかに跳ね返された気がした。まるで大きな壁みたいな。
「気の、せいかな? でも、あの人すごく健康的な感じだったなぁ」
自分と比べてあまりに生き生きとしているように見えたから、思わず羨ましくなった。
「私も健康になれば少しは……?」
そうだ、と思いたくなった。
だって、どうせ一年後には風邪をこじらせて死んでしまうのだ。もしかして、少しでも健康になれば寿命が延びるかもしれない。
そうでないとしても、健康に一年過ごせるならその方がいい。
「うん……」
◇ ◇ ◇
「大丈夫か?」
家に帰ってきてぐったりしている私を見た貴志は、気遣うように声は掛けてくれた。どこまで本気なのかわからないけど、一応心配そうな声だった。
「どうしたんだよ」
「ちょっと遠くのスーパーに足を伸ばしてみようと思ったんだけどね」
「まさか、歩いて行ったのか?」
「そうなの」
私は苦笑いしながら答える。まさか体を鍛えるためにウォーキングをがんばろうと思ったなんて言えない。
「そんな無理して、また体調でも崩したらどうするんだよ」
貴志がため息を吐く。
心配、してくれているのだろうか。
「で、夕飯は?」
「それが、えーと……」
ちょっと言いにくい。
「帰ってくるので精一杯で、まだ買い物出来てないの」
「えー」
貴志が、がくりと肩を落とす。
「なんだよ。今日はせっかく帰ってこれたのに。しょうがない」
言いながら、貴志はちらりとスマホを見る。
「じゃ、俺外で食べてくるわ。ちょっと呼び出し掛かったし、ちょうどいいや」
「え?」
一瞬何を言っているかわからなかった。
呼び出し?
「遅くなるかもしれないから先寝てて」
そうして、貴志は再び出て行ってしまった。
呼び出しって、それはもしかして桃香なんじゃないの?
その可能性しか私の頭には浮かばない。
心配してくれたかと思いきや、自分の都合だけで私を置いて出て行ってしまった。しかも、疲れてへとへとになった私を残して。
「こういうときって、せめて俺が買い物に行ってこようかとか、今日くらいは食べに行こうかとか言ってくれない?」
新しいプロジェクトが始まる前の貴志なら少なくともそうだったと思う。もう忘れてしまった。戻ってきたときは優しいことに驚いた。だけど、また同じだ。一年後の貴志と同じになっていってしまう。
「やっぱり私なんてもうどうでもいいんだ」
泣きっ面に蜂、というか慣れないことをした体はちゃんと動いてくれそうにもない。
「やっぱり私が健康になろうとか、無理、なのかな……」
せっかく少しは私に出来ることがあると思ったのに。
またふらついてしまった拍子に、机の上にあったテレビのリモコンに手が触れた。
テレビから聞き慣れない賑やかな声が聞こえてくる。
そこにいたのは……、
「え、この人……!?」
私は思わず声を上げる。
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