第5話

 雪化粧を纏うブナ林で再会した葵は、見に見えて衰弱していた。

「やあ、久しぶりだね」

 葵が微笑みかける。その儚げな佇まいに北斗は胸が締め付けられた。

「まだお父さんと二人暮らしなの」

「うん、そうだよ」

「あの家を出よう」

 北斗は葵を真っ直ぐに見つめる。しかし、葵は弱々しく俯く。


 不意に、後頭部に衝撃が走った。視界がぐらりと揺れ、北斗は白い大地に倒れ込む。冷たい雪が頬に触れ、生暖かいものが額を伝い落ちるのを感じた。

 焦点が揺らぐ。雪上に鮮やかに赤い花弁が散り、やがて闇が訪れた。


***


 薪の爆ぜる音に目を覚ました。

 側頭部に鈍痛を感じて北斗は苦悶に呻く。周囲を見回すと、壁一面の書架に囲まれた窓のない部屋だ。揺らめく暖炉の炎が部屋を照らしている。

 立ち上がろうとしたが、手足は縄で縛られ自由を奪われていた。


「お前は葵を連れ去ろうとした」

 低い男の声だ。前髪を乱暴に掴まれ、無理矢理顔を上に向けられる。

 目前に髭面の男の顔があった。落ちくぼんだ目に憑かれたような光を宿している。辰巳孝太郎だ。北斗は背中を這い上がる恐怖に耐えきれず、顔を逸らした。

「最初は家庭教師だ。卑猥な眼差しで葵を見ていた」

 孝太郎は北斗を括り付けた椅子の周りをゆっくりと歩き出す。


「学校教諭、庭師、ゴシップ雑誌の記者、そしてお前もだ」

 孝太郎は怒りに任せて椅子を蹴る。背後で怯える声がした。拘束されて振り向くことはできないが、この部屋には葵がいる。

「葵は弱っている。やめろよ、あんなこと」

 北斗は震える声を振り絞って叫ぶ。

「お前、やはり見ていたのか」

 孝太郎の邪悪な笑い声が部屋に響く。


「お前もが目的なんだろう」

 孝太郎は北斗を殴り倒す。北斗は椅子に縛られたまま無様に転倒した。

は生きた知識の宝庫だ。葵が取り入れた本の情報、経験、感情すべて複雑に混成にし具現化する。AIなんか取るに足りない。はまさに深淵を覗く体験だ」

 孝太郎は興奮して悦に入る。


「妻はこの屋敷のシャンデリアで首を吊った。その夜、葵の感情は昂ぶり、私はすばらしい読書体験をした」

 彼がベストセラー書籍を書けたのは、のおかげだったのだ。

「感情を激しく揺さぶる体験が必要なんだよ。例えば、友達の無惨な死だ」

 孝太郎は手斧を持ち、床に転がって動けない北斗に近付いていく。


「ここはブナの森だ。証拠隠滅が早い」

 北斗は苔の絨毯の上にびっしり生える白い茸の光景を思い出した。孝太郎は葵を連れ出そうとした者を殺害し、森に死体を埋めていたのだ。

「よく見るんだ、葵」

 孝太郎は手斧を振り上げる。鈍色の刃が暖炉の火を反射して光る。

「や、やめろ」

 北斗は必死に身悶え暴れるが、縄が食い込むばかりで逃げ出すことはできない。


「父さん、もうやめよう」

 葵が叫ぶ。火かき棒を持ち、暖炉の傍に立つ。孝太郎は斧を振り下ろす手を止めた。

「北斗は友達なんだ」

 炎が葵の頬を赤く照らしている。その目は怒りと悲哀を湛えていた。

「私に反抗する気か」

 孝太郎はマホガニー製のテーブルに手斧を突き立て威嚇する。葵は肩を震わせるが、孝太郎から目を逸らさない。


「ぼくは父さんの所有物じゃない」

 葵は火かき棒で暖炉の燃えさかる薪を掻き出した。炎はたちまち絨毯に燃え移り、そして書架の本に燃え広がる。部屋は瞬く間に橙色の光と熱に包まれた。


「こんなもの、なければ良かった」

 葵は燃える薪を拾い上げ、躊躇いも無く背中に押しつけた。

「何をしている、葵」

 怒りに我を忘れた孝太郎が葵に掴みかかる。葵は薪を投げつけ、孝太郎は悲鳴を上げる。孝太郎が怯んだ隙に葵は北斗の元へ走り、縄を解いた。


「ここは地下だ。部屋を出て右に走れば古い坑道に繋がっている。坑道の先はブナの森のだよ」

「君も行こう」

「ぼくは行けない。母は父さんの行為を見て死を選んだ。それに、ぼくは父さんが殺した彼らを森に埋めるのを手伝ったんだ。この森は彼らの墓標だ。だから、ぼくは行けないんだよ」

 葵は物憂げな笑みを浮かべる。

 孝太郎が半狂乱になり、襲いかかる。葵は扉を開け、北斗を突き飛ばした。


 鍵がかかる音が無情に響く。慌てて飛びついてドアノブを回しても開く気配はない。扉の向こうから熱風と煙が吹き出してきた。

「くそっ、馬鹿野郎っ」

 北斗は廊下を走り出した。突き当たりの鉄のドアを開けると、土と腐った木の匂いと共に冷えた空気が流れ込んだ。出口の見えぬ暗い坑道が伸びている。振り返ると、絨毯に炎が燃え移り天井を焦し始め、煙が充満している。

 北斗は意を決して、真っ暗な坑道を走り出した。


 泥濘に足を取られ倒木に躓きながら、遠く微かな明かりを目指して真っ直ぐに走った。坑道を飛び出すと、そこはブナ林だった。木立の隙間から見える空が赤に染まっている。炎が天を焦し、洋館が焼け落ちて行くのが見えた。

 北斗は星の瞬く夜空を見上げ、呆然と立ち尽くす。遠いサイレンの残響がいつまでも耳に残っていた。


***

 

 翌朝、警察と消防団、町の有志が集まり、火災現場の片付けが始まった。

「可哀想に、遺体は孝太郎さんだろうね」

 野次馬たちの噂話から焼け跡から見つかったのは、孝太郎の遺体だけだと知った。葵は生きているのだろうか。北斗は煙の燻る瓦礫の山を葵の姿を探して歩く。

 彼は最後に父親に抵抗し、北斗を助けた。出会わなければ良かったのだろうか、北斗の目に涙が滲む。


 真っ黒に焼け落ちた梁の隙間に、雪のように白い本を見つけた。他の本はすべて焼けてしまったようだが、この一冊だけは不思議と無事だった。

「一緒に行こう、葵」

 北斗は本を拾い上げ、丁寧に煤を払う。コートの胸元に大切に隠し、密かに焼け跡から持ち出した。

 滑らかな手触りのその本は、微かにひと肌の温もりを感じた。

 ブナ林の隙間から覗く鈍色の空から雪がはらはらと舞い落ち始めた。北斗は胸元の本を守るように強く抱きしめた。



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深淵の書庫 神崎あきら @akatuki_kz

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